今回は、1804年に日本へやってきて戦闘を起こしたロシア使節レザノフの来航についてわかりやすく丁寧に解説します。
ラクスマンからレザノフへ
レザノフ来航の話を理解するには、その前に1792年に日本にやってきたラクスマンの話をする必要があります。
実は、ロシアの公式使節が日本にやってきたのはレザノフで2回目。
最初に公式に日本へやってきたのはラクスマンという人物でした。ラクスマンは1792年に北海道(当時は蝦夷地)の根室という場所にやってきて、助けた日本の漂流民を返還する代わりに、日本にロシアとの通商を求めました。
1793年にラクスマンは長崎への入港を認められ、長崎で通商について日本と話をする予定・・・でしたが、ラクスマンは長崎には入港せず、長崎入港の許可証を持ったままロシアへ帰国してしまいます。
そして少し時間を置いた1803年、ラクスマンが持ち帰ってきた長崎入港許可書を持って、次はレザノフが日本に再び通商を求めることになりました。ラクスマンからレザノフへと話がつながっているわけですね。
ラクスマンの話は、以下の記事で詳しく紹介しているので合わせて読んでみてください。
レザノフが日本に来た理由
2回目の使節にレザノフが選ばれたのにはちゃんと理由があります。
レザノフは当時、アリューシャン列島やカムチャッカから南へ伸びる千島列島の統治を任されていました。
寒冷で痩せた土地ばかりの小さな島々を統治する上で、深刻な問題になったのが食糧不足でした。
レザノフは、この食糧問題を解決するために列島に近い日本との通商を望むようになります。
列島に近い日本と貿易ができれば、食料問題を解決できるかもしれない・・・!!
そこでレザノフは、ロシア皇帝に日本との通商について進言。これが認められ、レザノフ自身が日本への公式使節に任命されました。
レザノフ来航
1803年、レザノフはロシア帝国の首都ペテルブルクから出港。日本の長崎を目指します。
実は、レザノフが乗る船には数人の日本人の姿もありました。ロシア人に救出された日本の漂流民です。
漂流民は外交に利用できたり、異国の文化を知る貴重な情報源なので、救出されて保護されることが頻繁にありました。
レザノフは「日本人を助けて返還してやるんだから、通商ぐらい認めろよな」と漂流民を外交カードの1つと考えたのです。
ちなみに、1回目の使節ラクスマンもこれと同じ手法を使っています。
レザノフを乗せた船は、南米周りで日本へ向かい、翌年の1804年9月、長崎に入港許可証をもって来航します。
江戸幕府との交渉経過
長崎に到着するとレザノフは、江戸幕府に対して通商交渉を求めます。
12年前の1792年、日本に来たラクスマンは江戸幕府から「長崎でなら通商交渉をしても良い」と伝えられていました。
結局ラクスマンは、長崎入港許可証を手に入れただけでロシアに帰ってしまったのですが、そんな経過もあるのでレザノフは今回の交渉に大きな期待を寄せていました。
ラクスマン来航時には、すでに江戸幕府は通商交渉を認めつつあった。
だから、今回もきっと江戸幕府は通商交渉に応じてくれるはずだ!
・・・が、レザノフの読みは甘すぎました。
幕府の首脳陣が12年前とスッカリ変わってしまったおかげで、日本のロシアに対する対応も変わってしまったのです。
ラクスマン来航当時、幕府を牛耳っていた松平定信はこう考えていました。
ロシアを強く刺激してしまうぐらいなら、通商を認めてしまう方が得策だろう・・・。
ところが、レザノフが来航する頃には松平定信は失脚しており、幕府首脳陣は「どんな理由があっても通商は断固拒否する」という強硬な意見で占められていたのです。
ウキウキワクワクで幕府の返事を待つレザノフですが、次第に日本の様子がおかしいことに気付きます。
船から降りる許可をもらうのに2ヶ月もの時間を要し、長崎の地を踏んだ後も丁重にもてなしてはくれるものの、常に厳重な監視を受けることになったのです。レザノフは自分の置かれた状況のことを「名誉ある捕虜」と皮肉を込めて言っています。
江戸幕府がレザノフを厄介者扱いしたのは誰の目にも明らかです・・・。
おまけに、翌年(1805年)3月まで軟禁状態で待たされた挙句、江戸幕府の回答は「通商交渉の余地なし。むしろもう日本に来るな。早くロシアに帰れ!」という非情な内容でした。
それに加え、帰りの装備や食料も十分に補給できないまま、レザノフは長崎からの出港を強いられました。
レザノフは失望と憤怒の中、こんなことを思いながら日本を離れたのでした。
こうなったら、武力によって日本に通商を認めさせるしかないか・・・。
長崎の守備は脆弱だったし、軍艦2隻もあれば簡単に制圧できるし、攻め込むのが一番手っ取り早いな。
【悲報】レザノフ、北海道周辺を攻撃
レザノフは1805年4月、長崎を出港。自身の統治するカムチャッカに戻りました。
そして幕府の対応に不満をつのらせたレザノフは、部下のニコライ・フヴォストフに命令をして1806年に樺太、1807年に択捉島を襲撃させます。
特に択捉島のシャナという地域は、銃撃戦の戦場となりました。
最新のロシアの武器の前に、日本の武士たちは歯が立たず撤退を余儀なくされ、シャナはロシア兵によって徹底的に略奪されました。
シャナには、間宮海峡を発見したことで有名な間宮林蔵の姿もありました。
ロシア兵に敗れはしたものの、間宮林蔵はこの時に目覚ましい活躍をしたと言われています。
このロシアの攻撃は、ロシア皇帝アレクサンデル1世に無断で行われたもの。事後に樺太・択捉島の襲撃を知ったアレクサンデル1世は、これに不快感を示し、戦闘の中止を命令します。
こうして、ロシアの襲撃は終わりました。
江戸幕府からすれば、本土への攻撃ではなかったのが不幸中の幸いだったかもしれません。(というか、レザノフは意図的に国境の曖昧な樺太・択捉島を狙ったのでしょう。)
レザノフ来航が日本に与えた影響
江戸幕府はレザノフの来航を通じて、「通商を拒み続ければ、他国と戦闘になることもある。国防を強化しなければならない」と考えるようになり、大きく2つの政策を実施しました。
蝦夷地すべてを幕府の直轄領へ 〜松前奉行の設置〜
1792年にラクスマンが蝦夷地(北海道)の根室にやってきた頃から、江戸幕府はロシアに強い警戒感を持っていました。
1799年には、蝦夷地の東側を幕府の直轄領としていましたが、レザノフの一件により、幕府は蝦夷地すべてを幕府の直轄領とすることを決定します。
そして、蝦夷地の管理やロシア対策をする組織として松前奉行を設置。
松前奉行は東北諸藩(津軽藩、南部藩、仙台藩など)の協力も得ながら、蝦夷地の防衛力強化に全力を注ぎました。
樺太の地理調査を開始!
当時、樺太の南部には松前藩の影響が及んでいましたが、樺太北部は謎に包まれた未知の世界でした。
そこで幕府は、1808年に樺太に調査団を派遣することにします。
樺太は、ロシアと蝦夷地の間にある国防上とても大事な場所です。それにもかかわらず、樺太は厳しい自然のため調査すら困難であり、謎の包まれた未開の地でした。
江戸幕府は、ロシアよりもはやく樺太の全容を把握し、あわよくば樺太を日本の支配下に置こうと考えたわけです
ラクスマンが来航した時も、実はこれと似たようなことが択捉島で起きていました。
日本とロシアの勢力の中間に位置していた択捉島。江戸幕府は、ここに最上徳内と近藤重蔵を送り込んで、「大日本恵登呂府」の標柱を立てました。
要するに、「ロシアに取られる前に択捉島を日本の支配下にするぞ!」と考えたんですね。
今回の樺太の調査でも、これと同じことが行われたのです。
この大任を任されたのは先ほど少しだけ登場した間宮林蔵。
間宮林蔵は、1799年に伊能忠敬から測量技術を学んでおり、1803年には蝦夷地の測量も実施。おまけにアイヌ事情にも詳しいため、樺太探索にはうってつけの人物でした。
厳しい寒さと生茂る木々によって探索は困難を極めますが、間宮林蔵はその困難を乗り越え、樺太を踏破。
当時、世界中で「樺太は島なのか?大陸の一部なのか?」が議論になっていましたが、間宮林蔵は「樺太は島である」ことをはっきりと証明したのです。
間宮林蔵の樺太踏破によって、世界から未開の地が1つ無くなり、世界地図に新たに樺太が書き加えられることになりました。
そして、その偉業を称するため大陸と樺太の間の海峡は間宮海峡と名付けられます。
間宮林蔵がロシア対策のために樺太探索を開始したのと同じ1808年、次は長崎にイギリスのフェートン号という軍艦がやってきてトラブルを起こしています。(フェートン号事件)
列強国のアジア進出は、当然ながら日本にも影響を与えるようになり、江戸幕府は時代に合わせた大きな変革を迫られるようになります。(この時代のうねりが幕末の動乱につながる。)
コメント
レザノフが来航した際には既に松平定信は失脚しています。
当時幕府が諸外国に対して強硬な態度を取っていたのは確かですが。