今回は、1927年に上海で起こった上海クーデターという事件について、わかりやすく丁寧に解説していくよ。
上海クーデターとは?
軍閥政権を倒そうとしていた中国国民党が、共産党推しと共産党反対派に分かれて争いを起こし、上海で共産党反対派が共産党員に大規模な弾圧を行なった事件のことを上海クーデターと言います。
中国国民党と中国共産党は、政治理念こそ違うものの、目先の利害関係が一致したため、1924年に協力関係を結んでいました。(第一次国共合作)
ところが、上海クーデターがきっかけとなり、中国国民党と中国共産党の協力関係は破綻。(国共分裂)
上海クーデターの後、両者は武力衝突を繰り返すようになり、中国は主に軍閥政権・中国国民党・中国共産党の三つ巴によるカオスな内紛状態に陥ることになります。
上海クーデターが起こった時代背景
話は、中国国民党と中国共産党が協力関係を結んだ第一次国共合作から始まります。
もともと中国国民党と中国共産党は、「革命を起こして新しい中国を創る!」という理念は一致するものの、革命後の政治理念は全く異なるものでした。それなのに、両者が協力関係を結んだのには、次のような思惑があったからでした。
第一次国共合作によって、「中国国民党は、中国共産党員が中国国民党に入党することを認める代わりに、中国共産党はコミンテルンとも連携して中国国民党の軍事力UPに協力する」という感じの協力関係を結ぶことになったのです。
中国国民党の孫文は、さっそくコミンテルンからの支援を受けながら軍隊の創設を開始。1925年には、軍閥政権への宣戦布告を行います。
宣戦布告後、孫文は軍閥政権との交渉によって平和的解決を進めますが、1925年に孫文が亡くなってしまい、軍閥への攻勢は白紙に戻ってしまいます。
一方の中国共産党の党員たちも、すぐに中国国民党へ入党し、特に労働者を中心に共産主義を広めました。
そして、その成果はさっそく現れます。1925年5月30日、上海で労働者による大規模なデモ運動が起こったのです。(五・三〇運動)
五・三〇運動は、労働者が、日本やイギリス系列の工場に対して賃金UPなどの要求を行なったもので、労働者は要求の一部を勝ち取ることに成功しました。
この五・三〇運動を裏で成功に導いていたのが、中国共産党とコミンテルンでした。
民衆(労働者)の力で中国を利権を貪る日本やイギリスを動かすことに成功した五・三〇運動は、中国国民党と中国共産党に強い自信を与えることになります。
勢いに乗った中国国民党は、1925年7には広州に本格的な政府(広州国民政府)を樹立。8月には軍閥政権を倒すための国民革命軍が完成し、再び軍閥を倒す動きが強まります。
上海クーデターまでの経過
五・三〇運動で勢い付いた中国国民党と中国共産党ですが、実は大きな問題も生まれました。
それは・・・、五・三〇運動を成功に導いた中国共産党の力が強くなりすぎたということです。
中国国民党の内部では共産党との協力関係をめぐって、
「中国共産党と連携すればこれ以上頼もしいことはない!」という中国共産党推し派
と
「いやいや、これ以上中国共産党の力が強くなりすぎたら、中国国民党が乗っ取られるぞ・・・」という中国共産党反対派
に分裂し、政争が起こるようになります。
1926年1月になると、争いの構図はもっと具体的となり、
広州国民政府ナンバー1で中国共産党推しの汪兆銘
VS
広州国民政府ナンバー2で中国共産党反対の蒋介石
という構図となりました。
1926年3月には、中国共産党員が無許可で軍船を動かしたことに、軍を統括する立場にあった蒋介石がブチギレ。共産党員への弾圧を始めました。
これでメンツ丸潰れになったのが汪兆銘です。苦しい立場に追い込まれた汪兆銘は、病気療養を理由にフランスへ逃亡。中国国民党ナンバーワンの座から失脚してしまいます。
すると1926年7月、汪兆銘を失脚させた蒋介石が広州国民政府のナンバー1に君臨。
そして蒋介石がトップに君臨した一年後の1927年、蒋介石が起こした事件こそが上海クーデターとなります。
上海クーデターが起こった理由
蒋介石は、広州国民政府のトップに立つと、孫文の死によって中断されていた軍閥政権への攻撃を再開することを宣言。
軍閥政権の拠点である北京への進軍(北伐)が始まりました。
蒋介石率いる国民革命軍は、破竹の勢いで軍閥勢力を一掃し、北京へ向けて順調に北上していきます。
連戦連勝の蒋介石は、民衆から熱烈な支持を受けることになりましたが、これに困ったのが中国共産党です。
中国共産党は、共産主義を否定する蒋介石の影響力が強まることに強い警戒感を持っていました。(五・三〇運動の時とは、立場逆転です)
1927年に入ると、両者の争いはますます激化していきます。
1927年1月、広州国民政府の共産党推し派の人々が、蒋介石が北伐のため広州を留守にしている隙に、勝手に武漢への遷都を決定。蒋介石との対決姿勢を鮮明にします。
さらに1927年3月、中国共産党は上海で労働者による大規模なデモ活動を起こすと、上海に臨時政府を樹立しました。
中国共産党は、資本家に虐げられている労働者が多くいる上海を、共産主義革命の大事な拠点だと考えていました。
しかし、1927年3月、民衆人気を集めていた蒋介石による軍隊(国民革命軍)が北伐のため、上海のすぐ近くにある南京までやってきます。
このまま国民革命軍が上海に来ると、蒋介石に上海を奪われるかもしれません。そう考えた中国共産党は、蒋介石が来る前に上海でデモを起こし、そのデモに乗じて政府を樹立する必要があったわけです。
話はこれだけでは終わりません。
1927年3月24日、南京に到着した国民革命軍の一部が、無防備だった列強国の外国人たちを襲って殺してしまう事件が起こります。当然、この事件は国際問題にまで発展しました。
一見すると蒋介石率いる国民革命軍の不祥事にも見えますが、蒋介石はこれを共産党の陰謀だと断言し、ブチギレます。
蒋介石「この際ハッキリ断言するが、これは私を陥れるための共産党の罠だ。国民革命軍にスパイを忍ばせ、外人を襲うことで、私と列強国が争うよう仕組んだものだ。私はこれ以上、共産党の暴挙に我慢することはできない。この事件を機に、共産党との連携を解消して、共産主義者を徹底的に消し去ろうと思う」
蒋介石は、共産主義を嫌っている列強国を利用して、「共産党を潰すから手伝ってくれよ」と逆に諸外国から援助を得ることに成功。上海で臨時政府を樹立した共産党をぶっ潰す作戦を練り始めます。
上海クーデター
4月12日、蒋介石はいよいよ共産党員撲滅計画を実行に移します。上海クーデターの始まりです。
蒋介石は、まず上海に国民革命軍を送り込んで、武装する共産党員に対して武装解除を命じます。しかし、共産党員はこれを拒否。両者の間で争いが起こり、多くの者が死傷します。
すると翌日(4月13日)、共産党は蒋介石に対抗するため、上海の労働者や学生を集め、蒋介石の討伐を呼びかける大規模なデモ活動を起こしました。共産党は、蒋介石の軍事力に屈することなく、民衆の力によって徹底抗戦の構えを見せたのです。
国民革命軍はデモの中止を呼びかけましたが、当然の如くデモに参加する人々はこれを無視。力による制圧しかないと判断した国民革命軍は銃による発砲を行い、デモに参加する多くの人々が死傷する大事件となりました。
強引にデモを鎮めた後、蒋介石は共産党員やその支持者への攻撃もはじめ、共産党が上海で立ち上げた臨時政府は解体に追い込まれ、共産党の有力者の多くが命を奪われました。
蒋介石の共産党弾圧は、上海だけにとどまらず全国に波及。蒋介石は、全国規模の共産党弾圧を行うことで、共産党員を一掃しようと考えたのです。
列強国や浙江財閥の支援を得た蒋介石は、まさに無双状態でした。
南京国民政府の樹立
蒋介石の怒りは、これだけでは収まりません。
蒋介石は、共産党にベッタリだった武漢国民政府に見切りをつけ、共産党に染まっていない新しい国民政府を南京に樹立してしまいます。(南京国民政府)
こうして中国国民党は、
共産党推しの武漢国民政府
共産党を弾圧する南京国民政府
の2つに分裂。
しかも、武漢国民政府の中でも、南京事件や共産党による上海臨時政府創設を「いやいや、共産党もさすがに好き勝手やりすぎだろ・・・」と思う人たちが増えて、内部分裂が起こります。
要するに、中国国民党の内部が共産党との関係をめぐってメチャクチャになってしまった・・・ということです。
国共分裂
ところが、1927年7月に事態が急変します。
武漢国民政府のトップで共産党推しだった汪兆銘も、共産党の強引なやり口に「このままでは国民政府が共産党に乗っ取られてしまうのでは・・・?(汗」と危機感を持つようになり、熟慮の末、共産党との協力関係を解消することを決断します。
7月15日、汪兆銘は第一次国共合作を破棄することを宣言し、ここに3年続いた中国国民党と中国共産党の協力関係は崩壊することになりました。(国共分裂)
こうなると、汪兆銘の武漢国民政府と蒋介石の南京国民政府がいがみ合う理由もなくなります。
1927年9月には、武漢国民政府が南京国民政府に吸収され、孫文が亡くなってから続いていた中国国民党の内紛がようやく収まりました。
蒋介石は、上海クーデターで共産党を弾圧しつつ、中国国民党をまとめることに成功すると、継続中だった北伐を一層本格化します。そして、1928年6月には軍閥政権の拠点である北京を陥落させ、10月には中華民国の全国統一を成し遂げることになります。
蒋介石が全国統一を成し遂げると、中国は中国国民党・中国共産党・軍閥政権の残党の三つ巴の争いが続く混乱した時代を迎えることになります。
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