

今回は竪穴住居と環状集落について、縄文時代の暮らしからテストに出るポイントまで、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・共通テスト対応
縄文人の家といえば、「地面に穴を掘って、その上に屋根をかけただけの粗末な家」というイメージを持っている人が多いのではないでしょうか。寒くて、暗くて、虫だらけ——そんな印象があるかもしれません。
でも、実は違うんです。
竪穴住居は、夏は涼しく・冬は暖かい、理にかなった「エコ住宅」でした。しかも縄文時代だけの話ではなく、なんと江戸時代の農村まで使われ続けた、日本でもっとも長く使われた住居形式なんです。
この記事では、竪穴住居の構造と「実は快適」な理由、そして縄文時代の集落生活と環状集落の謎を、中学生にもわかりやすく解説していきます。
竪穴住居とは?
① 地面を浅く掘りくぼめて床にし、柱を立てて屋根をかけた縄文〜古代の標準的な住居形式。
② 断熱性・保温性に優れ、夏は涼しく冬は暖かい「エコ住宅」だった。
③ 縄文時代から江戸時代まで1万年以上にわたって、日本各地で使われ続けた。
竪穴住居とは、地面を数十cmから1mほど掘りくぼめて床面をつくり、その上に柱を立てて屋根をかぶせた家のことです。教科書では「竪穴式住居」と書かれることもありますが、どちらも同じものを指しています。

竪穴住居ってどんな家?ふつうの家と何が違うの?

カンタンに言うと、地面を掘って床を作り、そこに柱を立てて屋根をかぶせた家のことだよ!イメージとしては、半分地下室・半分テントみたいな感じかな。今の家みたいに「壁と床と屋根」がきっちり分かれていなくて、屋根がそのまま地面まで下りてくるタイプも多いんだ。
竪穴住居が登場したのは、はるか旧石器時代の終わり頃。本格的に普及したのは、約1万6,000年前からはじまった縄文時代です。それまで人々は洞窟や岩陰で寝起きしたり、移動しながら暮らしていましたが、気候が温暖になるにつれて「同じ場所に長く住む(定住)」という生活スタイルが広がっていきました。
そこで定住に向いた住居として全国に広まったのが、この竪穴住居だったわけです。発掘された竪穴住居の跡は、北海道から沖縄まで日本中で見つかっており、まさに「日本のスタンダード住宅」と呼べる存在でした。

なぜ地面を掘る?竪穴住居のしくみと構造
竪穴住居の最大の特徴は、なんといっても「地面を掘り込む」という点です。なぜわざわざ床面を掘り下げる必要があったのでしょうか。実はこの「掘る」という行為こそが、竪穴住居が長く使われ続けた最大の理由でした。

なんで地面を掘るの?ふつうに地面の上に建てればよくない?掘るの大変そうなのに……。

実はね、地面の中って外気温に左右されにくいんだよ。地面を数十cmから1mほど掘れば、夏は外より涼しく、冬は外より暖かい空間ができるんだ。縄文人たちは、それを経験的に知っていたんだろうね。
竪穴住居の基本的な構造は、次の4つから成り立っていました。
竪穴住居の基本構造(4要素)
① 床:地面を数十cmから1mほど掘り下げて作る
② 柱:床面に4〜6本の柱を立てる
③ 屋根:柱を骨組みに、茅やササなどで葺く
④ 炉:床の中央に火を焚く炉(いろり)を設置
特に重要なのが、床の中央付近に置かれた炉(いろり)の存在です。ここで一日中火を焚き続けることで、暖をとったり、煮炊きをしたり、明かりをとったりしていました。火は煙を出して虫を追い払う効果もあり、まさに「家のセンター」として機能していたわけです。
■ 竪穴住居の形・大きさ
竪穴住居の形は時代や地域によって違いますが、円形・方形(四角形)・楕円形などが多く見られます。サイズはおおむね直径4〜6m、面積15〜30㎡ほどで、これは今でいう10畳〜15畳ほどのワンルームに相当します。

10畳のワンルームに、何人くらいで住んでいたのかしら?家族で暮らしていたの?

大体4〜6人くらい。ちょうど今でいう核家族サイズだね!夫婦と子ども2〜3人ってイメージ。だから竪穴住居が5〜10棟並んでいる集落だと、全部で30〜60人くらいの「ムラ」になっていたんだよ。
■ 伏屋式(ふせや式)と壁立式の違い
竪穴住居の屋根のかけ方には、大きく分けて2タイプあります。
1つ目は伏屋式。屋根の端を直接地面まで下ろすタイプで、外から見ると「屋根しか見えない」三角テントのような形になります。縄文時代の竪穴住居の多くがこのタイプでした。
2つ目は壁立式。地面から少し垂直の壁を立ち上げ、その上に屋根をかけるタイプです。屋根と壁が分かれているため、現代の家に近い形をしています。古墳時代以降の竪穴住居は、こちらのタイプに変化していきました。

竪穴住居の「実は快適」な理由
「縄文人の家なんて寒くて不衛生でしょ?」——これは多くの人が抱く正直な疑問です。ところが実際に復元された竪穴住居に入ってみると、その印象は大きく変わります。

縄文の家って、正直「寒くて不衛生そう」というイメージがあるんだけど……実際はどうだったのかしら?

これがすごく理にかなってるんだよ!地面の中って、地表よりも外気温の影響を受けにくくなるんだ。深く掘るほど温度の変化幅が小さくなって、夏でも涼しく、冬でも凍える寒さにはならないんだ。
竪穴住居が「実は快適」だった理由は、おもに次の3つにまとめられます。
■ 理由1:地面の中は温度が安定している
地面を掘り下げると、外気の影響を受けにくくなります。地表よりも外気温の振れ幅が抑えられ、深く掘るほどその効果が増します。夏は外より涼しく、冬は外より暖かい——これは現代の地下室や半地下住宅と同じ原理です。縄文人は理屈はわからなくても、経験的にこの効果を知っていたわけです。
■ 理由2:中央炉が暖房・調理・照明を一手に担う
床の中央に置かれた炉では、24時間ずっと火が焚かれていました。この火が暖房・調理・照明・虫除け・煙による茅の防腐——と5つの役割を一手に担っていたのです。冬の夜でも炉の周りは暖かく、家族全員が一つの火を囲んで眠ることができました。
💡 中央炉の5大機能:①暖房 ②煮炊き ③照明 ④虫除け(煙) ⑤茅葺き屋根の防腐(煙が屋根の茅にしみて長持ちする)。火を絶やさないことは縄文人にとって生活の基本だった。
■ 理由3:茅葺き屋根が断熱材になる
屋根に使われた茅(かや)やササは、空気を多く含む天然の断熱材です。厚く葺かれた屋根は、夏の強い日射しを遮り、冬の冷気を遮断します。さらに雨水もしっかり防ぐため、現代でいう「高断熱・高気密住宅」と似た性能を発揮していました。
もちろん現代住宅と同じレベルの快適さではありません。煙はこもりやすく、雨が続けば湿気もたまります。それでも、当時の気候・生活水準のなかで考えれば、「もっとも合理的な選択」だったといえるのです。
縄文時代の集落生活
竪穴住居は、ぽつんと1軒だけ建てられることはほとんどありませんでした。5〜10棟ほどの竪穴住居が寄り集まって、ひとつの「ムラ」を形成するのが、縄文時代の典型的な暮らし方でした。
1つの集落の規模はだいたい20〜50人程度。これは血縁関係でつながった大家族や、その親戚たちが集まったコミュニティだったと考えられています。集落のなかには竪穴住居だけでなく、食料を貯めておく貯蔵穴・共同の作業場・墓地などが計画的に配置されていました。

■ 縄文人の1日と暮らしぶり
縄文人の生活は、狩猟・採集・漁労(ぎょろう)の3本柱で成り立っていました。男性はシカやイノシシを狩り、川や海で魚を獲り、女性はクリやドングリ、山菜などを採集する——というように、ゆるやかな分業が行われていたと考えられています。
獲ってきた食料は集落内で分け合い、縄文土器で煮炊きして食べる。夜は炉端で土偶を作ったり、子どもたちにお話を聞かせたり。季節の恵みを集落みんなで分け合いながら、自然のリズムに合わせて暮らす——それが縄文の集落生活でした。

縄文人って、今でいうシェアハウスみたいなイメージで暮らしていたんだよ。1つの集落がほぼ大家族みたいな感じでね、子育ても狩りも採集も、みんなで助け合ってやっていたんだ。だから貧富の差もほとんどなかったって考えられてるよ。
また、縄文人の精神世界ではアニミズム(自然万物に魂が宿るという信仰)が中心でした。山・海・木・動物——すべてに神様がいると考え、感謝とお祈りを欠かさなかった。集落の中央広場では、しばしば祭りや祈りの儀式が行われていたのです。
環状集落とは?中央広場と祭祀空間の謎
竪穴住居を中央広場を囲むように環状(円形・馬蹄形)に配置した、縄文時代特有の集落形態のこと。中央広場は共同作業・祭祀(さいし)・埋葬など、コミュニティ活動の中心として使われた。
環状集落とは、文字どおり「環(わ)」のように住居を円形に並べた集落のことです。中心に広場を置き、その周りをぐるりと取り囲むように竪穴住居が配置されています。
この形は、縄文時代早期末から前期にかけて東日本で成立し、中期(約5,500〜4,400年前)にもっとも発達しました。代表的な遺跡としては、青森県の三内丸山遺跡(縄文中期の大集落)や、秋田県の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)(縄文後期の祭祀遺跡)などが知られています。


なんでわざわざ円形に並べるのかしら?真ん中に広場があるって、何かのために設計したってこと?

そう、意図的なんだよ!中央広場は、集会・お祭り・共同作業のスペースとしてわざと設計されていたんだ。今でいうマンションの中庭とか、団地の集会所みたいな役割だね。縄文人なりの「まちづくり」だったわけ!
■ 中央広場の3つの役割
環状集落の中央広場は、ただの空き地ではありませんでした。発掘調査からは、次の3つの役割があったことがわかっています。
中央広場の3大機能
① 祭祀(まつり)の場:豊作や狩りの成功を祈る儀式
② 共同作業の場:土器づくり・木の実の加工・道具づくり
③ 埋葬の場:亡くなった家族をムラの中心に埋葬
とくに注目すべきなのは、埋葬の場として使われていたことです。亡くなった家族を「ムラの真ん中」に葬るというのは、現代の感覚からすると驚くかもしれません。しかし縄文人にとって、亡くなった人は「悪いもの」ではなく、ムラを見守ってくれるご先祖様でした。だからこそ生活の中心に近いところに眠ってもらった——そう考えられています。
■ 環状集落が「丸い」もうひとつの理由
環状の配置は、機能面だけでなくコミュニティの「平等性」を表していたという見方もあります。円形の集落では、すべての住居が中央広場から等距離になります。つまり「みんな同じ位置・同じ立場」という意味が込められていたわけです。
このことは、縄文時代に明確な身分差や貧富の差がなかったことの証拠でもあります。やがて弥生時代になると稲作が始まり、ムラのなかに「リーダー」と「したがう人々」という階層が生まれていきますが、それまでの縄文社会は、ぐるりと並ぶ住居が物語るようにフラットな平等社会だったのです。
縄文中期の「ムラ」はどこまで大きくなった?
縄文時代のなかでも、もっとも集落が栄えたのが縄文中期(約5,500〜4,400年前)です。気候は温暖で、クリやドングリ、サケなどの食料が豊富にとれ、各地に大きな集落が次々と生まれました。
それまで20〜50人ほどだった集落の人数は、中期になると100〜500人規模にまでふくらみます。住居が数十棟、ときには数百棟も並ぶ「縄文の都市」のような場所が、列島のあちこちに出現したのです。

えっ、縄文時代って狩りをして食べ物を求めて移動してたんじゃないの?500人もずっと同じ場所にいたってこと?

それがね、近年の発掘調査でガラリと評価が変わったんだ!縄文人は移動民じゃなくて、もうしっかり「定住」してたんだよ。同じ場所に1,500年以上も住み続けたムラもあったくらい。教科書の「狩猟採集=移動生活」ってイメージは、もう古いんだよね。
■ 三内丸山遺跡:縄文最大の集落
縄文中期の集落でもっとも有名なのが、青森県にある三内丸山遺跡です。縄文前期中頃から中期末葉にあたる約5,900〜4,200年前まで、なんと1,700年もの長い間、人々が暮らし続けたとされる超ロングラン集落です。
遺跡の規模は約35ヘクタール(東京ドーム約7個分)。最盛期には500人ほどが暮らしていたと推定されています。住居だけでなく、食料の貯蔵穴、道路のような盛り土、子どもの墓、そして巨大な6本柱の大型建物まで見つかっており、まさに「縄文の都市」と呼ぶにふさわしい姿でした。
三内丸山遺跡 基本データ
所在地:青森県青森市
時期:約5,900〜4,200年前(縄文前期中頃〜中期末葉)
面積:約35ヘクタール(特別史跡の指定面積は約25ヘクタール)
人口(最盛期):約500人以上
世界遺産:「北海道・北東北の縄文遺跡群」(2021年登録)

三内丸山ってさ、ただの大きいムラじゃないんだよ。クリの木をわざわざ栽培したり、遠くの新潟からヒスイを取り寄せたり——もう「文化を持った定住社会」だったんだ。教科書の「縄文人=原始的」ってイメージとはぜんぜん違うよね。

■ なぜ縄文中期に集落は大きくなったのか
集落が大きくなった理由は、おもに気候の温暖化と食料事情の安定です。縄文中期は今より平均気温が2〜3℃ほど高く、東日本一帯がブナやナラの森におおわれていました。クリ・ドングリ・トチの実といった木の実が豊富にとれ、海ではサケがのぼり、海産物にも恵まれていたのです。
食べ物にこまらないからこそ、人々は1か所にとどまり、ムラを大きくしていけました。同じ場所で世代を越えて暮らし続ける——それが、縄文中期の繁栄を支えた根本的な条件だったのです。
ところが縄文後期(約4,400年前以降)になると、今度は気候が寒冷化に転じます。木の実が減り、集落は縮小していき、やがて稲作の伝来とともに弥生時代へと移っていくのです。
竪穴住居はいつまで使われた?弥生・奈良から江戸時代まで
「竪穴住居=縄文時代の家」と思っている人は多いのですが、実はそれは大きな誤解です。竪穴住居は縄文時代だけでなく、弥生・古墳・奈良・平安・鎌倉、そして江戸時代の一部地域まで使われ続けた、日本史上もっとも長寿の住居形式なのです。

えーっ、江戸時代まで!?縄文時代だけかと思ってた……ということは、1万年以上も使われた家ってこと?

そうなんだよ!東北の一部では、なんと17〜18世紀まで竪穴住居が使われていた記録があるんだ。1万年以上使われ続けた住居なんて、世界的に見てもかなり珍しいんだよね。
■ 弥生時代の竪穴住居:縄文との違い
弥生時代になると、竪穴住居は形が少しずつ変わっていきます。縄文時代は円形が中心だったのに対し、弥生時代になると方形・長方形が増えてきます。これは稲作が始まったことで、家のなかに道具を整理して並べる必要が出てきたからだと考えられています。
立地も変わります。縄文時代は森や台地のうえに集落を作りましたが、弥生時代は水田に近い低地に住居をかまえるようになりました。さらに弥生時代には、稲を貯めるための高床(たかゆか)倉庫も登場し、「竪穴住居(住む場所)+高床倉庫(しまう場所)」という役割分担が生まれます。
縄文と弥生の竪穴住居の違い
形:縄文=円形が中心 / 弥生=方形・長方形が増える
立地:縄文=台地・森のなか / 弥生=水田に近い低地
付属:縄文=貯蔵穴 / 弥生=高床倉庫を併設
■ 奈良・平安以降は「庶民の家」として残る
奈良・平安時代になると、貴族や役人は掘立柱(ほったてばしら)建物と呼ばれる、地面に直接柱を立てた家に住むようになります。これは現代の木造住宅の原型です。一方で、農村の庶民の家は引き続き竪穴住居でした。
平安時代の遺跡からも、竪穴住居跡は普通に見つかります。鎌倉・室町時代まで降ると数は減っていきますが、東北地方の山間部では江戸時代の17〜18世紀まで使われていた事例が確認されています。「縄文の家=古い」という単純な見方では、日本の住まいの歴史は理解できないのです。

でも、江戸時代って木造の長屋とかあったわよね。なのに、なんでわざわざ江戸時代まで竪穴住居が残ったのかしら?

東北の山間部や寒冷地では、保温性が高い竪穴住居のほうがむしろ理にかなっていたんだよ。あと、木材を立派に使った家を建てるにはお金もかかるしね。「貧しいから」じゃなく「合理的だから」残ってた——って見方が今の主流なんだ。
テストに出るポイント&覚え方
ここでは中学・高校のテストで実際に出題されやすいポイントを、一問一答形式でまとめます。テスト前の最終チェックに使ってください。
💡 高校日本史の頻出ポイント
「環状集落」と「三内丸山遺跡」「大湯環状列石(秋田県)」はセットで覚えよう。中学では「竪穴住居=縄文の家」のレベルでOKだが、高校では「弥生時代以降も継続使用」という点が記述問題で問われやすい。

テスト対策のコツは「単語を覚える」より「セットで覚える」だよ。「竪穴住居×環状集落×三内丸山遺跡」をワンセットで思い出せるようにしておけば、記述問題でもバッチリ書けるはず!
竪穴住居・縄文時代の理解を深めるおすすめ本

縄文時代についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を2冊紹介するよ!
よくある質問(FAQ)
竪穴住居と環状集落について、読者の方からよく寄せられる質問をまとめました。
どちらも正しい表記です。ただし学術的には「竪穴住居」が標準的で、近年の中学・高校の教科書も「竪穴住居」表記に統一されつつあります。「竪穴式住居」は古い教科書や一般書でよく使われている呼び方です。
1棟あたり、家族4〜6人程度で暮らしていたと考えられています。直径4〜6mほどの竪穴住居は、現代でいうと10〜15畳ほどの空間にあたります。中央の炉を囲んで、家族みんなで寝起きしていたイメージです。
中央に広場をおいて、その周りを住居がぐるりと取り囲むことで、共同作業・祭祀・埋葬の中心地を全員が等距離で共有できるよう設計されたと考えられています。住居が「中央広場から等距離」に並ぶ配置は、縄文社会の平等性を象徴しているともいわれます。
はい、使われました。弥生・古墳・奈良・平安・鎌倉時代の農村部、さらに東北の山間部では江戸時代の17〜18世紀まで竪穴住居の使用例が確認されています。1万年以上にわたって使われ続けた、日本史上もっとも長寿の住居形式です。
断熱性という点では合理的な構造です。地面を掘り下げると外気温の影響を受けにくくなり(深いほど効果が増す)、夏は外気より涼しく、冬は中央炉の熱が逃げにくくなります。ただし現代住宅と同じ快適性ではなく、「当時の気候・生活水準のなかでもっとも合理的な選択だった」という評価が正確です。
炉は暖房・煮炊き・照明・虫除け・茅葺き屋根の防腐と、5つの役割を一手に担っていました。火は24時間絶やさないのが基本で、煙が屋根の茅にしみ込むことで屋根が長持ちする効果もありました。縄文人にとって炉は、まさに家の心臓部だったのです。
代表的な見学スポットは、青森県の三内丸山遺跡、秋田県の大湯環状列石、東京都の多摩ニュータウン遺跡群(東京都立埋蔵文化財調査センター)、千葉県の加曽利貝塚などです。多くが入場無料または低料金で、復元住居のなかに入れる施設もあります。
まとめ:竪穴住居と環状集落で縄文時代を理解する
竪穴住居と環状集落について、ポイントを整理しておきましょう。

以上、竪穴住居と環状集落のまとめでした!縄文時代の暮らしって、思っていたよりずっと豊かで合理的だったよね。下の記事で縄文時代のほかのトピックもあわせて読んでみてください!
- 約1万6,000年前縄文時代のはじまり・竪穴住居が普及
- 約5,900〜4,200年前三内丸山遺跡が栄える(縄文前期〜中期・約500人規模の大集落)
- 約4,000〜3,500年前大湯環状列石(秋田県)が築かれる(縄文後期の祭祀遺跡)
- 約2,800年前〜(諸説あり)弥生時代:竪穴住居が方形化、稲作集落へと変化
- 奈良・平安時代貴族は掘立柱建物、農村は引き続き竪穴住居
- 江戸時代東北の山間部などで竪穴住居が引き続き使われる
- 2021年「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界遺産に登録
📅 最終確認:2026年4月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「竪穴建物」(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「環状集落」(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「三内丸山遺跡」(2026年4月確認)
コトバンク「竪穴住居」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「三内丸山遺跡」(日本大百科全書)
青森県教育委員会「特別史跡 三内丸山遺跡」公式サイト
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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