三方ヶ原の戦いとは?家康が信玄に大敗した理由をわかりやすく解説

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三方ヶ原の戦い アイキャッチ
もぐたろう
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今回は三方ヶ原の戦いについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「家康が脱糞した戦い」として有名だけど、実はその話には意外な真実があるんだ。戦いの背景から結果、後世への影響まで徹底解説します!

この記事を読んでわかること
  • 三方ヶ原の戦いがどんな戦いだったか(日時・場所・当事者)
  • 武田信玄がなぜ西上作戦を起こしたのか(信長包囲網の実態)
  • なぜ家康は圧倒的不利な状況で出陣したのか(4つの説)
  • 戦いの経緯・魚鱗の陣(武田)vs 鶴翼の陣(徳川)とは何か
  • 脱糞・しかみ像の「真実」と最新研究
  • この大敗が後の天下人・家康をどう作ったか

実は、「三方ヶ原の戦いで家康が脱糞した」という有名なエピソードは、別の戦いの出来事だった可能性が高いんです。また「しかみ像」が三方ヶ原後の戒めとして家康自ら描かせたという話も、昭和になってから広まった説であることが最近の研究で明らかになってきました。三方ヶ原の真の見どころは、この壊滅的な大敗が後の天下人・徳川家康を生み出したドラマにあります。

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三方ヶ原の戦いとは?

3行でわかる三方ヶ原の戦い
  • 1572年(元亀3年)12月22日武田信玄たけだしんげん vs 徳川家康とくがわいえやす(+織田援軍)が遠江国・三方原台地で激突
  • 武田軍2万超に対し徳川軍8千余という圧倒的な兵力差で家康が大敗・壊走
  • 翌年、信玄が病死したことで武田軍は撤退し、家康は九死に一生を得た

三方ヶ原の戦いみかたがはらのたたかいは、1572年(元亀3年)12月22日に遠江国(現在の静岡県浜松市中央区)の三方原台地で行われた合戦です。武田信玄率いる甲斐・武田軍2万余騎が西上(上洛)の途中、徳川家康の軍勢8千(+織田信長からの援軍、諸説あるが約1000〜3000)と激突。当時31歳の家康は圧倒的な兵力差にもかかわらず出陣し、武田軍の前に惨敗を喫しました。

戦いは短時間で決着し、徳川軍は壊走。家康は命からがら浜松城へ逃げ帰ります。家康生涯最大の敗戦とも称されるこの合戦は、後の家康の戦略観を大きく変えることになりました。

徳川家康(江戸幕府初代将軍)
徳川家康。三方ヶ原の戦い当時はまだ31歳の若き大名だった
もぐたろう
もぐたろう

「三方ヶ原」っていうのは、浜松市の北側に広がる台地のことだよ。三つの方向から川が流れ込む地形から「三方ヶ原」という地名になったとも言われているんだ。今でいう浜松市中央区(2024年1月の区再編以前は北区)が主な戦場だね。

なぜ起きた?信玄西上作戦の背景

三方ヶ原の戦いは、突然起きた衝突ではありません。その背景には、戦国時代の天下分け目ともいえる複雑な政治状況がありました。武田信玄が2万を超える大軍を率いて西へ向かったのはなぜか——その理由を理解することが、この戦いの本質を読み解く鍵になります。

■信長包囲網と足利義昭の要請

1570年代、織田信長おだのぶながは急速に勢力を拡大し、京都を支配下に置いていました。これを脅威に感じた室町幕府15代将軍・足利義昭あしかがよしあきは、信長への対抗勢力を結集します。

浅井・朝倉連合、一向一揆(石山本願寺)、そして武田信玄——これらが連動して信長を四方から圧迫する構図が「信長包囲網のぶながほういもう」です。義昭は各大名に書状を送り、信長打倒を呼びかけました。信玄もこの呼びかけに応じる形で、1572年秋に西上作戦を開始することになります。

武田信玄。「信玄なければ信長なし」とも評される戦国最強の武将の一人

■武田信玄の西上作戦とは

1572年(元亀3年)9月末〜10月初め、信玄は甲斐(現在の山梨県)から大軍を率いて出陣しました。その兵力は2万2千〜3万ともいわれます(諸説あり)。信玄の狙いは上洛——つまり京都へ向かい、天下を取ることでした。

進路は遠江・三河を通り、そのまま西へ進む計画でした。この進路上には、家康が治める遠江国があります。信玄軍は次々と城を落としながら西進し、その勢いは止められないかと思われていました。

ゆうき
ゆうき

信玄は浜松城の前を通ったのに、なんで攻めずに素通りしたの?

もぐたろう
もぐたろう

信玄の目的はあくまで「上洛」だったんだ。浜松城を落とすには時間がかかるし、兵力も消耗する。だから「わざと素通り」して家康を挑発し、城外に引きずり出す作戦だったとも言われているよ。結果的に家康がまんまと出陣してしまったわけだ。

武田信玄
武田信玄

浜松城など、わが大軍の前では無意味よ。目指すは京——。家康よ、出てくるなら相手してやろうではないか。

📌 西上作戦の規模:武田軍の兵力は諸説あるが2万5千〜3万と推定される。これに対し家康の総兵力は8千程度。織田信長から1000〜3000の援軍が届いたが、兵力差を埋めるには不十分だった。

なぜ家康は出陣したのか?4つの説

三方ヶ原の戦いで最大の謎とされるのが、「なぜ家康は圧倒的に不利な状況で城を出て戦ったのか」という点です。武田軍2万超に対し、家康の兵力は8千余。誰が見ても無謀な戦いのはずでした。この問いに対し、歴史研究者の間では主に4つの説が挙げられています。

■説①:武田軍への挑発・武将としての面子

最も広く知られる説が「面子(メンツ)の問題」です。武田軍2万超の大軍が浜松城の目の前を堂々と素通りしていったのです。城内に籠もって指をくわえて見ていれば、家康は諸将から「腰抜け」「臆病者」と評されかねません。

戦国時代の武将にとって、名声・面目は命と同等の価値を持ちました。「徳川家康は武田に怯えて城に引きこもった」という評判が立てば、家臣や同盟国の信頼を失い、政治的に大きなダメージになります。それを避けるために出陣したという見方です。

■説②:信長への義理・同盟関係の維持

織田信長は三方ヶ原の戦いの直前、家康に援軍を送っています(人数は諸説あり、約1000〜3000と幅がある)。命がけで助けてくれた盟友への義理立てとして、見て見ぬふりはできなかった——という説です。

家康にとって信長との同盟(清須同盟)は生命線でした。ここで信長の援軍を無駄にするような行動を取れば、同盟関係に亀裂が生じかねません。同盟の義務として、ある程度の積極的な戦いを見せる必要があったという考え方です。

■説③:積極防衛・兵站線の遮断

実は軍事戦略上の観点から「城に籠もっているだけでは不利」とする説もあります。武田軍が遠江国を自由に動き回れば、家康軍の補給路(兵站線)を断たれ、周辺の城や集落を略奪されてしまいます。

それよりも積極的に出撃して武田軍の後方を脅かし、進軍スピードを落とさせる「牽制作戦」のほうが得策だという判断です。ただし結果的にこの判断は裏目に出ることになります。

■説④:若気の至り・過信

当時の家康は31歳。三方ヶ原以前にも桶狭間・三河一向一揆・姉川の戦いなど数多くの戦場を経験し、自信に満ちていた時期でした。「信玄といえども、こちらが奇襲をかければ勝機はある」と過信していたという説です。

この説の根拠として、三方ヶ原後に家康が別人のように慎重な戦略家へと変貌したことが挙げられます。若い頃の失敗から徹底的に学ぶ——この体験こそが後の天下人・家康を作ったとも言えます。

ゆうき
ゆうき

4つの説があるってことは、結局どれが正解なんですか?

もぐたろう
もぐたろう

歴史研究では「これが唯一の正解」とは言いにくいんだよね。実際には①〜④の複合要因だったと考えるのが自然だよ。「面子」「義理」「戦略」「若気の至り」——これらが重なって、あの無謀な出陣につながったんだと思う。

戦いの経緯(武田軍の動き・魚鱗vs鶴翼)

1572年(元亀3年)12月22日、浜松城から出陣した家康軍は武田軍を追撃するかたちで三方原台地に進みました。そこで待ち受けていたのは、信玄が得意とする魚鱗の陣でした。

■鶴翼の陣と魚鱗の陣とは

この戦いで注目されるのが両軍の陣形の対比です。陣形とは、軍の部隊をどのように配置するかという「戦闘フォーメーション」のことで、戦国時代の戦い方の要でした。

🐟 魚鱗の陣(武田軍):魚のうろこのように部隊を三角形に密集させ、正面の一点に兵力を集中して敵中を突き破る陣形。今でいう「楔形(くさびがた)突撃」。短期決戦を狙う際に武田信玄が好んで用いた。
🦅 鶴翼の陣(徳川軍):鶴が翼を広げたように両翼を大きく広げ、敵を包み込んで殲滅する陣形。今でいうなら「挟み込み戦術」。本来は兵力が多い側が使う陣形で、兵力差がある状況で家康が選んだのは奇策といえた。

家康軍が選んだ鶴翼の陣かくよくのじんは、両翼を大きく広げて敵を包み込もうとする陣形です。しかし武田軍の魚鱗の陣ぎょりんのじんは鋭く集中した突撃力で、家康軍の中央を一気に突き崩しました。本来なら兵力で勝る側が使う鶴翼の陣を、劣勢の徳川軍が用いるという選択が、より被害を拡大させたとも言われています。

■戦いの経過と壊走

1572年12月22日、夕刻が迫る冬の三方原台地——。浜松城から出陣した家康軍8千余は、武田軍の後を追いかけるように台地へと進出しました。そこに、信玄が満を持して待ち構えていました。

武田軍は魚鱗の陣で精鋭を正面中央に集中させていました。一方の家康軍は鶴翼の陣かくよくのじんで両翼を大きく広げて迎え撃ちます。しかし、そもそも兵力が2倍以上の相手に包囲戦を挑むのは最初から勝負になりませんでした。

武田軍左翼を率いる山県昌景やまがたまさかげの「赤備え」——全身を赤一色の鎧で統一した猛将部隊——が徳川軍右翼に猛然と突撃。たちまち右翼の陣形が崩れ始めます。右翼からも馬場信春ばばのぶはるが圧力をかけ、家康軍は左右から挟み込まれる形に追い込まれていきました。

三方ヶ原の戦いの絵巻
三方ヶ原の戦いを描いた絵巻物。武田軍の猛攻に徳川軍は総崩れとなった

中央を突き破られた徳川軍は、わずか2〜3時間で全体の陣形が瓦解。兵士たちは四方八方に逃げ始めました。その混乱の中、家康を守るために命を捨てた家臣たちがいました。

その一人が本多忠真ほんだただまさ(後に「槍の半蔵」と称えられた本多忠勝の叔父)です。忠真は武田軍の追撃の中で踏みとどまり、敵中に斬り込んで家康が逃げる時間を稼ぎましたが——そのまま討ち取られました。

もぐたろう
もぐたろう

本多忠真は「家康様のお命があれば武田にまた雪辱できる!この場はおれが食い止める!」と言い残して引き返していったとも伝えられているんだよ。忠勝(甥)が後に「三方ヶ原で一番の勇士は叔父上だ」と語ったという話も残っているんだ…。

そして最も劇的なのが、夏目吉信なつめよしのぶの身代わりです。武田の追手に迫られた家康に、吉信は「殿(しんがり)の役、このわたくしが!」と叫び、家康の旗指物(幟旗)を自ら持ち替えて、敵の大軍に向かって馬首を返しました。武田軍は「旗指物=大将」と見て追撃を集中させます——吉信はそのまま討ち死にし、家康は辛くも逃げ延びました。

もぐたろう
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あの夏目漱石は、この夏目氏と同族とも言われているよ(直系の子孫ではないとする説が有力)。家康は後年、夏目吉信を「最後まで忠節を尽くした勇士」と語り継いだとも伝わっているんだ。

■犀ヶ崖の夜襲(逸話)

浜松城に逃げ帰った家康ですが、伝承によればその夜、意外な行動に出ます。城門を大きく開け、かがり火を焚いて武田軍を驚かせたというのです。さらには夜陰に乗じて犀ヶ崖さいががけという断崖まで追い詰め、武田軍の一部を転落させたという「犀ヶ崖の夜襲」の逸話が残っています。

ただし、この夜襲の逸話は史料的な裏付けが乏しく、伝承・後世の創作の可能性が高いとされています。惨敗した夜にそのような反撃ができたかは歴史的に疑問視されており、家康の武将としての勇気を称えるために後世に付け加えられたエピソードという見方が有力です。

戦いの結果と被害

三方ヶ原の戦いは武田信玄の完勝、徳川家康の完敗という形で終わりました。この合戦が家康にとってどれほど壊滅的な敗北だったのか——具体的な被害の数字と、その後の武田軍の動向から見ていきましょう。

徳川軍の死者は数千人にのぼったとされ、家康の有力な家臣が次々と討ち取られました。中でも、本多忠真(本多忠勝ほんだただかつの叔父)、鳥居元忠の兄弟など歴戦の家臣を失ったことは、家康にとって大きな痛手でした。

一方の武田軍の被害は比較的少なく、信玄の完勝といえる結果でした。しかし信玄はこの後、なぜか浜松城を攻めることなく、遠江から三河へと進軍を続けます。

■信玄の急死と武田の撤退

三方ヶ原で家康を打ち破った信玄でしたが、その後の進軍は次第に鈍化していきます。翌1573年(天正元年)4月、信玄は甲斐への帰途、信濃国の駒場こまば(現在の長野県下伊那郡阿智村)で病死しました。享年53歳でした。死因については肺結核・胃がんなど諸説あります。

信玄の急死により、武田軍は西上作戦を中断し甲斐へ撤退します。こうして家康は九死に一生を得ることになりました。後に家康は「信玄が3年長く生きていたら、天下は武田のものになっていたかもしれない」という意味の言葉を残したとも伝えられています。

あゆみ
あゆみ

信玄が病死しなかったら、家康はどうなっていたんでしょう?

もぐたろう
もぐたろう

信玄があと1〜2年生きていたら、家康はほぼ滅亡していたと言われているんだよ。そうなると信長も苦境に立たされ、天下統一は全く別の展開になっていたかもしれない。まさに信玄の病死は「歴史を変えた死」だね。家康にとっては「棚からぼたもち」的な救いだったわけだ…

徳川家康
徳川家康

あの夜、浜松城に逃げ帰ったワシは…情けなくて地に伏した。家臣たちが命を捨てて守ってくれたこの命——無駄にするわけにはいかぬ。生き延びたからこそ、ワシは変わらなければならぬのだ。

三方ヶ原の結果をまとめると、武田軍の大勝・徳川軍の大敗。しかし信玄の急死というまさかの展開により、家康は命をつなぐことができました。この「奇跡の生還」が、後の関ヶ原・大坂の陣へと続く家康の長い戦国人生を切り開いたのです。

ところで、三方ヶ原といえば「家康が脱糞した」「しかみ像は三方ヶ原後の戒め」という逸話が有名です。しかし最新の研究では、これらのエピソードには大きな疑問符がついています。次の章で詳しく見ていきましょう。


脱糞・しかみ像の真実

「三方ヶ原の戦い=家康が脱糞した戦い」——このイメージを持っている人は多いでしょう。しかし最新の研究では、この話には大きな疑問符がついていることがわかってきました。また「しかみ像」が三方ヶ原後に戒めとして家康自ら描かせたという言説も、昭和以降に形成された可能性が高いとされています。

■脱糞はどこで起きた?新説の根拠

脱糞エピソードの出典として最も古いとされるのは、江戸時代に書かれた記録類です。ただしそれらの史料を丁寧に読み直すと、「三方ヶ原」ではなく「一言坂の戦い(1572年10月)」での出来事を指している可能性が高いという指摘が歴史研究者の間で出ています。

一言坂の戦いひとことざかのたたかいは三方ヶ原の約2ヶ月前に起きた小競り合いで、このときも家康軍は武田軍に追い詰められ、命からがら逃げ帰っています。「脱糞した」というエピソードがいつの間にか「三方ヶ原」の話として語り直されていった——こうした混同が起きた可能性が高いのです。

あゆみ
あゆみ

じゃあ脱糞エピソード自体はウソなんですか?

もぐたろう
もぐたろう

「ウソ」というよりは「別の戦いの話が混ざった可能性が高い」という感じかな。どの史料も100%信頼できるわけじゃないし、研究者によって見方も違う。ただ「三方ヶ原で脱糞した」という話は直接的な根拠が薄いんだよね。

■しかみ像はなぜ「三方ヶ原後の戒め」になったのか

しかみ像しかみぞうとは、現在・徳川美術館とくがわびじゅつかんに所蔵されている徳川家康の肖像画で、口をへの字に結び苦渋の表情をしたものです。正式名称は「徳川家康三方ヶ原戦役画像」と言い、一見すると「三方ヶ原の戦い後の戒めのために描かせた」という話が信憑性高く聞こえます。

ところが、「家康が三方ヶ原後に戒めとして自ら描かせた」という言説は、昭和中期以降に一般に広まったもので、それ以前の史料にはこのような記述がほとんど見当たりません。学術的には「戒めのために描かせた」という解釈は近年では疑問視されており、描かれた時期・目的とも不明な部分が多いとされています。

徳川家康三方ヶ原戦役画像(しかみ像)
徳川家康三方ヶ原戦役画像(通称「しかみ像」)。徳川美術館所蔵。描かれた目的・時期については研究者の間でも議論がある

しかみ像はなぜ有名になったの?

しかみ像が「三方ヶ原後の戒め画像」として広く知られるようになったのは、昭和期に刊行された歴史読み物や教育書がこの解釈を採用・普及させたからとされています。「負けを忘れないために自分の惨めな顔を描かせた」というエピソードは確かに劇的でわかりやすく、家康の忍耐強さを象徴するイメージとして定着しました。ただし、これが「後世に作られた物語」である可能性も否定できません。現代の歴史研究では、史料批判の観点からこうした「語り」を慎重に扱う必要があるとされています。

もぐたろう
もぐたろう

「脱糞もしかみ像も、後世に付け加えられた可能性が高い」——これが最新の研究トレンドなんだよね。でも一つだけ確かなのは、「三方ヶ原の惨敗が家康を根本から変えた」ということ。エピソードの真偽はともかく、その事実は変わらないんだ。

この大敗が家康を天下人にした

三方ヶ原の戦いは、単なる「家康の大敗」ではありませんでした。この敗北こそが、後の天下人・徳川家康を生み出した最大の転機だったのです。では、三方ヶ原の敗北は家康のどこを変えたのでしょうか。

徳川家康(江戸幕府初代将軍)
後年の徳川家康。三方ヶ原の屈辱的な敗北が、慎重な戦略家への転機となった

■三方ヶ原後の家康の変化

三方ヶ原以前の家康は、どちらかといえば「積極的・攻撃的」な戦略を好む武将でした。しかし三方ヶ原の壊滅的敗北を経験した後、家康は徹底的に慎重で忍耐強い戦略家へと変わっていきます。

この変化を象徴するのが、三方ヶ原から約2年半後に行われた長篠の戦い(1575年)です。家康は信長と連携し、武田の騎馬隊を火縄銃の一斉射撃で完膚なきまでに破ります。「力と勇気で正面突破」から「準備・連携・待機」へ——三方ヶ原で身に染みて学んだ教訓が、ここに結実したのです。

徳川家康
徳川家康

浜松城に逃げ帰ったあの夜、ワシは何を思ったか…。家臣たちが命を捨てて守ってくれたこの命——無駄にするわけにはいかぬ。あの惨敗があったからこそ、今のワシがある。

■「負けたから勝てた」——天下人への転機

三方ヶ原の敗北から27年後、家康は関ヶ原の戦い(1600年)で天下を手中に収めます。さらに本能寺の変後の混乱期も生き抜き、最終的に江戸幕府を開いて天下人となりました。

家康が生涯に渡って大切にした言葉の一つが「堪忍は無事長久の基(たんにんはぶじちょうきゅうのもとい)」——「耐え忍ぶことが、平和と長命の源である」という意味です。この精神は、まさに三方ヶ原の敗北から生まれたものと言えるでしょう。

「堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え」(徳川家康)

信玄に木端微塵にされた31歳の惨敗から、家康は死ぬまで「忍耐」と「慎重さ」を手放しませんでした。人生最大の失敗が最大の財産になる——三方ヶ原の戦いは、まさにその好例です。

ゆうき
ゆうき

「負けたから強くなった」って、家康ってすごいですね。

もぐたろう
もぐたろう

信長や秀吉みたいな「天才型」じゃなくて、家康は「努力と忍耐で這い上がった型」なんだよね。三方ヶ原がなければ、のちの忍耐の家康も生まれなかったかもしれない。歴史って面白いよね!

三方ヶ原の戦いについてもっと詳しく知りたい人へ

もぐたろう
もぐたろう

三方ヶ原の戦いについてさらに深掘りしたい人におすすめの本を紹介するよ! 最新研究に基づいた本格的な解説から、武田氏全体を知れる一冊まで揃えてみました。

①〔三方ヶ原をとことん知りたい人〕なら|最新研究で「定説」を覆す一冊

②〔家康と信玄の対立をトータルで理解したい人〕なら|二人の生涯を通じた比較史

徳川家康と武田信玄

平山 優 著|KADOKAWA(角川選書)


③〔武田信玄の全体像をつかみたい人〕なら|信虎・信玄・勝頼三代をわかりやすく整理

よくある質問(FAQ)

1572年(元亀3年)12月22日、遠江国(現在の静岡県浜松市)の三方原台地で起きた合戦です。武田信玄率いる武田軍と、徳川家康(および織田援軍)の連合軍が激突し、武田軍が圧勝しました。

主に4つの説があります。①武将としての面子(武田軍が浜松城前を素通りする屈辱への対抗)、②信長への義理(援軍を送ってくれた盟友への義務感)、③積極防衛戦術(城に籠もるより出て補給線を脅かす判断)、④若気の至り・過信(当時31歳の家康の自信過剰)。歴史研究では複合要因と見る説が有力です。

脱糞の逸話は三方ヶ原ではなく、その約2ヶ月前の「一言坂の戦い(1572年10月)」での出来事だった可能性が高いとされています。史料を厳密に読み直すと「三方ヶ原での脱糞」を直接示す根拠は乏しく、異なる合戦のエピソードが混同されたと考えられています。

しかみ像は徳川美術館所蔵の徳川家康肖像画(正式名称:徳川家康三方ヶ原戦役画像)です。「三方ヶ原後の戒めとして自ら描かせた」という言説は有名ですが、これは昭和中期以降に広まったものとされており、学術的な根拠は薄いとされています。描かれた時期や目的については不明な点が多く、研究者の間でも議論が続いています。

上洛(京都への進軍)という本来の目的があったため、堅固な浜松城の攻城戦に時間と兵力を消耗したくなかったとする説が有力です。また信玄はすでに病を抱えており、時間的余裕がなかったという見方もあります。あえて浜松城を素通りして家康を挑発し、三方原台地での会戦に引きずり出す計算があったとも言われています。

翌1573年4月に武田信玄が病死し、武田軍が撤退したことで家康は命をつなぎました。この敗戦の経験が「慎重さ」「忍耐」「同盟重視」という後の家康の戦略を形成したとされています。1575年の長篠の戦いで武田軍を撃破し雪辱を果たし、最終的に1603年に江戸幕府を開いて天下人となります。

まとめ

三方ヶ原の戦いのポイントまとめ
  • 1572年12月22日、武田信玄 vs 徳川家康の合戦。武田の圧勝・徳川の大敗
  • 家康が出陣した理由は「面子」「信長への義理」「積極防衛」「若気の至り」の複合要因
  • 脱糞・しかみ像のエピソードは後世の創作・混同説が有力。正確な史料的根拠は薄い
  • 信玄の翌1573年の病死で武田軍が撤退。家康は九死に一生を得た
  • この大敗が家康の「堪え忍ぶ精神」を鍛え、長篠の雪辱・関ヶ原・天下統一につながった

三方ヶ原の戦い 年表
  • 1570年
    信長包囲網の形成(足利義昭・浅井・朝倉らが信長に対抗)
  • 1572年10月
    一言坂の戦い(武田軍が徳川軍を撃破。脱糞逸話の有力な発生源とされる)
  • 1572年12月22日
    三方ヶ原の戦い(武田信玄 vs 徳川家康。徳川軍大敗・壊走)
  • 1572年12月(夜)
    犀ヶ崖の夜襲(伝承)。家康が夜間に反撃を試みたとされる逸話
  • 1573年4月
    武田信玄、病死(諸説あり)。武田軍は撤退し家康は九死に一生を得る
  • 1575年
    長篠の戦い。家康・信長連合軍が武田を撃破し、三方ヶ原の雪辱を果たす
  • 1582年
    武田氏滅亡(天目山の戦い)。家康も甲斐・信濃を領有
  • 1600年
    関ヶ原の戦い。家康が天下人への道を決定的にする

もぐたろう
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以上、三方ヶ原の戦いのまとめでした!下の記事で、武田信玄・徳川家康・長篠の戦いもあわせて読んでみてください!

参考文献

Wikipedia日本語版「三方ヶ原の戦い」(2026年4月確認)
コトバンク「三方ヶ原の戦い」(デジタル大辞泉・日本大百科全書、2026年4月確認)
山川出版社『詳説日本史』
平山優『新説 家康と三方原合戦』NHK出版新書(2020年)

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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