藤原道長の父、藤原兼家が凄い!【円融天皇と藤原氏の権力】

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前回は、安和の変により藤原氏の一強時代が到来したお話をしました。

飛鳥時代から数百年もの間、政界で続いていた「藤原氏VSその他氏族」の戦いが、ついに終わったのです。これって結構画期的な出来事です。

しかし、これで戦いが終わったわけではありません。次は、他氏排斥をした藤原氏同士で熱烈な権力争いが繰り広げられます。

そんな藤原氏による権力争いにおいて、勝者として絶対的権力を誇ったのが、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の短歌で有名な藤原道長(ふじわらのみちなが)です。

今回は、藤原道長の話・・・ではなく藤原道長の父の藤原兼家(ふじわらのかねいえ)について話をします。

道長の父である兼家がどんな人物か知っている人は少ないと思いますが、兼家の人生は非常に波乱万丈で実はとても面白いです。なので、あえてマニアックな兼家の話を書くことにしました。

時系列的には、安和の変(969年)の後の話になります。

円融天皇の即位と相次ぐ藤原氏の死

安和の変により源高明(みなもとのたかあきら)の追放に成功した藤原氏たちは、藤原氏に有利な円融天皇(えんゆうてんのう)を即位させます。(詳しくは安和の変(あんなのへん)をわかりやすく【藤原氏、出世コース確定へ】を見てください)

藤原実頼、藤原伊尹(これただ)の死

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(登場人物一覧。別ウィンドウで開きます。)

ここから先、登場人物がたくさんいて人間関係が複雑になっていきます。わからなくなったら、上の図を参考にしてみてください。(キーとなる人物は赤枠で囲ってます。なお、誤字脱字があるかもしれません。すみません!)

円融天皇は即位当時まだ11歳。政治を行うためには摂政を置く必要がありました。そこで抜擢されたのが、藤原実頼

実頼は、円融天皇とは血縁関係がないものの優秀な人物であり、ほかに折衝が務まりそうな人物もいなかったので摂政に抜擢されました。似たような経過で冷泉天皇のときにも摂政になっています。官僚・政治家として信頼が厚かったのでしょう(消去法という可能性もあるけど)。

しかし、実頼は70歳を超える老齢でした。安和の変の翌年の970年、実頼は亡くなってしまいます。次は、兼家の兄である藤原伊尹(ふじわらのこれただ)が後を引き継いで円融天皇の摂政となりました。

しかし、藤原伊尹も摂政になった2年後の972年に亡くなってしまいます。

兼家と兼通の兄弟争い

藤原伊尹が亡くなったあと、藤原伊尹の弟である藤原兼家と藤原兼通が次期摂政を巡って対立します。

結論から言うと、兼通が摂政に選ばれます。道長の父である兼家の出番はもう少し先になります。

兼家と兼通の状況は簡単に次のような感じでした。

剛腕の兼家。異常な早さの出世

兼家は、兼通の弟なので兼通よりも年下です。ですが、円融天皇の前の天皇、冷泉天皇の下で異常な出世を遂げ、伊尹の次期摂政を巡って兄の兼通と対立するころには、兄よりも上の役職になっていたのです。

簡単に、役職の経歴を説明しておきます。

968年、天皇の側近(護衛役)の代表者。蔵人頭(くろうどのとう)と言います。

969年、貴族の仲間入り(中納言という役職に出世し、意思決定機関の一員となる)。そして同じく969年、皇太子の側近の代表者になる。東宮大夫(とうぐうだいぶ)と言います。

この時代、貴族の仲間入りをすると、天皇の側近は辞めてしまうのが普通でした。しかし、なぜか兼家は、貴族と天皇側近(蔵人頭)を兼任することになります。

貴族として政治に参加しながら、天皇や皇太子と密にコミュニケーションを取ったり、情報収集ができる立場に兼家はあったわけなので、兼家の力は相当なものだったようです。

しかし、なぜ兄を差し置いてそんな急な出世ができたのか?それははっきりしたことはわかっていないようです。

秘密兵器を持つ兼通 -皇太后の遺言-

年下の兼家に完全に遅れとってしまった兼通。周りの人たちも、位の高い弟の兼家が次の摂政になるのが順当だろうと考えていました。

しかし、兼通も黙ってはいません。兼通は、すべての人を黙らせることができる秘密兵器を持っていたのです。それは、藤原安子(円融天皇の母。皇太后)の遺言です。

遺言にはこう書かれていました。

摂関の役職は、兄弟順に選ぶように!

この遺言の力は圧倒的だったようで、次期摂政は兼通に決定します。兼家の急速な出世はここで一度ストップしてしまうことになります。

こうして伊尹の次期摂政を巡る争いは、兄の兼通の勝利に終わります。974年、兼通は摂政となります。

この後も、兼家と兼通は非常に不仲だったらしく、兼通が摂政として在籍している間、兼家の出世は全く進まなくなってしまいました。

兼通、逆切れするww

兼通の摂政就任後、しばらくが経過した977年、兼通は53歳で病により亡くなります。

兼通の病の悪化を知った兼家は、「次こそは俺が最高職(摂関職)へ就任する番だ!!」とこれをチャンスと考え、円融天皇に自分を兼通の亡き後の関白にするようお願いをすることにしました。

平安時代末期に書かれた歴史物語「大鏡」の中で、次のようなエピソードが描かれています。

兼家「円融天皇のところへ関白にしてもらえるようお願いしに行こう!

兼通「ん?兼家が俺んちの方に向かってくるぞ・・・?これまでずっと、権力争いで不仲だった兼家がお見舞いに来てくれるなんて・・・(超感動)。争ってても俺らはやっぱり兄弟なんだなぁ・・・(ウルウル

兼家「おっ、兼家の家。でもあいつに用はない。むしろ早く逝ってくれwww

兼通「あいつ、俺んち無視しやがった・・・(激怒)。お見舞いにすら来ないなんてやっぱりあいつは俺の倒すべき敵だ。俺の最後の力でフルボッコにしてやんよwww

こうして、兼家は、一部の役職をはく奪され、兼通亡き後の関白には、藤原頼忠(藤原実頼の息子)という人物が就任することになりました。

※ 上記の話は、大鏡に描かれているエピソードですが、その信ぴょう性には疑問があるとされています。面白い話なので、紹介しましたが、真実でないかもしれないので注意してくださいね!

兼家の切り札 -藤原詮子(ふじわらのせんし)の入内-

この後しばらくの間、兼家は出世もままならない不遇の時代を迎えます。

兼家は権勢を極めたあの藤原道長の父ですが、実は下積みの時代が結構長いのです。

しかし、兼家は諦めませんでした。

娘の詮子を円融天皇に嫁がせる

兼通が亡くなったのを好機と見た兼家は、兼通が亡くなった977年の翌年、978年に娘の藤原詮子を円融天皇に嫁がせます。天皇に嫁がせることを入内(じゅだい)と言ったりもします。

詮子が天皇との子を産んでくれれば、その子を天皇にできる可能性があり、そうすると兼家は天皇のおじいちゃんになるので、外戚として圧倒的権力を手に入れることができたのです。

ネタバレですが、兼家の想いは実現し、藤原詮子と円融天皇の子は一条天皇という名で天皇になります。すると、兼家は天皇のおじいちゃん、つまり外戚となり、一発大逆転で大出世を遂げることとなります。

ただし、一条天皇が即位するまでの間も、苦難の道のりでした。

冷遇される藤原詮子

円融天皇は、兼通と友好的な関係だったせいか、兼家とは微妙な立場だったと考えられています。その兼家の娘である藤原詮子は入内し子まで産んだにも関わらず、正妻(后)に選ばれませんでした。

どういうことかというと、次期天皇は后の生んだ子が最有力となるため、后になれなかった詮子の子どもが天皇になれる可能性がぐっと低くなったということです。

兼家の一族は、藤原氏の中でも特に地位の高い一族でした。これは、兼家から見れば自分の家系を馬鹿にされたことを意味しました。さすがの兼家も怒ったらしく、その後、天皇からの召喚に応じることもなく、兼家も詮子も家の中に引きこもりがちになってしまいます。

 兼家の一発大逆転劇場 -寛和の変-

今回は、ここまで。

次回は、最後のほうでちょっとだけ触れた兼家の一発大逆転のきっかけになった寛和の変という出来事の話をしていきます。

寛和の変により、兼家は現天皇を追放し、孫である一条天皇を即位させることに成功するのです。

藤原道長の話をするときは、道長だけではなくで、その父である兼家の話もセットで知ると面白いし、わかりやすいですよ。

【次回】

前回は、藤原兼家と兼通の摂関職を巡る兄弟争いについて見ていきました。 結局、兄の兼通の勝利に終わり、弟の兼家は不遇の時代を...

【前回】

前回は、延喜・天暦の治と呼ばれていた時代の話をしました。年代的には、醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇の3世代の間で、ざっくり900年~9...

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