今回は、弥生時代の謎多き女王「卑弥呼」についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
卑弥呼と「魏志」倭人伝
今回紹介する卑弥呼という人物は、とても謎の多い人物です。
というのも、当時(200〜300年頃)の日本には、出来事を記録するための「文字」が存在しなかったからです。
しかし、当時、魏・呉・蜀の三国が覇権を巡って争っていた中国に、日本について記された本が残されていました。
その本の名は『三国志』。『三国志』のうち魏について書かれた「魏志」の中の倭人伝(略して「魏志」倭人伝と言います。)という項目があって、そこに卑弥呼を含む当時の日本についての記録が残されていたのです。
なので、この記事では「魏志」倭人伝の内容をベースにしながら、卑弥呼について紹介することにします。
なぜ卑弥呼が女王になると争乱が収まった?
倭の国に戦乱の世が到来したから、卑弥呼が女王にした・・・と「魏志」倭人伝には書かれています。
しかも、卑弥呼が女王になったことで争乱は収まったと言われています。
なぜ「卑弥呼が女王になる」=「騒乱が収まる」なのでしょうか。
その理由は、卑弥呼の持つカリスマ性・神秘の力が人々を魅了したからだと考えられています。
もともと卑弥呼は、集落や国中の人々が心を1つにする重要なイベント「祭りごと」で活躍するようなシャーマンだったと言われています。
卑弥呼の「神のお告げ」は評判が良くて、多くの人々が信じたのでしょう。
卑弥呼のいうことなら、諸国の人たちも従うに違いない!
こうして、卑弥呼は女王に立てられることとなり、神のお告げと称して諸国に対して争いを止めるよう指示することで、争乱を終わらせたものと思われます。
皆の者、これ以上の争いは止めるのじゃ。
これ以上の争いを続ければ、自然の神々の怒りに触れ、数々の災いが起こるであろう・・・!!
*イメージです。
卑弥呼のお告げなら、仕方ない。
なんとか戦いを終わらせよう・・・・!
「後漢書」東夷伝という別の史料によれば、倭国で争いが起こったのは170年〜180年頃からだと言われているので、卑弥呼が登場したのはそれ以降となります。
卑弥呼の記録
女王卑弥呼はどんな人物だったのか。「魏志」倭人伝の記録から一部を抜粋してみます。
鬼道を事とし、衆を惑わす
(呪術的な事を得意とし、人々の心をつかむのが上手かった)
高齢で、夫はいなかった。弟がいて、卑弥呼の政治を助けた。
卑弥呼はシャーマンとしての仕事に特化し、実際の政治は弟が担っていたのだろうと考えられています。(諸説あり)
・女王になってからは人前に姿を現すことはほとんどなかった。
・1000人もの奴隷がいたが男は一人だけ。その男に食事の世話をさせていた。
・卑弥呼の住む城には厳重な警備体制が敷かれて、武器を持った男たちが警備に当たった。
簡単に人と会って話せば、卑弥呼の神のお告げパワーを弱めることにつながります(人々が卑弥呼の言葉を軽視するかもしれない)。なので、滅多に会うことにできない神秘キャラでいる必要があったのだと思います。
そして、あえて男に食事の世話させたのも意味深です・・・。
卑弥呼の役割・イメージは、今でいう巫女さんに近いのかな・・・とも思います。
親魏倭王となった卑弥呼
239年、卑弥呼は魏へ使者を送り、魏から「親魏倭王」という称号を与えられています。
これは、魏から倭国のトップ(女王)が卑弥呼であることを認めるものであり、卑弥呼に不満を持つ諸国を牽制する意味を持っていました。
魏は私を女王と認めてくれたわ。
その私を攻めれば、魏も黙っていないはず。だから、おとなしく私の言うことを聞くのです!
卑弥呼は自らの神秘パワーと外交を通じた魏の権威を利用して、利害関係を持つ29もの国たちを巧みに束ねていたようです。
*実際にこれらを指示したのは、卑弥呼本人ではなく実際の政治を担っていた弟の可能性もあります。
卑弥呼の娘「壱与」
しかし、それでも倭国で再び争いが起きてしまいました。
邪馬台国の南にある狗奴国が、邪馬台国と戦争を始めたのです。
この時のために魏との関係を深めていたのです。
魏に渡り、援軍を要請しましょう!
245年頃、卑弥呼は魏へ援軍要請のための使者を派遣します。しかし、これと同じ頃、29国の求心力となっていた卑弥呼が亡くなります。(詳細な時系列は不明です)
邪馬台国は、昔のように男性を王として再スタートしますが、狗奴国との争いが激化し、再び倭国大乱の様相を呈してしまいます。
やっぱり、神秘パワーがないと人々の心を繋ぎ止めるのは無理なんだ。
急いで、卑弥呼に代わる女王を立てなければ・・・!
こうして、次の女王になったのが壱与という女性でした。壱与は卑弥呼の娘であり、誰も文句の言いようがない人選です。
壱与が女王になると再び争乱は収まり、壱与は266年に魏に代わっていた晋に使者を送ったようです。
この話を最後に「魏志」倭人伝に記された日本の記録は終わっています。
現代のように自然の仕組みがほとんど分かっていなかった古代では、神秘パワーが非常に大切だったことがわかります。古墳時代になって、日本に仏教が伝来すると、仏教もその神秘パワーの一翼を担うことになります。
邪馬台国の謎
ところで、卑弥呼の治めた邪馬台国はどこにあったのでしょう?
・・・実はよくわかっていません。
「魏志」倭人伝には、日本の地理についても書かれており、邪馬台国の場所もしっかり明記されています。しかし、その内容に問題がありました。「魏志」倭人伝に沿って邪馬台国の場所を調べていくと、九州南に広がる太平洋上を示しているからです。
「魏志」倭人伝の記述は、何かが間違っているのです。
ちょうど3世紀後半(250年〜)から日本では、有力者のお墓として古墳が造られるようになりました。卑弥呼のお墓も古墳で造られていて、その古墳は奈良県にある箸墓古墳ではないか?という説があります。
もし、箸墓古墳が卑弥呼の墓であることが断定できれば、邪馬台国は畿内にあった可能性が高くなります。
「邪馬台国はどこにあるのか?」それは古代日本屈指の謎の1つであり、謎の多い卑弥呼と合わせ、多くの歴史ファンを魅了する謎となっています。
卑弥呼まとめ【年表付】
- 200年前後?卑弥呼、女王になる
倭国の大乱を鎮めるため、邪馬台国の卑弥呼が女王に。
29国余りが卑弥呼を中心に団結する。
- 238年卑弥呼、魏に使者を送る
- 245年頃狗奴国が邪馬台国と戦争を開始
同じ頃、卑弥呼も逝去。統率を欠いた邪馬台国と狗奴国の戦争は激化。
卑弥呼の娘である壱与が女王となると、戦乱は収まる。
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