後三年の役をわかりやすく解説【清原氏と源義家と奥州藤原氏】

前九年の役が終わったのが1062年。約20年後の1080年ごろ、東北地方は再び動乱の渦の中へと巻き込まれていきます。この時の一連の戦いのことを「後三年の役」と言います。

後三年の役は、その前に起こった前九年の役と密接に関わっています(同じ東北地方で起こった事件ですからね!)。後三年の役についてちゃんと知りたい方は、まずは以下の前九年の役の記事をご一読されることをオススメします。この記事も以下の記事が読まれている前提で書いています。(そうしないと膨大な文章量になっちゃうので・・・)

2記事に渡り、前九年の役と後三年の役について解説しようと思います。この記事では前九年の役について解説します。前九年の...

当時の東北情勢 〜清原氏の東北支配〜

まずは、後三年の役勃発当時の東北地方の状況を。

前九年の役が平定された後、それまで清原一族は出羽国の3郡、安倍一族は陸奥国の6郡(奥六郡と言います。)を支配していた東北地方の支配図に変化が生じます。前九年の役により安倍氏が滅ぶと、清原氏が出羽・陸奥の計9郡の広大な地域を支配するようになります。

【上図の青線で囲まれたあたりが清原氏の支配地域。赤線で囲まれたところが、滅びた安倍氏の支配地域】

東北地方は砂金や良馬がたくさん生産できる豊かな地域で、しかも蝦夷地との交易の要所。そんな東北一帯の統治者となった清原氏は強大な力を持つようになりました。しかしながら、清原氏は朝廷に逆らうことはせず、しっかりと税も納めるし朝廷とは比較的良好な関係だったようです。

前九年の役は、安倍氏が朝廷に逆らったことが勃発の一因でしたが、後三年の役当時の状況は前九年の役とはまるで対照的な状況でした。

ではなぜ、朝廷との関係も良好になった東北地方で再び戦いが始まろうとしていたのでしょう?

清原一族の家督争い

前九年の役は「安倍氏、朝廷に逆らう」という公的な理由がありましたが、後三年の役は「清原一族の家族喧嘩」という私的な理由で起こった戦いでした。

次に、後三年の役のきっかけとなった「清原一族の家族喧嘩」について紹介しようと思います。家族喧嘩とは要するに「遺産相続争い」です。ちなみに、似たような名前ばかり登場するし、人間関係が非常に複雑です(汗

 武貞の後を継いだ清原真衡

人間関係がわからなくなったら上図を参考にしてください。赤い人物が後三年の役のキーパーソンです。

前九年の役の際、安倍氏に惨敗し、万策尽きた源頼義の切り札として登場したのが清原一族の援軍でした。長く続いた安倍氏VS源頼義の戦いですが、清原氏が源頼義側に付いた途端、たった1ヶ月で安倍氏は滅亡します。この時、清原援軍の総大将だったのが清原武貞(きよはらのたけさだ)という人物でした。

前九年の役が終わり、陸奥を支配領域に組み込んだ清原一族は、武貞死後、次のリーダーをその息子の清原真衡(きよはらのさねひら)としました。

後三年の役はこの清原真衡の時代に起こることになります。

清原清衡の微妙な立ち位置

清原真衡には兄弟が2人いました。家衡(いえひら)清衡(きよひら)です。家衡は異母兄弟、清衡は異父兄弟。

実はこのあたりの人間関係がかなり複雑で、家衡も清衡も前九年の役で清原氏と対立した安倍一族の女から生まれた子でした。

特に清衡の状況はさらに複雑で、前九年の役により実父だった藤原経清が亡くなります。身の拠り所を失った清衡は、武貞の取り計らいもあって、武貞の養子となっていたのです。なので、養子に成るまでの清衡の名は「藤原清衡」であり養子になった後、「清原清衡」と名乗るようになったのです。

旧安倍氏領土(陸奥)の安定統治

清原武貞は前九年の役後、安倍氏が支配していた陸奥の奥六郡と呼ばれる一帯を新たな支配下に置くことに成功しますが、新領土である奥六郡の安定統治のため、安倍一族の娘と血縁関係を結びました。つまりは政略婚です。さらに、清原嫡流家は本拠地を出羽から陸奥へと移します。

こうして安倍頼時の娘と清原武貞との間に生まれたのが清原家衡です。清衡を養子としたのも奥六郡の安定統治のためであろうと思われます。

・嫡子の清原真衡

・政略婚の末に生まれた清原家衡

・政略婚の際に養子となった清原清衡

生い立ちの全く違う3人の兄弟ですが、この3人は次第に対立するようになり、この対立が後三年の役へと発展していくわけです。

清原真衡の一族軽視

清原真衡は子に恵まれなかったようで、自分の次期後継者を養子として連れてきた成衡にしようと考えていました。成衡は源義家の娘を妻に娶ることとなり、源氏とも血縁関係を結ぶようになりました。ちなみに源義家は、前九年の役で活躍した源頼義の息子になります。この婚姻も政略婚であり、武勇で名高く、皇室の血を引く源氏との関係強化を図ろうとしたものと考えられているようです。

こうして、清原真衡は着々と自らの嫡流としての立場を確立する下準備を整えていくわけですが、実は清原真衡は1つの問題を抱えていました。

不満を募らせる庶流の清原一族たち

清原真衡は、嫡流のみを重視するあまり庶流となった清原一族たちに対しては上から目線で接する傾向があったようで、庶流の清原一族は清原真衡に強い不満を抱いていました。

清原真衡以前の清原氏は「清原一族一致団結で頑張ろうぜ!」って感じでしたが、清原真衡の頃になると「嫡流の俺がリーダーとして、他の清原一族たちを引っ張ってやるからな!」的な感じで上から目線で物事を考えるようになりました。

広範な地域を支配するために組織を高度化する必要があった・・・という意味では清原真衡の行動は正しいのでは?なんて個人的に思いますが、いずれにしても当時の庶流清原一族から見れば「これまで一緒に頑張ってきたのに、今は俺らに命令するだけかよ・・・」との想いがありました。

そして、1081年〜1083年ごろ(具体的な時期は定まっていないようです)、遂にこの不満が武力闘争にまで発展してしまったのです。

吉彦秀武「無視されたから真衡ぶっ潰す」

その日は、先ほど説明した清原成衡と義家の娘との結婚式の日でした。吉彦秀武(きみこのひでたけ)は、清原氏に古くから仕えていた人物で清原一族の女を嫁に持っていました。前九年の役でも一陣の指揮官として活躍した人物の一人です。

そんな吉彦秀武は、お祝いのため大量の金を抱えて真衡のところへ訪れました。吉彦秀武は庭先で待たされていましたが、清原真衡は碁に夢中で吉武秀武を完全無視。侮辱された吉彦秀武は、日頃の様々不満もあってこれにブチギレ。「ふざけるな!俺はもう帰る!」と持ってきた金の袋を蹴っ飛ばして吉彦秀武は帰って行きました。

真衡「俺に逆らったから吉彦秀武潰すわ」

一方、吉彦秀武の振る舞いの報告を受けた真衡も激怒します。「清原氏のリーダーたるこの俺にその態度はなんだ!!吉彦秀武は討伐する!!」

こうして、吉彦秀武に対して派兵することになりました。兵の規模は8000と言われ、吉彦秀武は「自分だけでは太刀打ちできない」と考えました。そこで、常日頃から真衡のやり方に不満を持っていた家衡・清衡に参戦を呼びかけます。

秀武「ブチギレした真衡が俺んところ攻めてくるらしいんだが、その隙に家衡と清衡で留守の真衡本拠地を叩き潰してくれないか?」

清衡・家衡「了解。あいついつも偉そうでムカついてたんだわ」

源義家の参戦

家衡・清衡の襲撃を知った真衡は、兵を引き返し本拠地を狙う家衡・清衡に向かって軍を進めます。そして、この動きを知った家衡・清衡は、真衡との直接対決を避け撤退。

その後、1083年の秋頃、再度体制を整えた清原真衡は再び吉彦秀武討伐のため派兵します。そして、またまた真衡の留守の間を狙って家衡・清衡が本拠地めがけて襲撃を企みます。

家衡・清衡はなんだかハイエナみたいな動きをしています。しかし、今回は真衡側もしっかりと対策済み。源義家にお願いして義家の兵の一部を留守の本拠地に配置していたのです。なぜ源義家がここで登場するのかというと、義家の娘が清原真衡の息子の成衡と婚姻関係にあったからです。お互いに親戚同士にだったので義家が真衡を助ける理由は十分にあったわけです。

しかし、義家の兵だけでは家衡・清衡を抑えきれず、義家本人も戦いに参戦。義家自らの登場により家衡・清衡は大敗。そしてその後、家衡・清衡は義家に降伏。家衡・清衡も義家相手では部が悪いと考えたのでしょう。前九年の役を通じて義家は東北地方でも強い影響力を持つようになり、清原氏の一族紛争にも源義家は深く介入していくことになります。

家衡VS清衡

またもや真衡討伐に失敗した家衡・清衡ですが、実は何もしなくても真衡は病により勝手に亡くなってしまいます。家衡・清衡は「超ラッキー!!!!」と心の中で叫んだことでしょう。

その後の清原氏の後継者選定は、源義家が仲介役となって行われました。源義家は清原氏と親戚関係になったこと、前九年の役により名声を上げたことにより、強大な力を持つ清原氏の後継者選びにまで首を突っ込むほどになっていたのです。

清原氏の嫡流家、つまり清原真衡の支配地とされていた奥六郡は、義家の仲裁により清衡と家衡にそれぞれ3郡ずつ分配されることになりました。ちなみに、養父を失った次期後継者候補の成衡は歴史の表舞台から姿を消します。養父の死により影響力を失ったものと思われます。

しかし、これに家衡は納得しません。家衡は「なぜ清原氏の血が流れていない養子の清衡と俺の領土が同じなんだ?普通全部俺のものになるだろ・・・」と義家の決定に強い不満を持っていました。言っていることもなんとなくわかります。

家衡の襲撃

1086年、何が直接のきっかけかはわかりませんが家衡は清衡の館を襲撃します。この時、清衡の家族は全て殺され、清衡のみがかろうじて生き延びました。清衡は、これを義家に報告し、「どうか救ってください・・・」と歎願。こうして義家は、清衡へ加勢することになりました。

義家の立ち位置

成衡が失墜した当時、源義家には積極的に清衡VS家衡の争いに介入する理由は特にありません。それにも関わらず清衡に加担したのは、父の頼義が成し得なかった東北地方の支配権の獲得のためでした。父の頼義は、前九年の役で安倍氏をぶっ倒し、東北支配を目論みましたが、結局最後は良いところを清原氏に全部もっていかれ、失敗に終わっています。そのリベンジをしようと義家は考えたのです。

そもそも真衡が亡くなった後、その遺領を家衡と清衡に半分ずつ分配したのもわざと争いが起こるように仕向けたのかもしれません・・・。

敗北する義家

家衡は、義家に対して沼柵という基地に篭り、防衛戦を展開します。一方の義家は沼柵へと進軍しますが、季節は冬、そして想定以上に家衡が強かったため敗北。体制を立て直すため一時撤退します。

前九年の役の際も同様ですが、蝦夷の基地は非常に防御力が高く攻める側にも高度な攻城戦が求められました。前九年の役の記事でも解説したように、東北地方は蝦夷地との緩衝地帯であり、戦闘に備えしっかりとした基地が築き上げられていたのです。

当時の義家は、そこまでの用意周到な準備をせず出兵したため、敗北せざるを得なかったわけです。

籠城戦と兵糧攻め

1087年、清衡・義家軍は家衡に対してリベンジ戦を行います。家衡はその地方で難攻不落と呼ばれていた金沢柵で清衡・義家軍を待ち構えます。

義家伝説 ー雁行の乱れで伏兵を察するー

実は義家にはちょっとした伝説が残されています。それは金沢柵へ向かう行軍中の出来事。

ある時、義家の目の前で雁が飛び立っていきました。義家は、雁の飛び立つ様子が乱れているのに気がつきます。孫子の教えを学んでいた義家は、「雁が列を乱して飛び立っているのは雁の近くに人間がいる証拠。つまり伏兵が潜んでいる!」と家衡の伏兵にいち早く気付きました。こうして、不意打ちを受けることなく敵兵を殲滅することに成功します。上の絵巻は、その時の様子が描かれています。(左下の方が伏兵らしいです)

このエピソードが本当にあったのかはわかりませんが、義家が武勇だけでなく策略にも優れた人物だったことを物語るエピソードです。

鎌倉権五郎景政の豪傑伝説

もう1つ逸話の紹介を。これは難攻不落の金沢柵の攻城戦初日の話です。

名は鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)。敵兵からの矢を目に受け、矢が刺さったまま本陣へ戻り、倒れてしまいました。心配した同僚は、矢を抜いてやろうと思い倒れている鎌倉権五郎景政の顔を靴で抑えながら矢を抜こうとします。

すると顔を踏まれた鎌倉権五郎景政は激怒。「矢を受けて死ぬのは本望だが、生きながらに顔を踏まれるのは我慢できん!」と叫び刀を抜いて同僚を威嚇したという。この様子をみた周囲の人々は「景政に敵う奴はいない!」と皆感嘆したと言う武勇伝が現代にまで残り続けています。

ちなみに鎌倉権五郎景政は、源頼朝の側近であり、源頼朝の危機を救ったことで有名な梶原景時のご先祖様になります。なんだか運命的なものを感じます。

兵糧攻め

義家軍には鎌倉権五郎景政のような武者がいましたが、難攻不落の金沢柵はいくら攻めても落ちる気配がありません。やはり家衡軍は強力だったのです。そこで清衡・義家軍が選んだ戦法は兵糧攻めでした。

義家は、金沢柵を包囲し兵糧攻めを実施。そのまま秋から冬となり、想定通り飢餓に苦しむ女子供が投降してきました。

殺戮される女子供

義家は、投降した人々を助命しようとしますが、吉彦秀武がこれに反対します。吉彦秀武、覚えてますでしょうか。金を真衡に渡そうと思ったけど無視されて激怒した人物です。この時、吉彦秀武は清原清衡軍に参戦していました。

吉彦秀武は、投降した者を見せしめとして殺すことで投降者を減らし、金沢柵内での食料消費のスピードを早めようとしたのです。おそらく、義家は兵糧攻めで心を折ろうと考えていたのでしょうが、吉彦秀武は家衡軍の殲滅を考えていたようです。

難攻不落の金沢柵を攻めあぐねていたこともあり、結局、義家は吉彦秀武の案を採用。投降した女子供は全て殺され、それをみた家衡軍は金沢柵の門は固く閉ざします。

こうして兵糧攻めに苦しむ家衡軍は敗走。金沢柵内の人々は女子供老人城兵に関わらず、すべて皆殺し。完膚なきまでに叩き潰しました。こうして後三年の役は終了します。

奥州後三年記

前九年の役には「陸奥話記」と言う軍記物が残されていますが、後三年の役にも「奥州後三年記」と言う軍記物が残されています。

陸奥話記は、部下と上司の忠義に厚い様子が多く描かれており史料としてだけでなく文学的な面も評価されているようですが、「奥州後三年記」はあまり評判がよくありません。奥州後三年記はとにかく残虐なシーンが多く描かれているからです。

「奥州後三年記」に描かれている戦の描写は、陸奥話記と比べる戦争の残虐な一面が際立つ作品となっています。兵糧攻めの部分でも触れましたが「女子供が皆殺し」と言うような描写がとても多いようです。(私は原文を読んだことがないので、断言的なことはなかなか言えません・・・)

義家の不遇

さて、後三年の役は義家の勝利に終わりました。しかも前九年の役のように清原氏のおかげで勝てた・・・と言うものではなく、客観的に見ても源義家軍の勝利と言って良いものでした。

義家も「これでようやく朝廷も俺に東北支配を任せてくれるだろう」と思っていましたが、そうはなりませんでした。

朝廷「えっ?俺たち義家君に戦えなんて言ってないよ?」

ところが朝廷は、「後三年の役での戦いは全て義家の私闘であり、恩賞を与える必要はない」と義家を一蹴。

冒頭でも説明しましたが、基本的に清原一族は朝廷に歯向かう様子もなかったし、納税にもしっかりと応じており、朝廷が追討命令を出す必要性はありませんでした。朝廷から見れば、「義家は、清原一族の家督争いに乱入して争いをかき乱してただけでしょ?」ぐらいの感覚だったんだと思います。前九年の役とは全く状況が違っていたわけです。

せっかく恩賞を楽しみにしながら敵兵の首を持って上京していた義家ですが、この朝廷の報告を受け、もはや不要と言わんばかりに首を道端に捨て、手ぶらで上京することになりました。

この点については、「義家がこれ以上強い影響力を持つことを避けるために、朝廷はあえて私闘認定した」なんて説もあります。事実がどうだったのかわかりませんが、少なくとも平忠常の乱の平定による源氏の名声と関東地方への影響力は、前九年の役・後三年の役を通じてより一層高まり、朝廷がそれを意識せざるを得ない状況になっていたことは間違いなさそうです。

出世できない源義家

朝廷は、恩賞を与えないどころか「義家が戦っている間、陸奥国からの納税が滞っている。滞っていた分ちゃんと払わんとこれ以上高い官位やらんからな」と義家の出世の道を閉ざしてしまいます。

義家は当時、陸奥国の受領。受領は納税の最高責任者であり、納税ノルマをこなせないと出世できないのは昔からのルールでした。義家が可哀想な感じもしますが、朝廷から見れば「私闘にうつつを抜かし、納税義務を怠った」ぐらいの話であり、前例踏襲の処置を行っただけだと思われます。

義家は、再度陸奥国の受領になることを望んでいたようですが、1088年、その役職を罷免させられます。義家は、朝廷に多大な負債を抱え、それを返済するまでの間、官位はお預け状態となりました。義家は「朝廷から恩賞をもらえれば借金はチャラになるぜ!」と思っていましたが、その目論見は失敗に終わってしまいます。

源義家と関東武士の強固な主従関係

結局、源義家が後三年の役で得たものは、多大な負債だけ。その負債により受領からも罷免され、その影響力は次第に弱まり、源氏は衰退していくことになります。平忠常の乱〜後三年の役をピークに、それ以後、源氏は源平合戦で一発逆転するまでの間、冬の時代を迎えることになります。

しかし、良いこともありました。それは源氏と関東武士とのプライベートな信頼関係が生まれたことです。義家は、多大な負債を抱え、受領を罷免されたにも関わらず、部下に対して全て自費で恩賞を与えました。前九年の役の際にも、義家の父、頼義が同様のことをしていました。子は父の背中を見て育つとはまさにこのことです。生死を賭けた過酷な戦いと義家の自費による恩賞により、義家と関東武士たちの主従関係はより親密なものとなります。

後三年の役を通じて獲得したこの主従関係こそが、源頼朝が開いた鎌倉幕府の新たな仕組み「御恩と奉公」と言う政治システムの芽生えなんじゃないか?と個人的には思っています。

八幡太郎義家

源義家は八幡太郎義家とも言われ、「武家としての源氏」を創り上げた人物と考えられています。どーゆーことかと言うと、後三年の役の後、数多くの源氏の血を持つ武士が登場しますが、多くの武士が自分の武士としてのルーツは後三年の役で活躍した源義家にある!と考えていたのです。何か自分のお家の話をする機会があれば最初に登場するのが源義家だったのです。

このように、後三年の役で活躍した源義家の存在は、その後の源氏たちの大きな心の支えとなっていたのです。

奥州藤原氏の始まり

最後にもう1つ。後三年の役は奥州藤原氏が登場したきっかけでもありました。

義家と共に後三年の役の勝利者となった清原清衡ですが、この人物が奥州藤原氏の祖となる人物となります。

後三年の役終了後、争いにより有力な清原氏は全て滅亡。唯一生き残った清衡が奥六郡の統治者となりました。それに加え亡くなった清原氏の遺産をも全て清衡が得ることとなり、一気に奥羽の有力者に成り上がります。清衡からすればまさに棚からぼた餅です。

さらに、清原清衡は、清原氏の養子となったから「清原」の姓を名乗っているだけであり、元はと言えば「藤原氏」の姓を名乗っていました。ところが、後三年の役により清原氏が滅びたことで、清衡にとってもはや「清原」の姓を名乗る必要はなくなりました。こうして旧姓の「藤原」を名乗るようになった藤原清衡が奥州藤原氏の祖となるわけです。

ちなみに、同じ藤原でも摂関政治で有名な藤原家とはルーツが全く違います。

安定の奥州藤原氏

奥州藤原氏は、その後、良馬や金などを朝廷にしっかりと献上することでその地位を認められ独自の支配権を築き上げます。東北地方自体裕福な地域で、良馬もたくさん生産できるため、奥州藤原氏は圧倒的強さを誇りました。ただし、その武力を用いて反乱を起こすようなこともなく、源頼朝による奥州藤原氏討伐までの間は、比較的安定した時代だったようです。

まとめ

前九年の役・後三年の役を通じて、源氏は武士としての確固たる地位を確立し、鎌倉時代の武士政権の下地が整えられました。また、東北地方の勢力図も大きく塗り替えられ、奥州藤原氏が幅を利かすようになったのです。

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