

今回は小田原征伐(小田原攻め)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!豊臣秀吉が21万の大軍で小田原城を包囲した、戦国時代を終わらせた最後の大戦いだよ!
実は、豊臣秀吉は小田原城を最初から正面から攻め落とすつもりはありませんでした。21万という史上最大級の大軍で包囲しながら、本当の狙いは城を破壊することではなく、北条氏の「戦意」をへし折ること——。難攻不落の名城をわずか3ヶ月で開城させた「心理戦」の全貌を、ストーリー仕立てで解説していきます。
小田原征伐(小田原攻め)とは?
- 1590年(天正18年)、豊臣秀吉が約21万の大軍で関東の北条氏を攻めた戦い
- きっかけは名胡桃城事件。北条氏が秀吉の惣無事令(私的な戦いの禁止令)を破ったこと
- 北条氏が滅亡し、奥州仕置を経て豊臣秀吉の天下統一が完成した

小田原征伐(小田原攻め)とは、1590年(天正18年)に豊臣秀吉が約21万の大軍を率いて、関東の戦国大名・後北条氏(北条氏)を攻めた戦いです。
北条氏は、戦国時代のはじめに北条早雲が小田原を拠点にしてから5代100年にわたり、関東一円を支配してきた大大名でした。難攻不落で知られた小田原城に立てこもり、秀吉に最後まで抵抗しましたが、約3ヶ月の籠城戦のすえに開城。北条氏は滅亡し、その後の奥州仕置で東北の大名も臣従したことで、豊臣秀吉による天下統一が完成しました。
小田原征伐のきっかけ——名胡桃城事件と惣無事令
小田原征伐の直接のきっかけは、1589年(天正17年)11月に起きた「名胡桃城事件」でした。ただし、この事件を理解するには、その前提として秀吉が出していた「惣無事令」を知っておく必要があります。順番に見ていきましょう。
■惣無事令——大名同士の私戦を禁止
秀吉は、関白として朝廷の権威を背景に、全国の戦国大名に対して惣無事令を出していました。これは「大名同士が勝手に戦争をすることを禁じる」という命令で、領地の争いは秀吉が裁定するというルールです。
📝 惣無事令とは?——戦国大名の私的な戦いを禁じた秀吉の命令。今でいう「勝手に喧嘩するな。揉めごとはオレ(秀吉)が裁く」という法律。違反した者は秀吉が軍を動かして征伐するという強烈な仕組みでした。
関東では、北条氏と真田氏が沼田領(現在の群馬県)をめぐって長年争っており、秀吉はこれを「2/3を北条、1/3を真田」と裁定しました。その分割で、真田氏の手に残ったのが名胡桃城です。北条氏は秀吉の裁定を一応受け入れた——はずでした。

■名胡桃城事件——惣無事令違反
ところが1589年11月、北条方の沼田城代・猪俣邦憲が、真田領の名胡桃城を奇襲して奪い取ってしまいます。これが「名胡桃城事件」です。秀吉の裁定で真田に与えられた城を、北条が独断で攻め取った——。これは明らかな惣無事令違反でした。

北条氏のトップは、ちゃんと「攻めるな」って言わなかったの?

北条側は「現場が勝手にやった」って言い訳したんだ。けど秀吉は「いやいや、トップの責任でしょ」と聞き入れなかった。実際、北条家中では「秀吉は遠い、関東まで本気で攻めて来ない」と楽観する空気もあったみたい。これが致命的な読み違いだったんだよね…。
事件を受けて、秀吉は同年11月24日付で北条氏に宣戦布告状を送付。翌1590年3月、約21万という史上類を見ない大軍を動員して、小田原征伐に踏み切ったのです。
豊臣軍21万の侵攻——北条軍との戦力差
1590年3月1日、秀吉自ら率いる豊臣本隊が京都を出発しました。動員兵力は陸路と海路を合わせて約21万。これは戦国時代の合戦としては破格のスケールです。

進軍ルートは大きく3方向。東海道を進む豊臣本隊(秀吉・徳川家康ら)、北陸方面から関東に入る前田利家・上杉景勝の北方軍、そして九鬼嘉隆らの水軍による海上封鎖。陸と海から完全に小田原を包囲する作戦でした。

豊臣軍:約21万人(陸海合わせた史上最大級の動員)
北条軍:約5万6千人(小田原城ほか関東一円の支城に分散)
北条軍は約5万6千の兵力を関東一円の支城に分けて守らせる「支城ネットワーク防衛」を採用しました。本城の小田原城に5万、残りを山中城・韮山城・八王子城などに振り分ける形です。


21万 vs 5万って、もう勝負ついてるじゃん…!

そう思うよね!でも当時、小田原城は「日本一の堅城」って言われてて、過去に上杉謙信も武田信玄も落とせなかったんだよ。北条も「籠城すれば秀吉も諦めるだろう」って希望を持ってたんだ。実際、戦国の常識では「籠城=時間を稼げば勝てる」だったからね。
豊臣軍は3月29日に山中城を半日で攻略すると、その後も韮山城・足柄城を次々に落とし、4月初旬には小田原城を完全包囲。秀吉の包囲戦は、ただの攻城戦ではなく「気を長く保てた者勝ち」という心理戦の幕開けでした。
石垣山一夜城——「一夜にして」は本当か?
小田原城を完全包囲したものの、城が堅固すぎて力攻めには大きな犠牲が伴います。秀吉は正面から城壁を破る代わりに、別の戦略を選びました——「北条の士気を根こそぎ奪う」心理戦です。
その核心となる仕掛けが、小田原城の真正面にそびえる笠懸山に本格的な城を築くことでした。包囲が始まって間もなく、秀吉は数千の人夫を動員して、小田原城からは見えない山の裏側で極秘の建設工事を開始します。この城が、のちに石垣山一夜城と呼ばれることになる城です。「一夜城」というキャッチーな名前のため、本当に一晩で建てたと思っている人も多いのですが——。
結論から言うと、一夜では建てていません。実際には1590年4月から約80日間(約3か月弱)かけて、小田原城から見えない山の裏側でひそかに建設していました。完成したタイミングで、城の周囲の木々を一気に伐採。すると小田原城から見たとき、一夜にして大きな城が出現したように見えた——というのが「一夜城」の本当の意味です。
つまり「一夜で建てた」のではなく「一夜で見えるようにした」演出だったわけです。これは秀吉が得意とする心理戦の真骨頂で、北条軍の士気を一気にへし折る決定打となりました。

木を切って急に見えるようにする、ってかなり凝った演出ね。北条軍はどれくらいビックリしたのかしら?

想像してごらん。籠城して何ヶ月も耐えてる小田原城の兵が、ある朝目を覚ましたら、向かいの山に総石垣の本格的な城がドーンと現れてる…!「秀吉、本気でここに居座る気だ。撤退してくれない…」って、最後の希望が消える瞬間だよね。
石垣山城は、関東で最初の総石垣の本格城郭でもありました。秀吉はここに茶室を設け、千利休や淀殿を呼び寄せて茶会・宴会を開きます。「長期戦上等。むしろ楽しんでるくらいだぞ」というメッセージを北条軍に視覚で伝える装置——それが石垣山一夜城だったのです。

21万の大軍で囲んでさ、わざと外で宴会や能をやらせて見せつけたんじゃ。城の中の連中の心が折れていくのが手に取るようにわかったわ!
小田原評定——なぜ北条氏は籠城し続けたのか?
石垣山一夜城を見せつけられても、北条氏はすぐには降伏しませんでした。城内で連日繰り返されたのが、戦うか降るかをめぐる小田原評定と呼ばれる重臣会議です。
本来は「小田原城内で開かれた軍議(評定)」のこと。北条氏が籠城か開城かを延々と議論したものの結論が出なかった故事から、現代では「いつまでも結論の出ない無駄な会議」のたとえとして使われるようになりました。今でも会議が長引いたときに「これじゃ小田原評定だね」と言ったりします。
城内には主に2つの意見がありました。当主・北条氏直やその家臣の一部は「秀吉に和睦・降伏すべき」という和睦派、氏直の父・北条氏政や叔父の氏照は「徹底抗戦すべき」という主戦派です。両派が互いに譲らず、議論は連日結論が出ないまま長引きました。

勝ち目がないなら早く降りればよかったのに、なんで籠城し続けたの?

3つの理由があったんだよ。①小田原城は過去に上杉謙信も武田信玄も落とせなかった天下の堅城、②兵糧も2〜3年は持つと言われていた、③秀吉の大軍が長期で関東に滞在すれば兵糧切れか反乱で勝手に崩れる…と読んでた。「時間が味方」って計算が、籠城派の自信の根っこだったんだ。

負けるとわかっていても、5代100年の関東の支配を、一夜の話し合いで投げ出すわけにはいかぬ…。北条の名を最後まで保つのが、わしの務めじゃ。
しかし、その「時間が味方」という前提が崩れていきます。豊臣軍は石垣山一夜城を築いて長期戦の構えを見せ、秀吉自身は淀殿や利休まで呼び寄せて生活を整えてしまった。さらに支城が次々に落とされ、味方の援軍が来る希望もほぼ消えていきます。北条氏直はやがて「父・氏政らの命と引き換えに城を開く」決断を秀吉に伝え、約3か月の籠城戦は終わりを迎えることになります。
忍城の戦い——唯一落とせなかった城
小田原征伐では、関東一円の北条方の支城がほぼすべて陥落しました。ところがたった一つだけ、豊臣軍がついに落とせなかった城があります。それが武蔵国(現在の埼玉県行田市)にあった忍城です。
■石田三成の水攻め——失敗
忍城を任されたのは秀吉の側近・石田三成でした。三成は備中高松城の戦いで秀吉が成功させた「水攻め」を真似して、城の周囲に長大な堤防(石田堤)を築き、利根川や荒川の水を引き込もうとします。
しかし、忍城は周囲が湿地帯に囲まれた天然の浮城で、水攻めには相性が悪い土地でした。さらに堤の一部が決壊し、逆に豊臣軍側に被害が出てしまいます。侍・足軽・雑兵・農民を合わせた守備兵約3,000人を率いた成田長親(泰季の嫡男)の指揮のもと、忍城は最後まで持ちこたえました。
この忍城の籠城戦は、和田竜の小説『のぼうの城』(2007年)と映画化作品(2012年公開)の題材になりました。「のぼう」とは、城主代理として守備を指揮した成田長親のあだ名。「でくのぼう」を縮めた言葉で、どこかぼんやりとした印象のある武将がなぜあの石田三成を撃退できたのか——その謎が物語の核心を成しています。

「のぼうの城」って小説と映画になってるやつよね?あれって本当の話なの?

うん、和田竜さんの小説『のぼうの城』とその映画化作品のモデルがこの忍城の戦いだよ!主人公の「のぼう様」が成田長親なんだ。創作なので脚色はあるけど、「水攻めが失敗した」「最後まで落ちなかった」「小田原開城の知らせを受けて初めて開城した」というのは史実の通りだよ。
結局、忍城は1590年7月に小田原城が開城した知らせを受けてから降伏。軍事的には最後まで落ちなかった、小田原征伐で唯一の例外として歴史に名を残しました。
北条氏の開城と氏政の切腹——北条氏の滅亡
1590年7月5日、ついに北条氏直は秀吉に降伏。約3か月にわたった籠城戦は終わり、小田原城は無血開城されました。条件は「氏直の助命と引き換えに、父・氏政と叔父・氏照は責任を取って切腹する」というものでした。

7月11日、氏政と氏照は小田原城下の田村安栖斎邸で切腹。介錯にあたったのは、氏政の家臣だったとも伝えられます。氏直は剃髪して降伏したのち、高野山に追放されました。こうして初代・北条早雲から数えて5代100年続いた後北条氏は滅亡します。
「吹きと吹く 風な恨みそ 花の春 もみじの残る 秋あらばこそ」
(散る花を恨むな。紅葉が残る秋がまた巡ってくる――そう信じたい、という意味)
北条氏政の辞世の句として伝えられている1首です。滅びゆく一族の当主が最後に詠んだ歌として、武将の覚悟と無念がにじむ言葉として語り継がれています。

息子・氏直の命と、北条家の血が高野山に残ること…。そのために、わしと弟の首ひとつで足りるなら安いものよ。負けはしたが、5代100年の関東は、たしかに北条のものじゃった。

父・氏政と叔父・氏照が切腹で、息子の氏直は助命……。秀吉はなんで息子だけ助けたの?

父・氏政+叔父・氏照=切腹、息子・氏直=高野山追放(助命)だよ。秀吉は「惣無事令違反の最高責任者は氏政」と判断した。だから「父が責任を取って家の血を残す」という武家らしい区別になったんだ。
ちなみに、当主だった氏直は1591年に病で亡くなりますが、その血筋は弟・北条氏規の系統を経て、江戸時代には1万石の狭山藩主・北条家として大名に復帰します。後北条氏の名は完全には絶えず、形を変えて幕末まで続いたのです。
徳川家康の関東移封と天下統一の完成
北条氏が滅亡したことで、関東一円240万石ともいわれる広大な領地が空きました。秀吉はこの旧北条領を、配下の大名のなかで最大級の実力者だった徳川家康に丸ごと与え、東海道の本拠地・三河から関東への関東移封を命じます。

家康は1590年8月、本拠地を駿府から江戸に移し、湿地帯だった江戸を一から都市開発していきます。表向きは「関東250万石への大栄転」ですが、実態は慣れ親しんだ三河・遠江・駿河から、北条色の濃い関東へ強制的に引き剥がす配置転換でもありました。

秀吉の本音はね、「家康、お前は強すぎるから京都・大阪から離して関東に飛ばしておこう」だったんだ。でも家康はその関東で江戸を一大都市に成長させて、後の徳川幕府260年の土台を作っちゃう。秀吉の計算が、結果的に家康の天下取りの伏線になったわけだよ。
■奥州仕置——伊達政宗の臣従と東北の平定
関東の処分と並行して、秀吉は東北地方への対応にも乗り出します。これが奥州仕置です。小田原征伐への参陣が遅れていた奥州の雄・伊達政宗は、白装束姿で秀吉のもとに現れて謝罪し、所領を一部没収されつつも臣従を許されました。

白装束で謝りに行くって、もう「殺してください」って言ってるようなものよね…。政宗はどうして助かったの?

秀吉も「東北まで自分の力で全部叩き潰すのはコスパが悪い」と考えていたんだ。だから「ちゃんと服従してくれる大名は許す」というスタンス。政宗の派手な演出は、秀吉の好みに上手くハマったんだよ。逆に従わなかった大崎氏や葛西氏は改易されたり、その後の一揆鎮圧で大きく削られたりした。
こうして1590年、北条氏の滅亡と奥州仕置によって、東北から九州まで全国の大名が秀吉のもとに服属することになります。1585年の四国平定、1587年の九州平定に続いて、最後まで残っていた関東・東北までを完全に組み込んだことで、豊臣秀吉による天下統一が名実ともに完成したのです。
小田原征伐のおすすめ本

小田原征伐や後北条氏をもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!どちらも中高生から読める新書だよ!
よくある質問(FAQ)
1590年(天正18年)、豊臣秀吉が約21万の大軍で関東の戦国大名・後北条氏を攻め滅ぼした戦いです。これによって秀吉の天下統一が完成しました。3月に出兵し、7月に小田原城が開城。北条氏政・氏照が切腹、氏直が高野山に追放されて後北条氏は滅亡しました。
小田原城が当時「日本一の堅城」と呼ばれ、上杉謙信や武田信玄も落とせなかった実績があったためです。「籠城を続ければ秀吉も補給切れで撤退する」と読んだ主戦派と、降伏を主張する和睦派が対立し、結論の出ない議論が続きました。これが現代の「いつまでも結論が出ない会議=小田原評定」の語源になりました。
いいえ、一夜では建てていません。実際には1590年4月から約80日間(約3か月弱)かけて、小田原城から見えない山の裏側で秘密裏に建設していました。完成した瞬間に周囲の木を一斉に伐採し、突然立派な総石垣の城が現れたように見せた——これが「一夜城」と呼ばれる理由です。心理戦の演出として大成功しました。
忍城(埼玉県行田市)は周囲が湿地帯に囲まれた天然の浮城で、石田三成が試みた水攻めとの相性が悪かったためです。築いた石田堤の一部が決壊し、逆に豊臣軍側に被害が出ました。成田長親(泰季の嫡男)を中心とした守備兵約3,000人が抵抗し続け、結局1590年7月に小田原城が開城した知らせを受けてから降伏。軍事的には最後まで落ちず、小説『のぼうの城』のモデルにもなりました。
基本的に同じ出来事を指す呼び方の違いです。「小田原征伐」は秀吉側の視点(朝廷・天下人の立場で討伐した)から見た公的な呼称、「小田原攻め」は戦そのものを指すよりカジュアルな呼び方です。教科書では「小田原征伐」「小田原合戦」と表記されることが多く、書籍やテレビでは「小田原攻め」も広く使われています。
当時、秀吉に従っていなかった最大勢力が関東の北条氏でした。これを滅ぼしたうえで、続く奥州仕置で伊達政宗ら東北大名も臣従させたため、西日本(四国・九州)から東日本(関東・東北)まで全国の大名が秀吉の支配下に入りました。これによって1590年に「天下統一」が完成したと教科書では位置づけられます。
まとめ
-
1587年惣無事令の発令(関東・奥羽向け)
-
1589年11月名胡桃城事件(惣無事令違反)
-
1590年3月豊臣軍が小田原征伐へ出発(約21万)
-
1590年4月石垣山一夜城の建設開始
-
1590年7月5日小田原城開城(北条氏直が降伏)
-
1590年7月11日北条氏政・氏照が切腹、後北条氏滅亡
-
1590年8月〜家康の関東移封・奥州仕置→天下統一完成

以上、小田原征伐のまとめでした!秀吉の戦略的な「心理戦」と、最後まで戦い抜いた北条氏政の「誇り」が交差する、とてもドラマチックな戦いだよ。下の関連記事もあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年4月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「小田原征伐」(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「石垣山城」(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「忍城の戦い」(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「名胡桃城」(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「北条氏政」(2026年4月確認)
コトバンク「小田原征伐」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。





