今回は、1553年〜1564年にかけて続いた川中島の戦いについてわかりやすく丁寧に解説していきます。
上杉謙信・武田信玄・川中島
川中島の戦いは、川中島という場所で起こった上杉謙信と武田信玄の戦いです。
最初に、「川中島」「武田信玄」「上杉謙信」の3つのワードについて簡単な説明をしておきます。
川中島
川中島は、今の長野県長野市に位置します。
川中島は、関東から京に向かう際の要所でした。関東から京に向かうには太平洋沿いを進むパターンと、迂回して日本海沿いを進むパターンの大きく2つの経路があります。
このうち日本海沿いルートを通る際に、川中島は重要な拠点となりました。
当時、太平洋沿いルートには今川氏などの勢力があり、これらと戦いたくない人たちは、京に向かうために川中島を経由する日本海沿いルートを望みました。
武田信玄
1521年に、甲斐国の守護、武田信虎の子として生まれます。
1541年、諸事情あって父の信虎を甲斐から追放。武田家の家督を継ぎ、甲斐国の守護になります。
信玄はその後、上洛のための領土拡大を目指し、信濃を最初の目標とします。太平洋沿いの上洛ルートを避けて、信濃から川中島を経由して日本海沿いに京へ向かおうとしたのです。
上杉謙信
1530年に、越後の守護代、長尾景虎の子として生まれます。
1548年、病弱の兄長尾晴景に代わり家督を相続して、1551年には戦乱の世で乱れていた越後の平定に成功。
すると、信濃や関東のトラブルに巻き込まれ、武田信玄とも対立するようになります。
武田信玄と上杉謙信は、信玄の方が9つ年上ということになります。
地図の緑色のアイコンが川中島の場所。上杉謙信の拠点は赤。武田信玄の拠点は黄色です。
信濃・甲斐・越後の位置関係は以下を参考にしてみてください。
川中島の戦いはなぜ起こったのか?
戦いの発端は、上で述べたように武田信玄が信濃を侵略しようとしたことでした。
1542年、信玄は信濃攻略を開始します。信濃の諸大名を次々と撃破していきますが、信濃北部を支配する村上義清が強敵として立ちはだかります。
1548年〜1550年にかけて、村上義清は襲いかかってくる信玄軍を蹴散らし、大勝利を収めます。
外から攻めてダメなら、内側から村上軍をぶっ壊してやるよww
武田信玄は正面突破の方針を転換。村上氏の家臣たちを篭絡し、村上軍の内部崩壊を狙いました。
これは効果テキメンで1553年、武田信玄はリベンジ戦で村上義清を敗走させ、その領地を奪いました。
そして、領地を奪われた村上義清は、高梨氏という一族のツテで越後の上杉謙信に助けを求めます。
上杉謙信はこの援助要請に応じて、信濃攻略を進める武田信玄と戦うことになります。こうして起こったのが、川中島の戦いです。
上杉謙信が、村上義清の助けに応じた背景には
という2つの理由があったものと思われます。
第1次川中島の戦い
1553年8月、越後から南下する上杉謙信と、甲斐から北上する武田信玄は、川中島で対峙します。
両者小競り合いが続き、戦況は上杉謙信が有利に進んでいきます。謙信は、川中島の南に位置する塩田城まで攻め込みますが、武田信玄は決戦を避けて塩田城に篭って専守防衛の構えを見せます。
しかし長期戦を望まなかった謙信は1553年9月、越後に撤退。10月には信玄も甲斐に帰還し、両者の戦いは終わります。
戦いが終わるとすぐ、上杉謙信は京に上洛して後奈良天皇に謁見。戦乱平定の宣旨をもらいます。
謙信は、「戦乱を終わらせるためなら敵と戦ってもいいよ!」という天皇からのお墨付きをもらい、戦いにおいて優位な立場に立とうと考えたのです。
謙信が川中島からあっさり撤退したのも、上洛して戦いの大義名分を得ることを優先したためではないか?と言われています。
第2次川中島の戦い
第1次川中島の戦いで、武田信玄は上杉謙信を強く警戒。
一度戦ってわかった。上杉謙信はめちゃくちゃ強い。決して正面衝突してはならない・・・!
1554年、武田信玄は隣国の相模・駿河と同盟関係を結びます。(甲相駿三国同盟)
これで、背後を気にせず信濃に攻め込める!
上杉謙信は厄介だから、村上氏の時みたいに謙信の家臣を篭絡してやるかww
同年(1554年)、上杉謙信の家臣だった北条高広が、武田信玄にそそのかされて反乱を起こします。
さらに、その翌年(1555年)、川中島のやや北に位置する栗田氏の家督争いに武田信玄が介入。これに上杉謙信も介入し、両者は再び川中島で衝突することになります。
部下をそそのかしたり、川中島を荒らしたり、武田信玄はけしからんやつだな。
・・・潰すか。
1555年7月、両者は川中島にある犀川という河岸で再び対峙します。
双方互角の戦いを続けますが、両者迂闊に動くこともできず、戦いは長期化。帰国を望む兵も増え、武田・上杉両軍の兵たちの士気は低下していきます。
200日にも及ぶ持久戦が続き、ジリ貧状態が続くと武田信玄は同盟関係にある駿河の今川義元に和睦の仲介をお願いします。
同じくジリ貧で苦しんでいた上杉謙信も、この和睦に応じ、今川義元の仲介で両者の間で和睦協定が結ばれました。
和睦協定の中には、「武田信玄は、奪った信濃北部の領地を元の領主に返す」という約束があり、武田信玄の信濃攻略は後退することになります。
戦い自体は両者引き分けですが、戦いの成果を見るなら、上杉謙信の勝利と言えるかもしれません。
第3次川中島の戦い
・・・しかし、武田信玄には和睦協定を守るつもりなど最初からありません。
武田信玄は再び信濃北部を奪い返すため、上杉謙信の家臣への離反工作を再開。
さらに1557年2月、雪で越後の上杉謙信が動きにくいタイミングを狙って、武田信玄は川中島の北部に位置する葛山城を攻め落とし、堂々と和睦協定を破棄しました。
信玄め、最初から約束を守るつもりなどないではないか!
俺は約束を簡単に破るやつは大っ嫌いなんだ。次こそ信玄を成敗してやる。
こうして1557年4~6月にかけて、またもや川中島を舞台に武田VS上杉の戦いが起こります。
ここでも武田信玄は、上杉謙信と正面から戦うことを避けました。武田信玄は、信濃北部へ侵攻しますが、上杉軍がやってくると撤退し、上杉軍がいなくなると再び侵攻を再開する・・・を繰り返します。
すると、当然、上杉軍がどんどん川中島付近を制圧していくことになりますが、これは武田信玄の仕組んだ策略でした。
上杉謙信が川中島に気を取られている隙に、その西方面から越後めがけて進軍するぞ。
これで上杉謙信も、川中島から撤退せざるを得ないだろう。
武田信玄にハメられた上杉謙信は川中島の進軍をやめ、川中島の西方面にある平倉城方面に兵を展開。7月〜8月にかけて、小競り合いが繰り返されますが、戦いはまたもや引き分けに終わります。
信玄め、いつも俺の攻撃を巧みに受け流しやがって・・・。
このままだと信濃北部を守るために、何度も何度も出陣しなければならず、ジリ貧になってしまう・・・。
信濃に攻めるたびに上杉謙信と戦うのは一苦労だ。
この状態が続く限り、信濃攻略はできず、兵を浪費することになる。かといって、上杉謙信とまともに戦うもキツイし、八方塞がりだなぁ・・・。
現状打破を望む両者は、4回目の戦いでいよいよガチンコの正面対決に臨むことになります。
第4次川中島の戦い
1559年、上杉謙信は再び上洛し、13代将軍の足利義輝から、
・関東管領への就任
・信濃国への支援
を正式に認められます。
上杉謙信の前任の関東管領は上杉憲政という男。1552年に相模の北条氏康に敗れ、上杉謙信を頼って越後に逃走していました。
関東管領に就任予定の謙信は、前任の上杉憲政の意思を受け継ぎ、北条氏康の討伐を胸に決意します。
1560年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れました。
これによって相模(今川氏)・甲斐(武田氏)・相模(後北条氏)の甲相駿三国同盟の一翼が崩壊すると、上杉謙信はこれをチャンスと考え、いよいよ行動を起こします。
1561年3月、上杉謙信は越後から南下し、北条氏康の居城「小田原城」に攻め込みました。
しかし、小田原城は鉄壁の守備で有名なお城。戦上手の謙信といえど簡単に落城させることはできません。
苦戦を強いられていると、武田信玄はそのタイミングを狙って再び信濃北部へ進軍。川中島に海津城を築き、上杉謙信を挑発します。
また、武田信玄か!
やはり信玄がいる限り、相模攻略は不可能だ。先に武田信玄を潰すしかあるまい!!!
武田信玄の出陣で劣勢に立たされた謙信は小田原から撤退し、1561年8月、武田信玄のいる川中島へ出陣します。
一方の信玄も上杉謙信との決戦を予見し、大軍を率いて自ら出陣します。
8月16日、上杉軍は全兵力13,000のうち、8,000を川中島の南に位置する妻女山に陣取り、残り5,000は不測の事態に備え善光寺に構えます。
一方の武田信玄は茶臼山を経由して8月29日、妻女山の北に位置する海津城に入ります。
戦況はこんな感じです。
南下する上杉軍が南に拠点を持ち、北上する武田軍が北に拠点を持つという非常にいびつな戦況図になっています・・・。
妻女山には、武田軍に補給路を絶たれるデメリットがありますが、川中島一帯を見渡せるメリットもありました。謙信は武田軍に攻め込まれるリスクを冒してでも、敵の情報を知れる妻女山を拠点に選んだのです。
鶴翼の陣VS車懸かりの陣
先に仕掛けたのは武田軍。
家臣の山本勘助らは武田信玄に「キツツキ作戦」なるものを提案します。
部隊を二つに分けて、一方が妻女山へ奇襲。
すると、いずれ上杉軍は山から降りてくるだろうから、そこを妻女山を降りた八幡原で待ち伏せする。
そして奇襲部隊が妻女山から進軍して敵の背後を攻めれば挟み撃ちの完成。
こうなれば、いくら強い上杉軍といえども、ひとたまりもないでしょう。
*キツツキが、木をつついて虫をおびき出して、それを食べてしまうのと似ていることから、キツツキ作戦と命名されました。
実際のところ、妻女山から一帯を見渡せる上杉軍に気付かれずに奇襲を仕掛けるのは不可能だと言われています。
ただ、川中島一帯は頻繁に霧が発生する地域でした。武田信玄は、気候などから霧の発生を予測して、キツツキ作戦を実行したと考えられています。
こうして9月9日の夜、武田信玄は妻女山への奇襲を開始。
しかし、上杉謙信は妻女山から見える海津城の異変に気付き、これを事前に察知。
今日はやけに海津城の煙が多いな。いつもよりたっぷり料理を用意しているに違いない。
腹を満たしたらそのまま妻女山に攻めてくるだろう。
上杉謙信は、武田信玄の奇襲前に妻女山を密かに脱出。霧を利用して、武田軍の待ち伏せ部隊(本隊)のいる八幡原に布陣します。
9月10日の明朝、武田の奇襲部隊が妻女山に攻め込むとそこはもぬけの殻。霧が晴れると、八幡原に布陣していた武田軍本隊の目の前に上杉軍が突如として現れます。
上杉軍の神出鬼没の奇襲に武田軍はパニックに陥ると、上杉軍は次々と武田軍を撃破。
上杉謙信め、私を上回る奇襲をしてくるとは・・!!
我が軍は大損害を受けたが、まだ戦いは終わっていない。
八幡原で上杉軍を足止めし時間を稼ぐ。そして、妻女山の奇襲部隊を利用して上杉軍を挟撃するのだ。
武田信玄の考えていることはわかっている。
武田の奇襲部隊が八幡原に戻る前に、速攻で敵本陣の武田信玄を討つのだ!
武田信玄は守備に有利な鶴翼の陣形を組み、
上杉謙信は、波状攻撃が可能な車懸かりの陣形で武田軍に襲い掛かります。
戦いは大激戦となり、上杉謙信と武田信玄は大将同士の一騎打ちをした・・・なんて話も残されています。
結果は、武田軍の勝ち。奇襲部隊が戻るまで上杉軍の猛攻を耐え抜くと、次は上杉軍が武田軍に挟み撃ちにされる形となり、形勢逆転。
上杉謙信は撤退を決断し、善光寺に残した5,000の兵とともに越後へ帰還しました。
第4次川中島の戦いは武田信玄の勝利で終わったものの武田軍は甚大な被害を被ります。軍師の山本勘助や信玄の弟の信繁などの主要人物が戦死し、武田軍に大きなダメージを与えています。(その意味では、上杉謙信の勝利かもしれません)
第5次川中島の戦い
第4次川中島の戦いの後、武田信玄は自ら謙信と戦うことを極端に避けるようになります。
上杉謙信を嫌う越中の一向宗徒などの反上杉勢力を扇動し、上杉謙信を牽制。しかも、上杉謙信が関東に遠征に行っている隙を頻繁に狙います。
武田信玄め、性懲りもなく嫌がらせばかりしやがる・・・!
1564年、信濃に西隣にある飛騨国の争いに上杉・武田が介入すると、これがきっかけで、両者は再び川中島で対峙することになります。
あんなバケモノ(上杉謙信)とはもう戦わないぞ。
上杉謙信は、関東の後北条氏や越中一向宗勢力など敵が多い。
牛歩作戦で時間を稼げば、いずれ撤退するだろう。
武田信玄は軍隊を送って謙信にプレッシャーを与えますが、できる限り戦闘をすることを避けました。
謙信の方も、深追いすることはできず、そのまま越後に帰還します。
戦いは起こっていないですが、両軍が川中島で対峙したのでこれを第5次川中島の戦いと言います。
その後の上杉謙信と武田信玄
武田信玄は、5度にわたる上杉謙信との戦いでこれまでの方針を大きく転換します。
今川氏がいるから上洛するために日本海沿いを攻略しようと思ったけど、上杉謙信が強すぎて、割りに合わなすぎ。
今川氏が桶狭間の敗北で弱体化した今なら、むしろ太平洋沿いルートの方が効率が良いのでは?
1567年、武田信玄は今川氏のいる駿河へ侵攻を開始。駿河を攻略すると、駿河と京の間にいる徳川家康・織田信長に攻め込み、1573年、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍に勝利。破竹の勢いで京を目指したその矢先、同年(1573年)に武田信玄は病で命を落とします。享年53歳でした。
武田信玄が亡くなると、上杉謙信も武田氏と協力し、織田信長に対抗します。
1577年、上杉謙信は能登地方で起こった手取川の戦いで織田信長に勝利。しかし、その翌年(1578年)に上杉謙信も亡くなってしまいます。享年49歳でした。
川中島の戦いまとめ【年表】
最後に川中島の戦いを年表でまとめておきます。
- 1542年武田信玄、信濃侵攻開始
日本海沿いルートで上洛を目指した。
- 1553年第一次川中島の戦い
信濃の大名だった村上義清が武田信玄に敗北。村上義清が謙信にヘルプを求めると、武田信玄VS上杉謙信の戦いが始まる。
上杉謙信は上洛の予定があったので、戦いは本格化せず。
- 1554年甲相駿三国同盟が結ばれる
甲斐の武田信玄は隣国の相模・駿河と同盟を結ぶ。後方の安全を確保した信玄は、信濃侵攻を本格化させる。
- 1555年第2次川中島の戦い
信濃の川中島をめぐって、両者が本格対決。
しかし、武田信玄も上杉謙信も迂闊に動くことができず、戦いは長期化。
最後は和睦を結ぶ。
- 1557年第3次川中島の戦い
武田信玄が和睦の約束を破り、信濃に侵攻。再び上杉謙信と川中島で衝突する。
武田信玄が、謙信との直接対決を避けたため、戦いは小競り合いに終わる。
- 1600年桶狭間の戦いで今川義元が破れる
甲相駿三国同盟が崩れる。
長年、
相模の北条氏康を倒すチャンスを狙っていた上杉謙信が関東攻略に動き出す。
- 1561年第4次川中島の戦い
上杉謙信が関東に遠征すると、その隙を狙って武田信玄が信濃侵攻を再開。
これに怒った上杉謙信が川中島に構える武田信玄と大決戦。
奇策の読み合いと大激戦の末、両者引き分けのまま撤退する。
- 1564年第5次川中島の戦い
飛騨国の争いに巻き込まれる形で、再び川中島で両者が対峙。
しかし、謙信と戦いたくな信玄の消極的戦法により、戦いが起こらないまま両者は撤退する。
これ以後、武田信玄は上洛ルートを太平洋沿いルートに転換。駿河の今川氏、三河の徳川氏などを破り、破竹の勢いを見せるも、病によって1573年に亡くなる。
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