【正中の変で流罪になった日野資朝】
今回は、1324年に起こった正中の変(しょうちゅうのへん)について紹介します。
正中の変は後醍醐天皇が企てた倒幕計画です。事前に計画が幕府にバレて未遂に終わりますが、後醍醐天皇が鎌倉幕府をぶっ倒す最初の一歩となります。
正中の変は、未遂に終わるので決して派手な事件ではありません。しかし、鎌倉幕府滅亡のきっかけとなる事件1つですので歴史的には重要な事件です。
今回は、そんな正中の変について紹介してみたいと思います!
正中の変前夜
まず最初に後醍醐天皇が正中の変を計画した当時の時代背景について紹介しておきましょう。
両統迭立の中、後醍醐天皇は1318年に即位しましたが、後醍醐天皇はその境遇に不満タラタラでした。
以下の系図を見てください。
1317年に行われた幕府と朝廷の間で行われた皇位継承の話し合い「文保の和談(ぶんぽうのわだん)」。その話し合いの結果、後醍醐天皇は邦良親王が即位するまでのつなぎ役。あくまで後宇多→後二条→邦良親王が大覚寺統の正統だと考えられていました。
この決定は後醍醐天皇の父である後宇多上皇の意志だとされていますが、この「つなぎ役」という境遇に後醍醐天皇は不満だったんです。(さらに言えば、両統迭立自体にも不満があった。)
後醍醐天皇は、自分こそが天皇家の正式な家督であり邦良親王も持明院統も認めたくはなかった。では、そのためにはどうすれば良いか?
文保の和談で幕府が皇位継承案を示したように、当時の皇位継承は実質的に幕府の意志によって行われていました。なので、後醍醐天皇自らが天皇家の正統であることを示すには幕府を説得する必要があった。しかし、幕府には後醍醐天皇の意見を受け入れる理由が全くありません。(そもそも、文保の和談の内容は幕府が提案した内容ですしね・・・)
普通ならここで諦めてしまうところですが、後醍醐天皇は諦めなかった。そう、実はもう1つ究極の手段があったんです。
それこそが、天皇親政を行い自らの実力を内外に見せつけ、さらに後醍醐天皇を正統とすることを否定する鎌倉幕府をぶっ倒す!というもの。
正中の変は、そんな後醍醐天皇の「私こそが天皇家の正統である!」という確固たる意志によって起こった事件だったのです。
正中の変と無礼講
後醍醐天皇には多くの敵がいました。まず邦良親王を次期天皇にしようとしていた父の後宇多上皇が邪魔でした。それに持明院統の輩も邪魔だし、鎌倉幕府の御家人たちも邪魔。
これらの勢力に対抗するには、後醍醐天皇もそれなりの味方を揃えなければならない。そこで行われたのが無礼講(ぶれいこう)という飲み会。
あれです、意味は今と同じ。「上の者も下の者も身分を気にせず好きに飲もうや!」って趣旨の宴会です。昔も無礼講って言葉があったんですねぇ。
こうして開かれた無礼講は美女を集めての酒池肉林。僧も御家人もべろんべろんに酔っ払いました。
・・・この飲み会、ただ馬鹿騒ぎするだけじゃなくてちゃんと開催された理由がありました。その目的とは、馬鹿騒ぎのふりをして密かに後醍醐天皇への賛同者を集めること。主催は、後醍醐天皇の腹心だった日野資朝(ひのすけとも)という人物。
無礼講は「太平記」に記録として残されていますが、実際にあったかは色々と説があるようです。
いずれにせよ、後醍醐天皇とその側近たちは水面下で倒幕の準備を進めていたのです。
正中の変と後宇多上皇の崩御
1324年6月、大覚寺で後宇多上皇が崩御します。
後醍醐天皇は、後宇多上皇や持明院統から「文保の和談に従って早く邦良親王を皇太子にしろ!」と言われ続けていましたが、自らを正統と考える後醍醐天皇は邦良親王の立太子を先延ばしにしていました。
そんな矢先に後宇多上皇は亡くなったことで、後醍醐天皇の肩の荷が1つ降りたことになります。ちなみに、後宇多上皇と後醍醐天皇は不仲だったと言われていますが、諸説あってはっきりしたことは今でもわかりません。
【悲報】正中の変、幕府にバレる
後宇多上皇崩御の三ヶ月後、1324年9月に正中の変が起こります。・・・というか9月に計画が幕府にバレてしまいます。
後醍醐天皇が不穏な動きをしていることを知った六波羅探題は、兵を派遣し、加担した御家人を次々と誅殺。中には自ら命を断つ者もあり、京は騒然とします。今でいう4条付近(京都駅の北側)が主戦場となったと言われているようです。
誅殺された者も中には土岐(どき)という一族や多治見国長(たじみくになが)という名の御家人たちがいました。
これらの御家人は、いずれも先ほど紹介した無礼講という名で美女を集めたドンチャン騒ぎに誘われていた御家人たちでした。
そして、幕府の追求は朝廷にも及びます。正中の変は未遂に終わったのです。
日野資朝・俊基「正中の変は俺らが首謀者だ」
正中の変では、後醍醐天皇の3人の側近が活躍しました。その3人とは
日野資朝(ひのすけとも)
日野俊基(ひのとしもと)
そして万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)
【万里小路宣房】
まず、日野資朝と日野俊基が幕府の嫌疑にかけられました。日野資朝・俊基は、後醍醐天皇に嫌疑が及ばぬよう、自ら罪をかぶり鎌倉へ連行されたと言われています。
それに加え、万里小路宣房が自ら鎌倉に趣き、天皇が首謀者ではないことを必死に弁明し、なんとか幕府の理解を得ることができました。
その後、鎌倉に連行された日野俊基は釈放され、日野資朝だけは佐渡へ流罪となります。一応、「正中の変は、日野資朝が勝手にやったことで後醍醐天皇は関与していない!」という形で倒幕未遂事件は幕を閉じることになります。
ちなみに承久の乱と比較すると、正中の変での処罰はかなり軽いです。計画実行前だったのもあるし、幕府も「まさか倒幕運動などするわけがなかろう」と侮っていたのだと思います。
後醍醐天皇「正中の変の失敗ごときで諦めんぞ!」
しかし、後醍醐天皇はこれに懲りることもなく、逆に幕府に対する憎悪をますます強めていきます。というのも、後醍醐天皇が頑なに拒んでいた皇太子の指名を幕府が勝手に行ってしまったのです。
1326年になると大覚寺統の邦良親王が亡くなってしまいます。すると、文保の和談で決めた後醍醐→邦良親王→量仁親王(後の光厳天皇)の順で皇位継承をするという計画が狂ってしまいます。
そこで、幕府は邦良親王をすっ飛ばして量仁親王を皇太子に指名し、光厳天皇として即位させようと考えます。(もちろん、持明院統側の裏工作などもあったと思う!)
しかし、光厳天皇の即位には大きなハードルがありました。立太子までは問題ないんですが、天皇即位のためには後醍醐天皇に譲位してもらう必要があるんです。
自らを正統と主張する後醍醐天皇が譲位するわけがありません。むしろ、後醍醐天皇は天皇の意思を無視した量仁親王の立太子に強く抗議したとも言われています。
正中の変や皇太子を巡るトラブルは、逆に後醍醐天皇をやる気に火を付け、倒幕の第2ラウンドである元弘の乱が1331年に起こる・・・という流れになります。
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