今回は、1926年〜1928年にかけて中華民国で起こった北伐という出来事について、わかりやすく丁寧に解説するよ。
※日本史からの視点が多いかもしれません!
北伐とは?
北伐とは、「中国南部に拠点を置いていた中国国民党が、北京に拠点を置く軍閥政権を倒すために採った軍事行動」のことを言います。
1919年に中国国民党を立ち上げた孫文は、1921年と1924年の2回にわたり北京の軍閥政権を倒すため、北伐を行っていました。
つまり、今回紹介する蒋介石による北伐と合わせて、実は中国国民党による北伐は3回行われていたということです。
教科書には、蒋介石による北伐のことしか書かれていません。
この記事では、孫文による2回の北伐について知らないと、蒋介石の北伐が理解しにくいと思ったので、孫文による北伐についても簡単に触れておこうと思います。
第一次北伐(1921年)
軍閥政権を倒して新政府樹立を目指した中国国民党ですが、実は軍閥政権を倒すための軍事力を持っていませんでした。
そこで孫文は、広東派と呼ばれる軍閥とタッグを組んで、当時軍閥政権を牛耳っていた直隷派・奉天派を倒すことにしました。
1921年12月、孫文は挙兵しますが、途中で広東派が離脱。孫文は軍事力を失い、北伐は頓挫してしまいます。
この北伐を通じて孫文は、他人の軍事力に依存しているだけでは軍閥政権を倒すのは不可能であることを悟ります。
第二次北伐(1924年)
そこで孫文は1924年1月、次は中国共産党とタッグを組むことにしました。(第一次国共合作)
孫文は、中国共産党の軍事ノウハウを活かして、新しい軍隊(国民革命軍)の創設に向けて動き始めます。
そして1924年9月、孫文は再び北伐を開始。
当時、軍閥政権の拠点である北京政府では、第二次奉直戦争と呼ばれる奉天派VS直隷派の大内紛が起きていました。
さらに、北京政府内では混乱に乗じて馮玉祥という人物がクーデターを決行。独自勢力を立ち上げると、孫文に対して和平と協力を求めました。
孫文は馮玉祥の求めに応じ、北京政府との和平交渉に臨みます。
・・・が、1925年3月、和平交渉のため北京に滞在中、孫文は病により亡くなってしまいます。するとも白紙となり、北伐は再び失敗に終わりました。
この後、亡き孫文の意思を受け継いだ蒋介石という人物が行った3回目の北伐が、今回紹介する北伐のメインの部分になります。
第三次北伐(1926年〜1928年)【学校で習うのはこの北伐】
孫文が亡くなると、その後継者をめぐって中国国民党の内部で権力争いが勃発。そして、この権力争いに勝ち残り、権力を掴んだのが蒋介石でした。
1926年7月、権力を掌握した蒋介石は国民革命軍を率いて北伐を再開することを決定。中国国民党が拠点としていた広東地方から北上し、北京を目指します。
※北伐は、国民革命軍のほか、共産党員や北京政府の反発する地方軍閥との混成軍によって行われました。
国民革命軍は、現状に不満を持ち新しい政治を期待していた地方民衆に歓迎の声で受け入れられ、北伐は順調に進んでいきます。
1926年10月には武漢を占領。1927年3月には、上海・南京まで北上します。
上海クーデター
国民革命軍が上海に入ると、協力関係にあった中国共産党が強い危機感を感じ始めます。
そもそも中国国民党が、中国国民党と第一次国共合作を結んだのは、中国国民党の人気にあやかって共産主義思想を民衆に広めるためです。
しかし、各地を軍閥政権から次々と解放していく蒋介石が熱烈な支持を受けるようになると、「民衆が共産主義を受け入れなくなるのではないか?」とこれを恐れるようになったのです。
さらに中国共産党にとって懸念だったのが、一応協力関係は結んでいるものの、蒋介石が共産主義に反対している人物だったことです。
蒋介石が第一次国共合作を受け入れたのは、あくまで北伐のための軍事力として中国共産党に利用価値があったからにすぎません。
内心は、中国国民党に扮して共産主義を広める中国共産党に対して、「中国共産党は、第一次国共合作を利用して中国国民党を乗っ取るつもりなのでは?」と強い警戒心を持っていました。
そんな中、1927年3月に事件が起こります。南京で国民革命軍が列強国の外国人に対して発砲する事件が起こったのです。
蒋介石は、この事件を国民革命軍によるものではなく、国民革命軍を陥れようとする中国共産党のスパイによるものだと断言。
1927年4月には、中国共産党が本拠地としていた上海の共産党員を次々と弾圧していきました(上海クーデター)
上海クーデターを機に、蒋介石は中国共産党と敵対する姿勢を明確に示し、南京に中国共産党と繋がりのある者を排除した新政府(南京政府)を樹立しました。
こうして蒋介石は、中国共産党との対立や、中国国民党内の共産党支持勢力との政争に力を注ぐ必要に迫られ、北伐の勢いは大きく停滞することになります。
山東出兵
南京での外国人に対する発砲事件は、列強国を強く刺激しました。多くの列強国が、中華民国に住む自国民を守るため、軍隊の派遣を決定したのです。
1927年6月、日本政府も日本人が多く住む山東半島への派兵を開始します。(山東出兵)
派兵の目的は、表向きは「自国民を守るため」ですが、日本政府の真の目的は実は「日本が持つ満州の権益を北伐から守るため」でした。
当時、日本は満州に勢力を持つ軍閥「奉天派」と、比較的良好な関係を築いていました。そのため日本政府は、蒋介石の北伐によって奉天派が敗北し、築き上げてきた関係が崩壊することを嫌ったのです。
この山東出兵は、のちに大事件を起こすことになります・・・。
国共分裂
中国国民党の内紛や共産党との協力解消によって、快調だった北伐にも陰りが見え始めます。
1927年7月、武漢の軍閥軍が立ち上がり、国民革命軍を撃破。蒋介石は大敗を喫しました。
敗北の後、蒋介石は「北伐成功にはまずは内紛を解消すべき」と考えます。蒋介石の行動は早く、同月(7月)には、中国国民党の内紛解消の道筋を示しました。
中国国民党の方針を「共産党は倒すべき敵!」という意見で統一。1924年から続いていた第一次国共合作の破棄を公式に宣言したのです。(国共分裂)
そして蒋介石は、党内の共産党支持派を説得するため、国共分裂の代償として中国国民党のトップの座を辞任することになりました。この辞任に合わせて、北伐も一時中断することとなります。
※北伐の中止に合わせて、日本による山東出兵も一時中断されることになります。
蒋介石と日本の外交交渉
トップの座を降りた蒋介石が何をしていたかというと、実は日本にやってきて外交交渉をしていました。
日本が満州を守るため北伐を嫌っていることを知っていた蒋介石は、当時首相だった田中義一に「日本が北伐を邪魔せずに支援してくれるのなら、勝利した後、中国国民党は引き続き日本が持つ満州の権益を認めるよ」と提案したのです。
田中義一は、この提案を受け入れたと言われています。
北伐再開と済南事件
1928年、色々あって蒋介石は中国国民党のトップの座に戻り、4月には北伐を再開。
一方の日本では、「北伐が再開されるのなら、山東出兵も再開すべき!」という議論が起こります。
しかし、田中義一は迷います。なぜなら、前年(1927年)に蒋介石を支援するという話をしていたからです。
満州を守るため、
これまでどおり奉天派を支援するため、山東出兵を行って国民革命軍を牽制するか
それとも
山東出兵はせずに北伐を黙認し、北伐成功の暁として、蒋介石に日本が持つ満州の権益を認めさせるか
・・・、田中義一が下した結論は前者でした。
こうして2回目の山東出兵が行われると、1928年5月、山東地方の都市済南にて日本軍と国民革命軍の間で争いが勃発。国民革命軍が、大きな被害を被りました。(済南事件)
しかし、国民革命軍の倒すべき敵は日本ではありません。済南事件の後、国民革命軍は済南を迂回してさらに北上し、北伐を続けます。
その後も北伐は順調に進み、6月4日には軍閥政権の権力者で奉天派の代表でもあった張作霖の軍を撃破。
兵を失った張作霖が北京から逃亡すると、6月8日、国民革命軍は北京を無血制圧。15日には中国統一を宣言しました。
亡き孫文が1921年から始めた北伐は、約7年の歳月を経て、ようやく実現に至ったのです。
地図で位置関係を確認しよう!
これまでに登場した地名を地図でまとめておきます。
国民革命軍が広東→武漢→上海・南京→北京と北上していく様子や、日本が出兵した山東半島の位置を確認しておくと、理解が深まると思います。
北伐後の中国の様子
こうして軍閥政権と中国国民党の長きにわたる戦いが終わったわけですが、これで中国が平和になったわけではありません。むしろ、北伐が終わったことで新たな火種が次々と生まれていくことになります。
張作霖爆殺事件(満州某重大事件)
北伐による張作霖の敗北は、満州現地の日本陸軍(関東軍)が満州支配を見直す大きな転機となりました。
具体的に何が変わったかというと、こんな風に変わりました↓
もはや張作霖と親密な関係を持つ必要なし。というかもはや張作霖など不要!
用済みの張作霖など消し去り、もっと日本の命令に従順な者を満州の代表者として擁立させて、背後から満州を操るのが良かろう・・・。
一方の田中義一首相は、張作霖の再起を支援して引き続き満州権益の確保を図ろうと考えていましたが、関東軍は首相の意見を無視。独断で実力行使にでます。
1928年6月、関東軍は張作霖が乗っている電車を爆破。張作霖を爆殺してしまったのです・・・。(張作霖爆殺事件)
終わってみれば日本の行動、
張作霖爆殺によって満州での反日感情が高まり、その結果として日本の満州支配が弱体化。
さらに、蒋介石との約束を破ったことで、北伐に勝利した中国国民党からの信用も失う。
という感じで、敵を増やすだけの結果に終わってしまったのです。
内乱続く
最初にも紹介したように、軍閥政権というのは、多くの軍閥が離散集合して成立していたとても不安定な政権でした。
北伐当時、軍閥政権を牛耳っていたのは、張作霖率いる奉天派。
実は蒋介石率いる北伐軍には、奉天派を良く思わない軍閥も参戦していました。ところが、張作霖が敗北すると、共通の敵を失った各地の軍閥たちは次第に蒋介石と険悪ムードになっていきます。
1930年5月、蒋介石と各地の軍閥勢力との間で中原大戦と呼ばれる大規模な戦いが起こり、中華民国は再び内紛状態に陥ります。
しかも話はこれだけでは終わりません。国共分裂後、敵対関係にあった中国共産党が、中原戦争の隙を狙って勢力拡大と蒋介石への攻撃を開始。第一次国共内戦と呼ばれる内紛が勃発することになります。
満州事変へ
蒋介石・軍閥・共産党の三つ巴の戦いによって中華民国がカオス化すると、中華民国の満州支配が弱まることになり、さらに日本の関東軍までもが大規模な軍事行動を計画するようになります。
1931年、関東軍がまたもや独断行動を始め、中華民国の内紛に乗じて満州を占領。1932年には満州国を建国して、満州支配を一層強めることになりました。(満州事変)
日本の強引な満州支配は、中華民国のみならず、列強国からも強い批判を浴びることとなり、日本は次第に国際社会から孤立していくことになります。
北伐まとめ【年表付】
以上、北伐のお話でした。日本に関連する話を多めにして解説してみました。
最後に年表で北伐についてまとめておきます↓↓
- 1919年中国国民党、設立
孫文が軍閥政権に対抗するために立ち上げた政党
- 1921年第一次北伐
軍事力を持たない中国国民党は、広東軍閥と連携して北伐を開始。しかし広東軍閥の方針転換で、中国国民党は軍を喪失。北伐は失敗に終わります。
- 1924年第一次国共合作・第二次北伐
中国国民党は、独自の軍隊(国民革命軍)を創設するため、中国共産党と連携(第一次国共合作)
孫文は2回目の北伐を決行。和平交渉に持ち込む
- 1925年孫文、亡くなる
北京政府と和平交渉をしている矢先に孫文が亡くなり、和平交渉は白紙へ。またもや北伐は失敗する。
- 1926年第三次北伐←この記事はココ
孫文の意志を受け継ぎ、蒋介石が3回目の北伐を決行。
民衆からの支持も受けながら快勝を続ける
- 1927年3月南京で、外国人が国民革命軍に射殺される
- 1927年4月上海クーデター
蒋介石は、南京事件を「北伐で影響力が大きくなりすぎた中国国民党を排除したい共産党の陰謀だ!」と断言。上海を拠点として共産党員を弾圧する。
- 1927年6月山東出兵
南京事件をきっかけに、自国民保護の名目で日本は軍を派遣。しかし、軍派遣の本当の目的は、北伐から満州を守るためでした。
- 1927年7月国共分裂
上海クーデター以降、共産党との関係をめぐって内紛状態になっていた中国国民党を、蒋介石は「反共産主義!」の方針で統一し、共産党との連携解消を宣言する。
党をまとめた蒋介石は、党の代表を辞任。これに合わせて北伐も一時中断。
- 1928年4月北伐再開
- 1928年6月北伐軍、北京政府を無血で制圧。北伐完了!!
北京政府の権力者で奉天派の張作霖が、北京から逃亡したことによって、北伐は勝利に終わる。
撤退中の張作霖は、日本の関東軍によって爆殺される(張作霖爆殺事件)
- 1928年以降中華民国は、中国国民党VS中国共産党VS軍閥残党の三つ巴の内紛に突入
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