日本で最初の怨霊!?藤原広嗣の乱をわかりやすく解説!-聖武天皇はなぜ東大寺の仏像を造ったのか-3/4

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今回の主役は、藤原広嗣(ひろつぐ)という人物。上の人物です。めちゃ強そう・・・。

藤原広嗣は、朝廷の人材登用に不満を抱き、乱を起こします。藤原広嗣は、乱そのものよりも日本で最初の怨霊として有名です。

藤原氏の儚い栄華 -天然痘の流行-

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藤原不比等の息子らは、729年、長屋王の変により長屋王を討った後、父の不比等の頃のような藤原氏勢力の挽回に成功します。

再び藤原氏の栄光の時代がやってきた・・・ように思えましたが、737年、長屋王の変からわずか8年後、天然痘の大流行により不比等の4人の息子は皆亡くなってしまいます。まさに、栄華必衰。

天然痘は、藤原4兄弟のほか、多くの官僚の命を奪いました。聖武天皇は、この緊急事態を受け、天然痘により亡くなった幹部たちの欠員を補充する必要に強いられました。

橘諸兄(たちばなのもろえ)政権発足。衰退する藤原氏

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そこで、登場したのが橘諸兄という人物(上図の人)。

右大臣という高い地位に就き、実質政界のトップとして君臨することになりました。多分、橘諸兄自身もこんな高い地位に就くことになるとは思ってなかったはずです。

人事の刷新 -元遣唐使の吉備真備と玄昉の採用-

橘諸兄は、早速、天然痘により欠員の生じてしまった官僚メンバーを補充します。

ここで、登場するのが藤原広嗣の乱において重要人物となる吉備真備(きびのまきび)玄昉(げんぼう)です。

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【↑は吉備真備】頭良さそう!!

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【↑は玄昉】慈悲深そう!!

2人は、717年から735年の18年もの間、唐に留学していた当時のバイリンガルです。

橘諸兄は、吉備真備と玄昉を朝廷のブレーンとして重宝しました。当時の日本は、唐の最新文化を取り入れ、国の威信を高めようとしていたので、橘諸兄から見ればこの2人はまさに適材と言える人材だったのかもしれません。

なぜ天然痘が流行ったのか

天然痘は、735年、大宰府(今でいう福岡)で発生したと言われています。そして2年の時を経て遂に、平城京にまで流行し、隆盛を極めていた藤原4兄弟が天然痘により逝去しました。

ところで、735年といえば、先ほど話した吉備真備と玄昉が唐から帰国した年です。

そうです。遣唐使は、唐の最新文化を日本に輸入してくれた大変重要な遣使たちでしたが、天然痘という疫病をも日本に持ち込んできたのです。

当時の日本にとって、「遣唐使なくして日本の発展なし!」という状態だっただけに、その遣唐使が天然痘を日本に流行らせ、人々を大量死させたのはなんとも皮肉なものです・・・。

藤原広嗣の不満

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天然痘により逝去した藤原4兄弟。しかし、藤原氏は滅びたわけではありません。藤原4兄弟の息子らはしっかりと生きていました

藤原4兄弟の息子らは、藤原氏の勢力が衰えた後も、官僚として地道な出世を遂げていきます。藤原氏には聖武天皇の妻である藤原光明子という強大な後ろ盾がありました。光明子がいる限り、没落することはありませんでした。

4兄弟の父、不比等が築き上げた皇族との親戚関係は、不比等が息子たちに残した大きな遺産と言えると思います。

(藤原不比等については、聖武天皇ははぜ東大寺の大仏を造ったのか-聖武天皇即位の裏話-で簡単に触れてます!)

左遷された藤原広嗣 -藤原広嗣の乱へ-

藤原4兄弟のうち、式家の藤原宇合の息子に藤原広嗣という人物がいました。

広嗣は、地道に官僚の出世コースを歩んでいきますが、その素行の悪さから平城京から大宰府(今の福岡)に左遷されてしまいます。739年の出来事です。

740年、藤原広嗣は聖武天皇あてに、上奏文を送ります。中身はこんな感じの内容でした。

最近、災害が多いのはすべて橘諸兄が吉備真備と玄昉を重宝し始めてからだ。この2人を政界から追放すれば、世は平穏になるでしょう。

ただのわがままです。「高貴な藤原氏を左遷させておいて、どこの馬かもわからぬ玄昉や吉備真備を重宝するとは何事か!こんなやつらさっさと排除して、俺様に高い位をよこせ!!」とでも思ったのでしょう。

しかし、これは天皇に贈られた上奏文です。単なるわがままで済まされる問題ではありませんでした。聖武天皇は、これを国家転覆を企んだ謀反と見なし、軍隊を送って藤原広嗣を討伐することを決定します。

藤原広嗣も聖武天皇のこの即決には驚いただろうと思います。

広嗣「左遷させられてむかつく!聖武天皇に直訴しよ。直訴しても駄目なら乱起こそーっと

聖武天皇「(上奏文を読む)これは・・・戦争だ!!

広嗣「え!?ちょっと愚痴っただけだよ?早すぎない?ねぇ聖武天皇。急いで乱の準備しなきゃ(汗

しかし、聖武天皇もちょっと過敏反応すぎる(汗

聖武天皇直筆の文字を見てみると、その文字の繊細さからとても繊細で潔癖症なところがあるような気がします。

いずれにせよ、広嗣の上奏文が発端となり乱が発生したのです。

藤原広嗣の乱の経過 -早すぎる!聖武天皇の対応-

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【740年9月3日】
先ほど述べた上奏文が聖武天皇の手元に届く。広嗣の討伐のため、大野東人(おおのあずまひと)という人物を将軍(最高司令官)として任命する

【740年9月21日~25日】
政府軍、鳴門海峡を渡り豊前地方(今でいう北九州市の東側と大分県東北部)を制圧。豊前の広嗣軍、政府軍に投降。

【740年10月9日】
広嗣軍、政府軍と衝突。広嗣逃亡へ。船で逃亡しようとするものの、強風により失敗。

【740年10月23日】
広嗣、政府軍に捕らえられる。

【740年11月1日】
広嗣、処刑

広嗣の敗因を分析! その1:政府軍の早すぎる豊前の制圧

藤原広嗣は、九州からの兵を豊前に集め、そこから、政府軍の九州侵入を阻止するつもりでした。が、聖武天皇のあまりにも早すぎる軍隊の派遣により、広嗣が全軍の合流地点として考えていた豊前が政府軍の制圧されていしまいます。

これにより広嗣軍の計画はすべて狂ってしまい、3方向からの各個撃破戦法へ変更しなければなりませんでした。

敗因その2:稚拙な動機

結局、広嗣の乱の動機は、「左遷された!むかつくから玄昉とか吉備真備を排除しろ!」というなんとも幼稚な私怨でしかありません。

そもそも、なぜ広嗣がそんな私怨で九州の軍を集められたのか?

そこには、天武天皇の頃から進められている律令国家の支配に対する不満がありました。

私怨で動く広嗣と国に不満を持つ兵士たち。信念が違うもの同士の集合体は、瓦解するのもあっという間です。

聖武天皇は、これを見抜いていたのか政府軍に多くの九州出身者を加えさせています。広嗣軍を懐柔するためです。実際に多くの広嗣軍が戦わずして政府軍に投降していきます。

こうして、広嗣の稚拙な動機と聖武天皇の異常な速さの対応により藤原広嗣の乱はあっけなく鎮圧されていきます。

しかし、稚拙な動機にも関わらず、それに同調してしまうほどに九州の人々の律令国家に対する反発は強いものであったこともこの乱から読み取ることができます。

また、聖武天皇の迅速な指揮の下で統率のとれた軍隊派遣ができたことは、聖徳太子時代から続く天皇統治の国造りが完成されてきたことを示しています。

日本で最初の怨霊となった藤原広嗣

この後、藤原広嗣は日本で最初の怨霊として玄昉を苦しめたと言われています。(「最初」というのは、現在わかっている最初の本格的な怨霊であって、おそらく当時には他にも怨霊と言われていた存在がたくさんいたと思います。)

現代にも残る「怨霊」信仰。その由来は奈良時代後期~平安時代にさかのぼります。

怨霊の話はとても興味深い話なのですが、この記事では書ききれないので、別の記事で書こうと思います。若干タイトル詐欺っぽくなってしまいましたが、ご了承ください m(_ _)m

聖武天皇は、天皇として強く平穏を望んでいました。しかし、長屋王の変天然痘による藤原4兄弟の死藤原広嗣の乱と立て続けに起こる大事件を目の当たりにして、神の子孫たる天皇であっても自然と時代の流れには抗えないと自らの無力さに諦念してしまったのか、次第に政治に関心を示さなくなり、仏教に深く帰依してしまいます。

(長屋王の変について知りたい方は、聖武天皇のなぜ東大寺の大仏を造ったのか-長屋王の悲劇-をどうぞー)

次回は、政治に失望し、仏教にすべてを捧げはじめた聖武天皇の行動を探ります!

次:学校では教えてくれない日本の聖人、行基の話-聖武天皇、東大寺の大仏造立へ-4/4
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コメント

  1. さな より:

    めっっちゃおもしろいです!!
    ありがとうございます!!
    もっと読みたいです!!!

    • mogutaro より:

      さな様

      当サイトをご覧いただき誠にありがとうございます。そう言っていただけるととても嬉しいです!
      多くの人に日本史の面白さを知っていただけるよう今後もサイト運営を続けて参ります。