渋沢栄一とは何した人?功績・生涯・論語と算盤をわかりやすく解説【日本資本主義の父】

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渋沢栄一

もぐたろう
もぐたろう

今回は、新一万円札の顔としておなじみの渋沢栄一について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「日本資本主義の父」と呼ばれる伝説の実業家だけど、若い頃は意外な過去があるんだ。

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠

この記事を読んでわかること
  • 渋沢栄一がどんな人物か(農民出身・幕末志士から実業家への転身)
  • 渋沢栄一の功績(約500社設立・第一国立銀行・富岡製糸場)
  • 論語と算盤(道徳経済合一説)とはどんな思想か
  • 教育・社会事業への貢献(約600の公共事業に関与)
  • 新一万円札に選ばれた理由とテストに出るポイント

2024年7月、新しい一万円札の顔になった渋沢栄一。「日本資本主義の父」と呼ばれ、約500社の設立に関わった偉大な実業家——というイメージが一般的です。

でも実は、若い頃の渋沢栄一は、武力で幕府を倒そうと「高崎城乗っ取り計画」というクーデターを企てた過激な志士だったのです。今でいうなら、かなり危ないテロ計画を立てた青年でした。

そんな農家出身の過激青年が、なぜ「日本経済を作った人物」へと180度転身したのか。本記事では、渋沢栄一の生涯・功績・「論語と算盤」の思想までをわかりやすく、ストーリー仕立てで解説します。

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渋沢栄一とは?3行でまとめると

3行でわかる渋沢栄一
  • 農家出身の幕末志士から実業家へ転身した、明治〜昭和初期の経済人。
  • 第一国立銀行をはじめ約500社の設立に関わり「日本資本主義の父」と呼ばれる。
  • 道徳と経済の両立を説く「論語と算盤」の思想で知られ、2024年から新一万円札の顔に。

渋沢栄一しぶさわえいいちは、1840年(天保11年)〜1931年(昭和6年)に生きた日本の実業家です。武蔵国の農家に生まれ、幕末には尊王攘夷の志士として活動。一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)の家臣となり、パリ万博への随行で世界の経済システムに触れたことが人生の転機となりました。

明治時代に入ると、新政府の大蔵省で近代財政の整備に関与。その後実業界へ転じ、第一国立銀行だいいちこくりつぎんこうの設立をはじめ、生涯で約500社の創立・経営に携わりました。教育・社会福祉・国際交流など約600の公共事業にも尽力し、現在も「日本近代化の最大の功労者」として評価されています。

もぐたろう
もぐたろう

ザックリいうと、農家の息子が「今でいうビル・ゲイツみたいな大起業家」になっちゃった人なんだ!しかも500社って、現代でもまずありえない数字だよ!

あゆみ
あゆみ

500社ってすごい数ね…。でも、なんでそこまで多くの会社を作ろうと思ったの?お金儲けじゃなかったの?

もぐたろう
もぐたろう

そう、ここがポイント!渋沢栄一は「自分が儲けるため」じゃなくて「日本全体を経済的に豊かにするため」に会社を作りまくったんだ。だから自分の会社を財閥にしなかった——三菱の岩崎弥太郎や三井とは真逆のスタンスだったんだよ。

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渋沢栄一の生い立ち——農民から幕末志士へ

渋沢栄一は1840年(天保11年)2月13日、武蔵国むさしのくに榛沢郡はんざわぐん血洗島村ちあらいじまむら(現在の埼玉県深谷市血洗島)の農家に生まれました。家業は養蚕藍玉(あいだま)の製造販売で、いわゆる「百姓」とはいえ、商売もこなす豊かな農家でした。

父の渋沢市郎右衛門しぶさわいちろうえもんは読書家で算盤にも長けた人物。母のえいえいはとても面倒見のいい女性でした。栄一は幼い頃から、父に四書五経(論語など中国古典)を学び、母から人としての在り方を教わっています。後の論語と算盤ろんごとそろばんの思想は、すでにこの少年期に種が植えられていたといえるでしょう。

若き日の渋沢栄一(武士姿)
若き日の渋沢栄一。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

■農家の息子が感じた「身分の壁」

豊かな農家とはいえ、江戸時代の身分制度では「士農工商」のうちの「農」であり、武士よりも一段下に置かれていました。能力があっても武士になれない、政治に関与できない——栄一はそんな閉塞感を強く感じて育ちます。

16歳の頃には、領主の代官から「御用金(強制的な献金)」を不当に要求された経験もあり、武士の横暴さと農民の無力さを痛感しました。この体験が、後の幕府への反発心の種になったといわれています。

ゆうき
ゆうき

ねぇ、御用金って何?お金をあげなきゃダメなの?

もぐたろう
もぐたろう

ザックリいうと「藩のお金が足りないから、金持ちの農民や商人から半ば強制的に借りるシステム」だよ。栄一はこの不条理さに「身分制度っておかしい!」と燃えていったんだ。

■尊王攘夷運動との出会い

20代になると、栄一は江戸へ遊学し、儒学者の海保漁村かいほぎょそんや剣術家のもとで学びました。江戸では諸藩の若者たちと交流し、当時の流行思想だった尊王攘夷そんのうじょうい運動にのめり込んでいきます。

従兄の尾高惇忠おだかあつただ(後の富岡製糸場初代場長)や、いとこの渋沢喜作しぶさわきさくとも志を共有し、「このままでは日本は外国に侵略されてしまう。幕府を倒して、天皇中心の国を作るしかない」と考えるようになります。

尊王攘夷ってどういう意味?

尊王攘夷とは「天皇を尊び、外国(夷狄)を打ち払え」という幕末のスローガンです。1853年のペリー来航以降、日本に押し寄せる外国の圧力に対し、若き志士たちは「幕府は弱腰だ。天皇を中心とした国を作り直して、外国を追い払おう」と主張しました。

この思想は吉田松陰高杉晋作木戸孝允など、のちの維新志士たちの行動原理になりました。渋沢栄一もこの大きな流れに巻き込まれた一人だったのです。

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若き日の激動——高崎城乗っ取り計画から一橋家仕官へ

ここからが、渋沢栄一の人生で最も劇的な転換点です。23歳の若き栄一は、なんと幕府に対する武力クーデターを本気で計画していました。

■衝撃の過激計画——高崎城を乗っ取ろうとした渋沢栄一

1863年(文久3年)、渋沢栄一は従兄の尾高惇忠やいとこの渋沢喜作らとともに、ある大胆な計画を立てます。

計画の中身:上野国の高崎城を武力で乗っ取って武器を奪い、その勢いで横浜の外国人居留地を焼き討ちする。これにより全国の志士を蜂起させ、幕府を打倒する——というもの。

仲間は約70人を集め、武器の調達まで進めていました。今でいう「武装テロ計画」に近いレベルの過激な行動です。それを23歳の若者が、本気で実行しようとしていたのです。

渋沢栄一
渋沢栄一

このままでは日本は外国に飲み込まれる。話し合いでは何も変わらん。武力で幕府を倒すしかないのだ——!

しかし計画決行直前の話し合いで、京都から戻ってきた従兄の尾高長七郎おだかちょうしちろうから「今この時期に行動すれば必ず失敗する」と猛反対されます。激しい議論の末、栄一は計画を断念しました。もしこのとき長七郎が止めなかったら、栄一は刑死していたかもしれません。歴史の「もしも」を感じさせる場面です。

■計画中止——一橋慶喜の家臣となる

計画は中止しましたが、すでに幕府に動きを察知されており、栄一は故郷にいられなくなります。京都へ逃れた栄一を救ったのは、後に15代将軍となる一橋慶喜ひとつばしよしのぶ(徳川慶喜)の側近・平岡円四郎ひらおかえんしろうでした。

平岡は、若き栄一の能力を見抜き、「うちの殿(慶喜公)に仕えてみないか」と誘います。1864年、栄一は一橋家の家臣として正式に武士になりました。倒幕を目指していた青年が、皮肉にも幕府の最高権力者の家臣に転身したのです。

あゆみ
あゆみ

あれ?倒幕したかったのに、幕府側に就職しちゃったの?それって思想を裏切ったってこと?

もぐたろう
もぐたろう

当時の若者にとってはよくあることなんだ。栄一は「武力で倒幕」から「内側から幕府を変える」に作戦を切り替えたんだよ。彼の柔軟さは、後の実業家としての成功にもつながっていくよ。

■パリ万博への派遣——世界を見た渋沢栄一

そして1867年(慶応3年)、栄一の人生を決定づける出来事が起こります。徳川慶喜の異母弟・徳川昭武とくがわあきたけパリ万国博覧会に出席することになり、栄一はその随行員に選ばれたのです。当時27歳のことでした。

1867年パリ滞在中の渋沢栄一
1867年、パリ滞在中の渋沢栄一。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

パリで栄一が目にしたのは、まったく未知の世界でした。株式会社という仕組み近代的な銀行制度鉄道や下水道のインフラ議会で議論する政治家たち——日本では誰も見たことのない近代社会が、そこにありました。

渋沢栄一
渋沢栄一

これは…株式会社という仕組み、なんと素晴らしい。武力ではなく、経済の力で国を強くできる。これこそ、これからの日本に必要なものではないか——!

パリ滞在は約1年半に及び、フランスをはじめスイス・オランダ・イギリスなど欧州各国を視察。栄一は「武力で倒幕」という青臭い思想から完全に脱却し、「経済の力で日本を近代化する」という新たな志を抱くようになります。

ところが滞在中の1868年、日本では大政奉還・戊辰戦争が起こり、慶喜は将軍を退位。徳川幕府は終わりを告げました。栄一は「主君の幕府がなくなった」という知らせを受け、急いで帰国の途につきます。

明治維新後の活躍——第一国立銀行と約500社の設立

1868年(明治元年)、帰国した栄一を待っていたのは、もはや幕府ではなく新しい明治政府でした。元主君の慶喜は静岡に蟄居しており、栄一はとりあえず慶喜のもとで静岡藩の財政整理に携わることになります。

■大蔵省出仕から実業界へ

静岡で栄一は、フランスで学んだ知識を活かし、日本初の合本会社(株式会社の原型)といわれる「商法会所しょうほうかいしょ」を設立。この実績が新政府の目に留まり、1869年(明治2年)に大蔵省への出仕を命じられます。倒幕計画を立てた青年が、皮肉にも明治新政府の官僚になったのです。

大蔵省では、当時の上司・井上馨いのうえかおるのもと、新貨条例(円・銭・厘の通貨制度)、国立銀行条例地租改正の準備など、近代日本の財政・金融制度の骨格づくりに大きく関与しました。今でいう「財務省のキーマン」として活躍したのです。

しかし1873年(明治6年)、陸海軍費の削減をめぐる対立が原因で、井上馨とともに辞職し、33歳で実業界へ転身することになります。エリート官僚の道を捨てて、自ら経済を動かす側に回ったのです。

もぐたろう
もぐたろう

当時の常識では「官(お上)が偉い、商人は下」が当たり前。エリート官僚が自ら降りて商人になるなんて、今でいえば財務省事務次官が辞めてベンチャーを作るくらい衝撃的な行動だったんだ!

■第一国立銀行の設立(1873年)

大蔵省を辞めた栄一が真っ先に手がけたのが、第一国立銀行だいいちこくりつぎんこうの設立です。1873年(明治6年)、自身が大蔵省で起草に関わった国立銀行条例に基づいて、日本初の銀行として開業。栄一は初代総監役(後に頭取)に就任しました。

第一国立銀行(明治初期の銀行建築)
第一国立銀行(東京・日本橋兜町)。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

第一国立銀行は、現在のみずほ銀行のルーツにあたる金融機関です。「国立」という名前ですが、実際には民間資本(三井組・小野組など)が出資した私立銀行で、政府が認可・監督する形態でした。日本の近代金融システムは、ここから始まったのです。

ゆうき
ゆうき

なんで銀行が一番大事だったの?工場とか作るほうが先じゃないの?

もぐたろう
もぐたろう

いい質問!工場を作るには、莫大なお金(資本金)が必要だよね。みんなから少しずつお金を集めて事業に回す——その仕組みが「銀行」と「株式会社」なんだ。栄一はパリで学んだこの仕組みを、まず銀行から作ろうとしたんだよ。

■富岡製糸場など約500社の設立に関与

第一国立銀行を起点に、栄一は次々と日本に欠けていた基幹産業を立ち上げていきます。銀行、紡績、製糸、保険、鉄道、ガス、電気、ホテル、新聞、海運——あらゆる分野に関与し、生涯で関わった企業は約500社とされます。

富岡製糸場(明治5年・歌川国輝による錦絵)
明治5年の富岡製糸場(歌川国輝筆)。出典:Wikimedia Commons / 国立国会図書館(パブリックドメイン)

大蔵省時代には、富岡製糸場とみおかせいしじょうの設立にも深く関わりました。富岡製糸場は1872年(明治5年)、群馬県富岡に開設された日本初の官営模範工場。生糸(絹の原料)の輸出で日本が外貨を稼ぐ基盤となり、2014年にユネスコ世界遺産にも登録された施設です。

渋沢栄一が関わった主な企業・機関(一例)
第一国立銀行(→みずほ銀行)/東京海上保険(→東京海上日動)/王子製紙/日本郵船/東京瓦斯(→東京ガス)/東京電灯(→東京電力)/帝国ホテル/大阪紡績(→東洋紡)/日本製鋼所/秩父鉄道/東京証券取引所など

みなさんが普段よく目にする企業の多くが、栄一の関与から生まれているのです。だからこそ「日本資本主義の父」と呼ばれます。

あゆみ
あゆみ

500社って、1人の人生で本当に可能な数字なの?1社1社にちゃんと関われたのかしら?

もぐたろう
もぐたろう

もちろん全て主導したわけじゃなくて、設立準備・資金集め・経営アドバイスといった形で関わったんだ。それでも91歳まで現役で動き続けたから、年に数社ペースなら数字的には現実的なんだよ!

■岩崎弥太郎との”哲学対決”

約500社の設立に関わるなかで、渋沢栄一がもっとも鋭く対立した相手が岩崎弥太郎いわさきやたろうです。三菱財閥みつびしざいばつを築いた岩崎は「優秀な人間が独占的に経営する」専制主義を信条とし、渋沢の「みんなで株式を出し合う」合本主義と真正面から衝突しました。

ふたりは屋形船の席上で直接議論を交わしたと伝わっています。岩崎が「合本法では経営が散漫になる。もう少し専制主義でやる必要がある」と述べると、渋沢は「一人の才覚が富を独占するより、広く資本と知恵を集めた方が国全体が豊かになる」と反論。互いに一歩も引かず、決着がつかないまま終わったといいます。

渋沢栄一
渋沢栄一

富は一人に偏るべきではない。広く社会全体に行き渡ってこそ、国は真に豊かになるのです。

あゆみ
あゆみ

「みんなで株を出し合う」合本主義って……それって今の株式市場の仕組みそのものじゃないかしら?

もぐたろう
もぐたろう

まさにそう!渋沢の合本主義が、日本の株式会社制度の原点なんだ。岩崎が作った三菱財閥も急成長したけど、どちらの哲学が正解かは今も議論されているんだよね。ふたりの対立は「明治経済界の哲学バトル」として語り継がれているよ。

「論語と算盤」とは?——道徳経済合一説

渋沢栄一の思想を一言で表すのが、『論語と算盤』ろんごとそろばんです。1916年(大正5年)に出版された講演録で、栄一の経営哲学を象徴する代表作。タイトルの通り、論語(道徳)と算盤(経済)は両立できるという思想を説いています。

■「算盤だけ」では国は豊かにならない

当時の日本は、明治の急速な近代化のなかで、利益優先の「拝金主義」が広がっていました。商売人は「儲かれば何でもいい」と考え、社会のためになる発想が乏しかったのです。栄一はこの風潮を強く危惧していました。

かといって、道徳ばかりを説く儒教じゅきょうのように「商売は卑しいものだ」と決めつけるのも、国を貧しくするだけ。栄一は「道徳と経済は車の両輪のようなもの。どちらが欠けても国は栄えない」と主張しました。

渋沢栄一
渋沢栄一

算盤を弾くだけの商人には、わしは絶対なりたくなかった。道徳なき経済は、社会を壊すだけだ。一方で、算盤なき道徳もまた、国を貧しくする——両方が必要なのだ。

この思想を道徳経済合一説どうとくけいざいごういつせつと呼びます。「経済活動も、社会のためになる正しいものでなければならない」という考え方は、現代でいう「CSR(企業の社会的責任)」「ESG経営」の先駆けともいえる思想です。

■「大谷翔平も愛読した」現代での評価

『論語と算盤』は、出版から100年以上経った現代でも読み継がれているロングセラーです。とくに2010年代以降、ビジネスパーソンの間で再評価が進みました。きっかけのひとつは大リーガー・大谷翔平選手。プロ入り後には日本ハム時代の栗山英樹監督から『論語と算盤』を勧められたともいわれます。大谷選手の愛読書として紹介される機会が増えたことで、本書は若い世代にも広く知られるようになりました。

あゆみ
あゆみ

『論語と算盤』って、今のビジネス書の感覚で読んでも面白いのかしら?難しい儒教の本だと身構えちゃう…。

もぐたろう
もぐたろう

もともと講演を本にまとめたものだから、けっこう読みやすいんだよ!「お金の儲け方」じゃなくて「どう生きるか・どう働くか」の話なんだ。現代語訳版なら中高生でも十分読める内容だよ。

「論語と算盤」の思想は、現代の日本企業や経営者にも大きな影響を与え続けています。150年前に渋沢が説いた「道徳と経済の両立」は、グローバル化と環境問題が叫ばれる現代こそ、改めて見直されているといえます。

教育・社会事業への貢献——約600の公共事業

渋沢栄一のすごさは、実業界だけにとどまりません。生涯で約600の公共事業・社会事業に関わったとされ、教育・福祉・医療・文化・国際交流——あらゆる分野で日本の近代化を後押ししました。

■学校・大学の設立に関与

栄一は「教育こそ国の礎」という信念から、多くの教育機関の設立や運営に尽力しました。代表的なのが、現在の一橋大学の前身である東京高等商業学校とうきょうこうとうしょうぎょうがっこう。1875年の前身機関設立期から栄一が支援し、日本初の商業教育機関として育てました。

そのほかにも、女子教育の支援として日本女子大学校にほんじょしだいがっこう(現・日本女子大学)の設立、早稲田大学の支援、商業学校・工業学校の各地への設立など、関わった教育機関は数十にのぼります。

ゆうき
ゆうき

なんで実業家なのに、女子の教育とかにまでお金を出したの?

もぐたろう
もぐたろう

ここが「論語と算盤」のすごいところ!「経済を発展させるには、人を育てるのが先」と考えていたんだ。当時、女子に高等教育なんて意味がない——という風潮の中で、栄一は「女性も教育を受けるべき」と支援したんだよ。当時としてはかなり進歩的だね。

■社会福祉・国際交流活動

栄一はまた、孤児や貧困者の救済にも生涯尽力しました。代表的なのが東京養育院とうきょうよういくいんです。1872年に設立された日本初の総合的な救貧施設で、栄一は1874年から運営に関わり、事務長・院長を歴任して亡くなる直前まで実に57年間も無報酬で携わりました

晩年は国際交流にも力を注ぎ、日米関係の悪化を憂えて1909年と1915年にアメリカ訪問。「人形使節」として日米間で交わされた「青い目の人形」交流(1927年)にも尽力しました。これらの活動が評価され、1926年と1927年の2度、ノーベル平和賞の候補にも挙げられています(受賞は逃しましたが、日本人としては最初期の候補のひとりでした)。

もぐたろう
もぐたろう

実は渋沢栄一、ノーベル平和賞の候補に2度もなっていたんだよ!日本人としては最初期の候補入りだったんだ。経済人としてだけじゃなく、国際貢献でも超一流だったってことが、あまり知られていないんだよね。

📌 豆知識:渋沢栄一は91歳で亡くなる直前まで、企業の経営アドバイスや社会事業の現場で活動を続けていました。「働けるうちは社会のために働く」という姿勢を、生涯貫いた人物だったのです。

■戦争を止めようとした——日米平和への最後の願い

晩年の渋沢栄一をもうひとつ突き動かしていたのが、日米関係の悪化を食い止めたいという強い使命感でした。1924年にアメリカが「排日移民法」を制定すると、栄一は「日米友好の致命傷になりかねない」と深刻に受け止め、80歳を超えた身でありながら国内から書簡・声明・民間外交組織を通じて日米の架け橋となる活動を続けました。

1927年には「青い目の人形」交流事業を支援し、アメリカから贈られた人形を日本全国の学校で受け入れて子どもたちの交流を促進。こうした活動が評価され、1926年・1927年と2年連続でノーベル平和賞の候補に推薦されました(受賞には至りませんでした)。

しかし1931年(昭和6年)9月18日、関東軍が独断で軍事行動を起こす満州事変まんしゅうじへんが勃発。日米関係が決定的に悪化するなか、渋沢は病床に伏していました。それから54日後の11月11日、渋沢栄一は91歳で息を引き取ります。自らが生涯かけて防ごうとした戦争への道が開かれるのを、最後まで目の当たりにしながら逝ったのです。

あゆみ
あゆみ

満州事変の54日後に亡くなったって……自分が止めようとした戦争の始まりを見届けて逝ったということかしら?

もぐたろう
もぐたろう

まさにそういうことなんだ……。渋沢が生涯をかけて築こうとした「道徳と経済の両立」「平和な国際関係」が、まさに壊れようとしているその瞬間に逝った。経済人としてだけじゃなく、平和主義者としての渋沢栄一の人生って、本当に重いよね。


渋沢栄一の名言・人物像

渋沢栄一を語るうえで欠かせないのが、生涯で残した数々の名言です。91歳まで現役で働き続けた栄一の言葉は、いまもビジネスパーソンや学生の心を打ち続けています。ここでは、その人柄が伝わる代表的な名言と、人物像をあわせて見ていきましょう。

■代表的な名言「夢七訓」

栄一の名言として広く知られるのが夢七訓ゆめしちくんと呼ばれる格言です。「夢なき者は理想なし、理想なき者は信念なし……」と続く一連の言葉で、夢を持つことの大切さを説いた名文として知られています。(※なお原典となる渋沢の著作・談話が特定されておらず、出典については諸説あります)

「夢なき者は理想なし、理想なき者は信念なし、信念なき者は計画なし、計画なき者は実行なし、実行なき者は成果なし、成果なき者は幸福なし、ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず」

夢から始まり、理想・信念・計画・実行・成果・幸福へとつながる7段階の連鎖。栄一自身が「農民の少年から日本資本主義の父へ」という人生を歩んだからこそ説得力のある言葉です。

渋沢栄一
渋沢栄一

夢があるからこそ、理想が生まれる。理想があるからこそ、信念が生まれる——。何歳になっても、夢を持ち続けることこそが、人生を豊かにする唯一の道なのだよ。

■その他の代表的な名言

栄一が残した名言は数百にのぼります。そのなかでも、現代の働く人にとくに響く言葉をいくつか紹介します。

渋沢栄一の名言(抜粋)
  • 「四十、五十は洟垂れ小僧、六十、七十は働き盛り、九十になって迎えが来たら、百まで待てと追い返せ」——91歳まで働き続けた栄一らしい人生観
  • 「事業を行うには、利己ではなく利他の精神が大切である」——『論語と算盤』に通じる経営哲学
  • 「真の経済活動は、道義に基づかなければならない」——道徳経済合一説のエッセンス
  • 「一人の富豪より、多くの中産階級が幸せに暮らせる社会を作りたい」——格差を嫌い、社会全体の底上げを目指す思想

■91歳まで現役——驚異の活動量

栄一の人物像で何より驚かされるのが、その活動量と寿命です。1840年生まれ・1931年没。91歳という当時としては破格の長寿を全うし、しかも亡くなる直前まで現役で社会事業の現場に立ち続けました。

晩年、自宅で病に倒れたときも、見舞いに来た人々と社会問題について議論を続けたといいます。西郷隆盛や大久保利通といった同時代の維新の英雄たちが、明治初期に世を去ったのとは対照的でした。

ゆうき
ゆうき

91歳まで現役って、今でもすごい長寿だよね?江戸時代生まれの人なのに信じられない!

もぐたろう
もぐたろう

当時の平均寿命は40〜50歳くらいだから、まさに桁違いだよ!しかも引退してのんびりじゃなくて、最後まで現役で働き続けたんだ。「働けるうちは社会のために働く」っていう生き方そのものが、栄一らしい人物像なんだよね。

■元主君・慶喜への生涯の忠義——『徳川慶喜公伝』25年の大仕事

渋沢栄一の人物像を語るうえで欠かせない話が、元主君・徳川慶喜とくがわよしのぶへの忠義です。明治維新で徳川幕府が終わり、慶喜は「大政奉還後に江戸城から逃げ去った将軍」として世間から厳しく批判されていました。実業家として成功し、明治政府とも深い関係をもつ渋沢にとって、慶喜をかばうことは政治的にも不利な選択でした。

それでも渋沢は諦めなかった。1893年(明治26年)頃から慶喜の伝記編纂を企図し、慶喜本人に直接会って聞き取りを重ねました。栄一が主導した「昔夢会」では慶喜から17回にわたる聞き取りを実施。そして約25年の歳月をかけて、1918年(大正7年)に全8巻の『徳川慶喜公伝』を刊行しました。

残念ながら慶喜本人は完成を見ることなく、1913年(大正2年)に76歳で死去。それでも渋沢は編纂を続け、最後まで元主君の名誉回復に尽くしました。「義理と合理性を兼ね備えた人間」という渋沢栄一の本質が、もっとも色濃く表れたエピソードのひとつです。

渋沢栄一
渋沢栄一

慶喜公のことは、世間がどう言おうと私が正しく伝えなければならない。それが家臣としての最後の務めです。

ゆうき
ゆうき

25年もかけて!?しかも慶喜が死んでも完成させたの?

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだよ!自分が明治政府とも深い関係があるなかで、幕府最後の将軍を擁護するって、かなり勇気がいる行動だよね。「義理人情と合理主義を両立した人」っていう渋沢の本質が、このエピソードに全部詰まっている気がするんだよ。

渋沢栄一が新一万円札に選ばれた理由

2024年7月3日、日本のお札が約20年ぶりに新しいデザインへ切り替わりました。新一万円札の顔となったのが、本記事の主人公・渋沢栄一です。なぜ福沢諭吉から栄一にバトンが渡されたのでしょうか。その理由を見ていきましょう。

■2024年新紙幣切り替えと渋沢栄一

新紙幣の人物選定は、財務大臣・日本銀行・国立印刷局の協議で決まります。2019年4月、当時の麻生太郎財務大臣が新一万円札に渋沢栄一を起用すると正式発表しました。同時に五千円札は津田梅子つだうめこ、千円札は北里柴三郎きたさとしばさぶろうへと刷新。いずれも明治期に活躍した人物です。

財務省は栄一の選定理由として、「日本資本主義の父として、日本の近代化と経済発展に大きく貢献したこと」を挙げています。約500社の設立に関わり、福祉・教育などの社会事業にも生涯尽力した功績——その総合的な評価が、新紙幣の顔という栄誉につながったのです。

■「現代に必要な思想」として再評価された

もうひとつ大きいのが、「論語と算盤」の思想が現代に通じるという評価です。経済成長一辺倒ではなく、道徳・社会貢献と経済発展を両立させるという考え方は、SDGsやESG経営が叫ばれる現代の世界にぴったり当てはまります。

「過去に学び、未来を作る」——150年前に栄一が説いた哲学が、いまも色褪せない。その普遍性こそが、新一万円札の顔として選ばれた最大の理由といえるでしょう。

あゆみ
あゆみ

福沢諭吉から渋沢栄一に交代って、「学問」から「経済」に時代の関心が移ったってことなのかしら?

もぐたろう
もぐたろう

鋭い見方!福沢諭吉が「学問のすすめ」で個人の独立を説いた人なら、栄一は「経済の力で社会を動かす」を実践した人。日本が直面する低成長・格差・SDGsといった課題に、栄一の哲学がもう一度必要になっているってことなんだよ。

📌 豆知識:旧一万円札(福沢諭吉)も、新一万円札の発行後しばらくは引き続き使えます。日本の紙幣は発行停止後も法的には無期限で通用するため、慌てて両替する必要はありません。

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 第一国立銀行(1873年・明治6年):日本初の銀行。栄一が初代総監役(後に頭取)。現みずほ銀行のルーツ
  • 渋沢栄一(1840〜1931年):江戸末期生まれ・昭和初期没。91歳まで現役で活動
  • 「日本資本主義の父」:約500社の設立に関与した功績から。第一国立銀行・東京海上保険・王子製紙などが代表例
  • パリ万国博覧会(1867年):徳川昭武に随行して欧州を視察。株式会社・銀行制度を学んだ転換点

渋沢栄一をもっと深く知るためのおすすめ本

ここまで読んで「もう少し詳しく知りたい」と思った方のために、渋沢栄一を学ぶうえで定番のおすすめ書籍を紹介します。中高生から大人まで、それぞれのレベルに合った本を選びました。

もぐたろう
もぐたろう

渋沢栄一についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!

①速習向けなら|渋沢栄一の思想をまず押さえたい人に

現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)

渋沢栄一(守屋淳 訳) 著|筑摩書房


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よくある質問(FAQ)

江戸末期から昭和初期にかけて活躍した日本の実業家・思想家です。武蔵国(現・埼玉県深谷市)の農家に生まれ、幕末は尊王攘夷の志士として活動。一橋家への仕官・パリ万博を経て明治政府に出仕し、後に実業界へ転じて第一国立銀行をはじめ約500社の設立に関わりました。「日本資本主義の父」と呼ばれます。

財務省は「日本資本主義の父として、日本の近代化と経済発展に大きく貢献したこと」を選定理由として挙げています。さらに、約500社の企業設立や約600の社会事業への関与、そして「論語と算盤(道徳経済合一説)」が現代のSDGs・ESG経営とも通じる思想として再評価されたことが、選ばれた背景です。

「論語」は道徳・倫理、「算盤」は経済・利益を象徴しています。栄一は「道徳と経済は両立できる」と考え、その思想を「道徳経済合一説」と呼びました。同名の著書(1916年刊)は栄一の講演をまとめたもので、現代でも経営者・ビジネスパーソンの愛読書として読み継がれています。

日本の近代経済の基盤となった「銀行制度」と「株式会社制度」を、最初期に体系的に導入した立役者だからです。第一国立銀行を皮切りに、銀行・紡績・保険・鉄道・電気・ガスなど約500社の設立に関わり、日本の主要産業を一気に近代化させました。その規模と影響力から「父」と呼ばれます。

約500社といわれます。代表的なものに第一国立銀行(→みずほ銀行)、東京海上保険(→東京海上日動)、王子製紙、日本郵船、東京瓦斯(→東京ガス)、東京電灯(→東京電力)、帝国ホテル、大阪紡績(→東洋紡)、東京証券取引所などがあります。すべてを主導したわけではなく、設立準備や経営アドバイスといった形で関わったケースも多く含まれます。

もっとも有名なのが「夢七訓」——「夢なき者は理想なし、理想なき者は信念なし、信念なき者は計画なし、計画なき者は実行なし、実行なき者は成果なし、成果なき者は幸福なし、ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず」です。ほかにも「四十、五十は洟垂れ小僧、六十、七十は働き盛り」「事業は利己ではなく利他の精神が大切」など、人生観や経営観を語った名言が数多く残されています。

まとめ:渋沢栄一の生涯と功績

渋沢栄一のポイントまとめ
  • 1840年生まれ・武蔵国の農家出身。幕末は尊王攘夷の志士として高崎城乗っ取り計画にも関与
  • 一橋家仕官→1867年パリ万博随行→明治政府・大蔵省を経て1873年に実業界へ転身
  • 第一国立銀行(現みずほ銀行のルーツ)をはじめ、約500社の設立に関わり「日本資本主義の父」と呼ばれる
  • 『論語と算盤』で「道徳経済合一説」を提唱。SDGs時代の現代にも通じる思想として再評価
  • 教育・福祉など約600の公共事業にも貢献。ノーベル平和賞候補に2度選出された国際的な評価
  • 2024年7月から新一万円札の顔に採用。91歳まで現役で活動し続けた驚異の生涯

渋沢栄一の生涯年表
  • 1840年
    武蔵国血洗島村(現・埼玉県深谷市)に農家の長男として生まれる
  • 1863年
    高崎城乗っ取り・横浜焼き討ち計画を立案するが、直前に中止
  • 1864年
    一橋慶喜(のちの15代将軍徳川慶喜)の家臣となる
  • 1867年
    パリ万博に徳川昭武に随行・ヨーロッパの株式会社制度を学ぶ
  • 1869年
    明治政府・大蔵省に出仕し、近代財政制度の整備に関わる
  • 1872年
    富岡製糸場の設立に関与(日本初の官営模範工場)
  • 1873年
    大蔵省を辞任。第一国立銀行(現みずほ銀行のルーツ)の総監役に就任(頭取は1875年より)
  • 1874年
    東京養育院の運営に関与(以後57年間・事務長・院長として無報酬で携わる)
  • 1875年
    東京高等商業学校(現・一橋大学)の設立を支援
  • 1909年
    渡米実業団を率いてアメリカを訪問し、日米経済交流に尽力
  • 1916年
    『論語と算盤』を刊行(道徳経済合一説を著す)
  • 1926年
    ノーベル平和賞候補に推薦される(翌1927年にも再推薦)
  • 1931年
    91歳で死去(東京・王子)
  • 2024年
    新一万円札の顔に採用・流通開始

もぐたろう
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以上、渋沢栄一のまとめでした!農民の少年がテロ計画から立ち直り、欧州を見て、日本の経済を一気に近代化させた——まさに「日本資本主義の父」と呼ぶにふさわしい人物だったね。下の関連記事もあわせて読んで、明治の激動の時代をもっと深く知ってみてね!

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「渋沢栄一」(2026年5月確認)
コトバンク「渋沢栄一」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』
渋沢栄一記念財団 公式サイト(2026年5月確認)
財務省 新紙幣特設ページ(2026年5月確認)

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