佐々成政とは?信長の黒母衣衆がさらさら越えを決行し肥後で切腹した理由をわかりやすく解説

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佐々成政

もぐたろう
もぐたろう

今回は戦国武将・佐々成政について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!信長の精鋭部隊「黒母衣衆」のトップとして活躍し、真冬の北アルプスを越えた伝説の男・成政の生涯を、一緒に追いかけてみよう。

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版社『詳説日本史』準拠

この記事を読んでわかること
  • 佐々成政とはどんな武将か(信長の黒母衣衆筆頭として活躍した経緯)
  • さらさら越えとは何か(厳冬の立山連峰越えの目的・ルート・史実論争)
  • 越中国主として富山をどう治めたか(富山城主としての業績)
  • なぜ切腹させられたのか(肥後国人一揆と秀吉の怒りの真相)
  • 佐々成政の人物像と評価(逸話・「富山の英雄」としての再評価)

佐々成政さっさなりまさと聞くと「秀吉に逆らって切腹させられた、悲劇の武将」というイメージを持つ人が多いかもしれません。でも実は、彼は織田信長の精鋭親衛隊「黒母衣衆」の筆頭を務めたエリート武将であり、真冬の北アルプス・立山連峰を越えて徳川家康に直訴した「さらさら越え」の決行者として、今なお富山では「成政公」と慕われる人物なのです。

この記事では、信長への忠誠と秀吉への反骨を貫いた成政の波乱の生涯を、わかりやすく解説していきます。



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佐々成政とは?

佐々成政とは?3行でわかる

① 織田信長の精鋭親衛隊「黒母衣衆くろほろしゅう」の筆頭として活躍した戦国武将
② 厳冬の立山連峰を越えた「さらさら越え」で有名な越中(富山)の国主
③ 豊臣秀吉に従ったのち肥後(熊本)を与えられたが、国人一揆の責任を問われ切腹

佐々成政は、戦国時代の武将で、尾張国おわりのくに(現在の愛知県)に生まれました。生年は1536年(天文5年)とされていますが諸説あります。父は佐々成宗(盛政とも)で、若くして織田信長に仕え、その武勇と忠義を認められて出世しました。

信長の親衛隊である黒母衣衆の筆頭にまで上りつめ、長篠の戦いでは鉄砲部隊を率いて武田軍を打ち破る活躍を見せます。やがて越中(富山)を任される国主となり、信長亡き後は柴田勝家と組んで豊臣秀吉に対抗しますが、最終的には敗れて秀吉に降伏。1588年に切腹してその生涯を閉じました。享年53(諸説あり)。

佐々成政の肖像画
佐々成政の肖像画(歌川芳幾画/出典:Wikimedia Commons パブリックドメイン)



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信長のエリート親衛隊「黒母衣衆」の筆頭へ

織田信長肖像画
織田信長の肖像画(狩野宗秀筆・1583年/出典:Wikimedia Commons パブリックドメイン)

佐々成政の名を一気に押し上げたのが、織田信長の親衛隊「黒母衣衆くろほろしゅう」の筆頭に選ばれたことです。

母衣ほろとは、武将が背中に背負った布製の風船のような防具で、流れ矢を防ぐためのものでした。信長はこの母衣を身につけたエリート部隊を「赤母衣衆」「黒母衣衆」の2チームに編成し、自分の身辺警護と伝令役を担わせていました。

選ばれるのは、武勇・忠誠心・知略すべてに優れた者のみ。成政はそのなかで黒母衣衆の筆頭、つまり総隊長クラスのポジションを与えられました。これは「織田家でも指折りの実力者」として信長から認められた証でした。

ゆうき
ゆうき

「黒母衣衆」って、ぶっちゃけどんな部隊なの?

もぐたろう
もぐたろう

今でいうと、社長のすぐそばで動く「特別警護隊+秘書チーム」みたいなものだね。戦場では信長の身を守って、平時には命令を伝えに走り回る。エリートサラリーマン軍団ってイメージに近いよ!しかも成政はその中のリーダーだから、めちゃくちゃ出世コースだったんだ。

成政は若い頃から信長に仕え、桶狭間の戦い・美濃攻め・姉川の戦いなど、数々の戦場で実績を積み重ねていきました。気の荒いことで知られる信長から信頼されるのは並大抵のことではなく、彼が黒母衣衆の筆頭になれた背景には、武功と裏表のない忠義があったと言われています。



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長篠の戦いと鉄砲部隊の活躍

長篠合戦図屏風
長篠合戦図屏風(出典:Wikimedia Commons パブリックドメイン)

1575年(天正3年)、織田・徳川連合軍と武田勝頼軍がぶつかった長篠の戦い。「鉄砲三段撃ち」で有名なこの戦いで、佐々成政は鉄砲奉行として最前線に立ちます。

信長は柵を組んだ陣地に大量の鉄砲隊を配置し、武田の騎馬隊を迎え撃つ作戦を立てました。鉄砲隊の指揮を任されたのは、佐々成政・前田利家まえだとしいえ野々村正成ののむらまさなり福富秀勝ふくずみひでかつ塙直政ばんなおまさの5人。いずれも黒母衣衆や赤母衣衆出身の精鋭たちでした。

戦国最強と謳われた武田の騎馬隊が、織田軍の鉄砲の前に次々と倒れていく——。この戦いの勝利は日本の戦の形を大きく変えたと言われ、成政はその立役者の一人として名を残しました。

佐々成政
佐々成政

武田の騎馬隊が突っ込んでくるなど恐るるに足らず。信長公の御計略どおり、我らが鉄砲衆で射抜いてみせる——!

長篠の戦いでの活躍は信長にも高く評価され、成政はやがて越中(富山)を任される大名へと出世していきます。次の章では、富山城主としての成政の姿を見ていきましょう。



越中国主・富山城主として

富山城
富山城(現在の様子/出典:Wikimedia Commons パブリックドメイン)

1581年(天正9年)頃、佐々成政は信長から越中国えっちゅうのくに(現在の富山県)を任されます。信長の北陸方面軍の中核として、上杉氏や一向一揆勢力と戦いながら、徐々に越中全域を平定していきました。

居城に選んだのが富山城。神通川をうまく使った要害の地で、成政は城を大改修し、城下町を整えました。用水路ようすいろの整備や治水ちすい事業にも力を入れたと伝えられ、地域に根を張った領国経営を進めていきます。

この時期の成政は、信長から信頼されたエリート武将であり、いわば北陸方面の「現場責任者」のような立場でした。今でも富山県では「成政公」と敬称で呼ばれ、地元の英雄として親しまれています。

あゆみ
あゆみ

越中って今の富山県ですよね?富山では、成政って今でも人気があるんでしょうか?

もぐたろう
もぐたろう

今でも富山ではかなりの人気者なんだ。神通川の治水や用水路を整えてくれたお殿様、っていうイメージで「成政公」って呼ばれているよ。地元のお祭りや観光スポットにも成政の名前が出てくるくらい、富山に深く根付いた武将なんだよね!

このまま順調に出世していくかに見えた成政ですが、1582年(天正10年)にすべての歯車を狂わせる大事件が起こります。本能寺の変——主君・信長の死です。次の章では、信長亡き後の成政の決断を見ていきましょう。



本能寺の変後―秀吉か柴田か、成政の決断

1582年6月、明智光秀が信長を討つ本能寺の変が起こります。このとき佐々成政は越中で上杉軍と対峙しており、すぐには動けない状況でした。

光秀を討ったのは中国地方から駆け戻ってきた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)。秀吉は清洲会議きよすかいぎで織田家中の主導権を握り、信長の孫・三法師を後継者として擁立します。これに反発したのが、織田家筆頭家老の柴田勝家でした。

越中の成政は、地理的にも人的にも勝家と近い立場にあり、勝家方につく決断をします。「信長公の意志を継ぐのは秀吉ではなく、勝家である」——成政の頭にあったのは、そんな筋目を重んじる思いでした。

佐々成政
佐々成政

俺は信長公の御恩を忘れたわけではない。秀吉の好きにはさせぬ——勝家殿と共に立つまでよ。

1583年(天正11年)、両者の対立は賤ヶ岳の戦いで激突します。しかし成政は越中で上杉軍を抑える役目があり、本隊として戦場に出ることができませんでした。結果、勝家は秀吉に敗れて自害。成政は北陸に取り残された形となり、秀吉と直接向き合うことになります。

頼みの綱だった勝家を失い、孤立した成政。次の章では、彼が選んだ「もう一つの道」——伝説のさらさら越えに話を進めていきましょう。



決死の「さらさら越え」とは?

さらさら越えを描いた浮世絵
佐々成政のさらさら越えを描いた浮世絵(歌川芳兼画/出典:Wikimedia Commons パブリックドメイン)

1584年(天正12年)、秀吉と徳川家康織田信雄が衝突した小牧・長久手の戦いこまき・ながくてのたたかい。佐々成政はこのチャンスに、家康・信雄と組んで秀吉に対抗しようとします。ところが、家康と信雄は秀吉と単独で和睦を結んでしまい、成政だけが取り残されてしまいました。

このままでは、いずれ秀吉に潰される——焦った成政は、あるとんでもない計画を実行します。それが、さらさら越えさらさらごえです。

1584年の年末、真冬の北アルプス・立山連峰を、富山から信濃を経て、遠く浜松の徳川家康のもとへ直接訴えに行く——というのです。当時の人々にとって、冬の北アルプス越えは自殺行為に等しく、誰も成功するなどと思いませんでした。

ゆうき
ゆうき

真冬の北アルプスって、雪山だよね?なんでそんな無謀なルートを選んだの?普通に船とか使えばよくない?

もぐたろう
もぐたろう

そう思うよね。でも当時、北陸の海は秀吉に味方する大名や水軍に固められていて、船で東に行くのはほぼ不可能だったんだ。陸路は加賀の前田利家や上杉景勝に塞がれていて、唯一残された道が「誰もが通らない真冬の山越え」だったんだよ。本当に、追い詰められた末の選択肢だったんだ。

通説では、富山を出発した成政一行は、立山からザラ峠を越え、針ノ木峠を抜けて信濃に入り、長い旅の末に浜松の徳川家康に面会したと伝えられています。連れていたのは100人前後の家臣団で、雪と寒さで多くの犠牲者を出しながらの強行軍でした。

ザラ峠は標高約2,350mに位置し、厳冬期の積雪は胸の高さを超えることもあります。気温は零下20度近くまで下がる日もあり、足先の感覚を失いながら一歩一歩雪を踏み固めて進む消耗戦が続きました。途中、凍傷や疲弊で倒れる家臣も出たといいますが、成政は一切弱音を吐かず、みずから先頭に立って雪原を切り開いたと伝えられています。

佐々成政
佐々成政

たとえ命を落とそうとも、家康殿に直接お会いし、もう一度秀吉と戦うようお願い申し上げる。それがしには、これしか道はない——!

ところが、命がけで浜松にたどり着いた成政を待っていたのは、家康の冷ややかな返事でした。家康はすでに秀吉と和睦しており、「もう一度立ち上がれ」と言われても、首を縦に振るわけにはいかなかったのです。さらさら越えは、成政にとって命がけの空振りに終わってしまいました。



さらさら越えは史実か?諸説ある「越え」の真実

これだけ有名な「さらさら越え」ですが、実はルートも詳細も諸説あり、史実としてどこまで確実なのかは、今も研究者の間で議論が続いています。

さらさら越え「諸説あり」まとめ

① 通説(立山ルート説)
富山 → 立山 → ザラ峠 → 針ノ木峠 → 信濃 → 浜松。江戸時代の軍記物などに記され、もっとも広く知られているルート。

② 飛騨ルート説
富山 → 飛騨(岐阜) → 美濃 → 三河 → 浜松。冬の標高3,000m級の峠越えは現実的に困難なため、もう少し南の飛騨経由の道を通ったのではないかとする説。

③ そもそも実行されたか論争
具体的な日付や同行者リストが残っていないため、「実際にはここまで大規模ではなかったのでは」「家康への使者派遣に尾ひれがついた伝承では」といった見方もある。

一次史料が乏しいため、ルートの詳細は確定していません。ただ、「真冬に成政が北アルプスを越えて家康に直訴に行った」という大筋自体は、複数の文献に記されており、伝承の核としては信じてよいだろうとされています。

あゆみ
あゆみ

つまり、ドラマみたいに立山連峰を越えたかは怪しい部分もあるけれど、「成政が家康に直訴しに行った」こと自体はだいたい本当、ってことなんですね。

もぐたろう
もぐたろう

その理解でほぼOKだよ!「立山ルートか飛騨ルートか」は研究者の間でも意見が割れているけど、命がけの直訴行だったことは間違いないとされているんだ。「さらさら越え=真冬の北アルプスを越えて家康に直訴した伝説の行動」として覚えておこう!



豊臣秀吉への降伏と肥後国拝領

豊臣秀吉の肖像画(出典:Wikimedia Commons パブリックドメイン)

家康への直訴に失敗した成政には、もう打つ手は残されていませんでした。1585年(天正13年)、秀吉は自ら大軍を率いて越中へ攻め寄せ、富山城を包囲します。これが富山の役とやまのえきと呼ばれる戦いです。

圧倒的な兵力差の前に、成政は降伏を決断。剃髪して秀吉の前に出頭し、命乞いをすることになります。意外にも秀吉は成政を許し、ただし越中はほぼすべて召し上げとして、新川郡という小さな所領だけが残されました。

その後、成政は秀吉に従って各地を転戦し、戦功を重ねていきます。そして1587年(天正15年)、秀吉が九州の九州征伐で島津氏を屈服させた直後、思いがけない大抜擢が成政を待っていました。肥後国ひごのくに(現在の熊本県)54万石を与えられたのです。

もぐたろう
もぐたろう

越中から肥後への転封って、ちょっと不思議だよね。実はこの肥後国、九州征伐で島津から取り上げたばかりの「治めにくい新領地」だったんだ。地侍(国人)が強くて、誰がやっても一筋縄ではいかない難しい土地。秀吉としては「これだけ反抗してきた成政を、わざわざ厄介な土地に送り込んで試した」っていう見方もあるんだよ。

富山4万石ほどから肥後54万石への大栄転——表向きは破格の待遇です。しかしその裏には、「成政の力量を試す」という秀吉のしたたかな計算が隠されていました。次の章では、その肥後で何が起きたのかを見ていきましょう。



肥後国人一揆と秀吉の怒り

肥後に入った成政は、領国経営にとりかかります。問題は、肥後にいた国人衆こくじんしゅうと呼ばれる地侍たちでした。彼らは古くからその土地に根を張ってきた小領主で、独立心が強く、外から来た新しい大名に簡単には従いません。

しかも秀吉は肥後赴任にあたって成政に、「3年間は無理な検地を行わず、国人衆を懐柔せよ」と釘を刺していたとされています。これは、秀吉が全国で進めようとしていた太閤検地の準備段階に関わる重要な指示とされています。なお、この指示(定書)については文書の真正性を疑う研究者もおり、諸説ある部分です。

ところが、成政はこの指示に逆らうかたちで、入国直後から独自の検地を強行してしまいます。これに猛反発したのが肥後の国人衆。1587年(天正15年)夏、隈部親永くまべちかながら国人たちが一斉に蜂起し、肥後国人一揆ひごこくじんいっきが勃発しました。

ゆうき
ゆうき

なんで成政は秀吉の指示に逆らってまで、いきなり検地を始めちゃったの?普通に従えばよかったのに……

もぐたろう
もぐたろう

いい質問だね。理由はいろいろ言われていて、「成政が真面目すぎて秀吉の検地方針を早く実現しようとした」とか「54万石の大領国を早く掌握したかった」とか諸説あるんだ。検地っていうのは、土地の広さや収穫量を測って税を取る基礎データを作る作業のこと。国人衆にとっては「自分たちの土地と権利を全部数字でひっくり返される」一大事だから、強引にやれば必ず反発が起きるんだよね。

一揆は瞬く間に肥後全土に広がり、成政の手勢だけでは抑えきれない事態に発展します。秀吉は近隣の大名——黒田孝高(如水)・小早川隆景・立花宗茂らに鎮圧を命じ、ようやく翌1588年(天正16年)になって一揆は鎮められました。

ところが、この一揆鎮圧の責任を全面的に問われることになったのが、ほかでもない佐々成政その人だったのです。次の章では、いよいよ成政の最期に迫ります。



切腹の真相―秀吉の命に背いた代償

1588年(天正16年)閏5月、秀吉は成政に切腹を命じます。表向きの理由は「肥後国人一揆を引き起こし、領国を治められなかった責任」。場所は摂津国尼崎の法園寺ほうおんじで、享年53歳前後(生年は1536年頃説が有力ですが諸説あり)と伝えられています。

しかし、ことはそう単純ではありません。研究者の間では、「秀吉は最初から成政を切腹させるつもりで、わざと統治の難しい肥後を与えたのではないか」という見方も根強くあります。

佐々成政
佐々成政

信長公にお仕えしてより、ただ筋を通すことだけを考えてきた。秀吉に屈してなお信念を曲げぬのが、武士というものよ——この命、惜しむには及ばぬ。

あゆみ
あゆみ

つまり、表向きは「一揆の責任」だけど、本当は秀吉に最後まで楯突いた成政を許さなかったという政治的な決着だった、ということでしょうか?

もぐたろう
もぐたろう

そういう見方は十分成り立つよ。秀吉から見れば、賤ヶ岳でも従わず、家康のところまで山越えして直訴しに行った成政は、いわば「最後まで抵抗を続けた邪魔者」。一揆鎮圧の失敗はちょうどいい口実になったんだろうね。一方で、「秀吉の指示通り穏便にやらなかった成政自身の責任もある」という冷静な評価もあって、ここは難しいところなんだ。

歴史のif:もし成政が指示通り検地を遅らせていたら?

もし成政が秀吉の指示(とされるもの)を守って3年間ほど穏便な統治を続けていれば、肥後国人一揆は起きなかった可能性があります。そうなれば、福島正則や加藤清正と並ぶ秀吉政権の有力大名として、九州の重鎮になっていたかもしれません。
ただし、もともと秀吉と折り合いが悪かった成政が、関ヶ原の戦いまで生き延びられたかどうかは別問題。「いずれどこかで衝突した」と見る者も多く、結局は同じ結末になったのではという見方もあります。



佐々成政の人物像と逸話

佐々成政という武将を語るとき、外せない逸話がいくつかあります。彼の二面性——真面目で忠義に厚い一方、頑固で激しい気性——を象徴するエピソードを4つほど紹介します。

① 信長への諫言エピソード

信長が安土城で能を観ていたとき、家臣たちは「素晴らしい」と褒めるばかり。そのなかで成政だけが「演者の所作が雑であった」と率直に進言したと伝えられます。誰もが顔色をうかがう信長に対しても、自分が見たままを言える正直さを持っていたといわれる逸話です。信長はその場で怒りを示しませんでしたが、逆にこの直言が「気骨のある男だ」と評価につながったという見方もあります。

② さらさら越えに見る決断力

誰もが自殺行為だと笑った真冬の北アルプス越えを実行に移した一点だけでも、成政の常識を超えた決断力と行動力が分かります。多くの戦国武将が「あえて動かない」を選ぶ局面で、成政は最後まで「動く」ことを選んだ武将でした。

③ 側室「早百合」処刑の伝承

富山時代、成政が寵愛していた側室早百合さゆりが浮気を疑われ、子もろとも処刑されたという伝承があります。早百合は「潔白を証明するために、成政様とその家に呪いを——」と言い残して死んでいったといいます。その後、成政は本当に子孫が絶え、家が断絶してしまいました。「早百合の呪い」として、富山には今もこの話が語り継がれています。

📌 側室処刑の逸話について:これは江戸時代以降に広まった伝承で、史実として確認できるしっかりした史料はありません。「成政の悲運な最期を、無実の女の怨念のせいにした怪談」という見方が現在は有力です。記事でもあくまで「伝承」として扱っています。

④ 富山に残る「成政公」の評判

こうした激しい逸話とは対照的に、富山では現在も成政が「成政公」と呼ばれ、領内の治水工事や用水路整備などで地域の基盤を整えた名君として親しまれています。立山町には今もさらさら越えゆかりの地が観光資源として残されており、地元の祭りやイベントに名前が登場するほどの存在感です。

もぐたろう
もぐたろう

成政って「悲運の武将」「強情で短気な男」というイメージが先行しがちだけど、富山の人にとってはずっと「いいお殿様」として残っている武将なんだ。一面では激しい気性、もう一面では領民思いの統治者——どちらも本当の成政の姿。一言では語れない、その奥行きこそがこの人の面白いところなんだよね。



佐々成政についてもっと詳しく知りたい人へ

もぐたろう
もぐたろう

佐々成政の生涯をもっと深く知りたい人におすすめの本を紹介するよ。テスト対策から本格的な歴史研究まで、レベル別に選んだから参考にしてみてね!


①テスト前に生涯をサクッとつかみたいなら

佐々成政 悲運の知将

遠藤 和子 著|学陽書房(人物文庫)


②北陸・越中の戦国史を史料から深く知りたいなら

佐々成政のすべて

花ヶ前 盛明 著|新人物往来社



よくある質問(FAQ)

1536年頃〜1588年。織田信長の精鋭親衛隊「黒母衣衆」の筆頭として長篠の戦いで活躍した戦国武将です。越中国主として富山を治め、厳冬の北アルプスを越えた「さらさら越え」で有名。最期は肥後国人一揆の責任を問われ、豊臣秀吉の命で切腹しました。

1584〜85年の冬、佐々成政が厳冬の立山連峰(北アルプス)を越え、徳川家康のいる浜松まで直訴に向かったとされる伝説的な行動です。通説の立山ルート(ザラ峠・針ノ木峠経由)以外に、より南を通る飛騨ルート説などもあり、詳細は諸説あります。

1587年に肥後で起きた国人一揆の責任を問われたためです。秀吉から「3年間は無理な検地をするな」と指示されていたとされており、独自の検地を強行したことが一揆の原因となりました。翌1588年、摂津尼崎で切腹を命じられました。

もとは共に織田信長の家臣でしたが、本能寺の変後に対立。成政は柴田勝家側につき、賤ヶ岳の戦いで秀吉と争いました。1585年に降伏した後、九州征伐の戦功で肥後一国を与えられましたが、国人一揆の責任を問われて切腹させられました。終始ぶつかり続けた間柄です。

1581年頃から1585年までの約4年間です。短い在任期間ですが、富山城を整備し、神通川の治水工事や用水路の整備にも力を入れたとされ、富山では現在も「成政公」と呼ばれて親しまれています。

「真冬に成政が雪山を越えて家康に直訴に行った」という大筋は複数の文献に記されており、ほぼ事実とされています。ただしルートには「立山・ザラ峠・針ノ木峠ルート」説と「飛騨ルート」説があり、学術的に確定しているわけではありません。



まとめ:佐々成政の波乱の生涯

佐々成政・まとめポイント
  • 信長の精鋭「黒母衣衆」の筆頭として長篠の戦い(1575年)で鉄砲部隊を支えた
  • 越中国主・富山城主として領国を整備し、現在も「成政公」として親しまれる
  • さらさら越え:厳冬の北アルプスを越えて家康に直訴した伝説的な行動(諸説あり)
  • 肥後国人一揆の責任を問われ1588年に切腹。「信念を貫いた武将」として再評価が進む

もぐたろう
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以上、佐々成政のまとめでした!信長への忠義、越中での善政、さらさら越えの決断、そして肥後での悲劇——どこを切り取っても全力で「自分の筋」を通した武将だったね。下の記事で関連する戦国の人物・出来事もあわせて読んでみてください!

佐々成政の生涯年表
  • 1536年頃
    尾張に生まれる(生年は諸説あり)
  • 1575年
    長篠の戦いで鉄砲部隊を指揮、武田軍を撃破
  • 1581年頃
    越中国主・富山城主となる
  • 1582年
    本能寺の変。柴田勝家と連携し秀吉に対抗
  • 1584年末〜85年
    さらさら越えを決行(天正12年11月下旬出発・翌年にかけて)
  • 1585年
    豊臣秀吉に降伏。越中召し上げ後、のちに肥後を拝領
  • 1587年
    肥後国人一揆勃発。秀吉の怒りを買う
  • 1588年
    摂津尼崎の法園寺で切腹。享年53前後(諸説あり)





📅 最終確認:2026年5月



参考文献

Wikipedia日本語版「佐々成政」(2026年5月確認)
コトバンク「佐々成政」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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