

今回は戦国時代の最後を飾った名将・真田幸村(本名は真田信繁)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
日本で最も有名な戦国武将のひとり――真田幸村。
でも実は、「幸村」という名前を、本人は一度も使ったことがないって知っていましたか?
本名は信繁。「幸村」と呼ばれるようになったのは、彼が亡くなったあと、江戸時代の軍記物や講談を通して広まった後世の通称なのです。
では、なぜ彼は今も「日本一の兵」と語り継がれているのでしょうか。そして、なぜ負けるとわかっていながら、徳川家康に最後まで立ち向かったのでしょうか。今回はその生涯を、人質時代から大坂の陣の壮絶な最期までじっくりたどっていきます。
真田幸村(真田信繁)とは?
- 本名は真田信繁。「幸村」は江戸時代以降に広まった通称で、生前には使われていない。
- 大坂冬の陣・夏の陣で徳川家康を二度も追い詰めた戦国最後の名将。
- 負けを覚悟しながら豊臣方について散った、義に生きた武士として今も人気が高い。

真田信繁(幸村)は、1567年頃に信濃国(現在の長野県)で生まれた戦国武将です。父は知略の達人として知られる真田昌幸、兄は徳川方で大名となった真田信之(信幸)。
約49年の生涯のうち(生年には諸説あり)、なんと30年近くを「人質」または「流刑人」として過ごしています。表舞台で武将らしく戦ったのは、生涯の最後の数か月だけ――。
それなのに、彼の名は400年経った今も語り継がれています。なぜなら、最後の最後で見せた戦いぶりが、敵味方の度肝を抜くほど鮮烈だったからです。

歴史の教科書や文書では「真田信繁」って書かれていることが多いんだよ。「幸村」は、いわばニックネームみたいなもの。今でいうと、芸名やペンネームのほうが本名より有名になっちゃったイメージに近いかな。

本名は信繁なのに、なんでみんな幸村って呼ぶの?「幸村」って名前はどこから来たんだろう?

江戸時代になってから書かれた『難波戦記(なんばせんき)』っていう軍記物に「幸村」と書かれて、それが講談や歌舞伎で広まっていったんだよ。「幸村」は後世の人たちが付けた愛称みたいなものなんだ。
真田幸村の家族と生い立ち

信繁の生家・真田家は、信濃国(現在の長野県上田市あたり)を本拠とする小さな土豪でした。それが戦国の荒波の中で「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と呼ばれるほどの巧みな外交で生き残った――それが信繁の生まれ育った家です。
父・昌幸は武田家に仕えた家臣で、武田信玄から多くを学んだ知将。母・山手殿は名族の出身と伝えられています。信繁にとって兄・信幸(のちの信之)は5歳ほど年上の頼れる兄でした。
信繁は次男。当時の武家社会では家督は長男が継ぐのが基本だったため、彼は生まれながらに「家を継がない子」として育ちました。
■ 武田家滅亡と真田家の選択
1582年、信繁が15歳ごろのこと――。主君である武田勝頼が織田・徳川連合軍に攻められ滅亡します。真田家は仕える主家を一夜にして失ったのです。
普通なら一族そろって路頭に迷う場面。ところが父の昌幸は違いました。織田信長、北条氏、上杉景勝、徳川家康――時代の有力者の間を巧みに渡り歩き、信濃の一角でしぶとく生き残ろうとします。
そのたくましい姿は、信繁少年の心に深く焼き付いたはずです。

「表裏比興」っていうのは、「裏表があってずる賢いやつ」って意味。豊臣秀吉が昌幸のしたたかさに半ばあきれて、半ば感心して付けたあだ名なんだよ。
■ 真田昌幸・信幸・信繁 三人の絆
真田家を語るうえで欠かせないのが、父・昌幸、兄・信幸、弟・信繁の「真田三代」と呼ばれる強い結びつきです。
兄の信幸は、堅実で実務に強い人物。家康の重臣・本多忠勝の娘(小松姫)を妻に迎え、徳川との縁を深めていきます。一方の信繁は、父の知略を受け継ぎ、感受性豊かで武人らしい一面を持っていました。
のちに兄弟は、関ヶ原の戦いで東軍と西軍に分かれて戦うことになります。けれども、生涯を通じてお互いを思いやる手紙のやり取りが残されており、決して仲違いしていたわけではありませんでした。むしろ、真田家を絶やさないために二手に分かれた兄弟だった――そう考えると、その絆の深さが胸に迫ります。
人質として過ごした青春時代

10代後半から20代前半にかけての信繁は、まさに「人質キャリア」を歩むことになります。これが、彼の人生の前半を決定づけました。
父・昌幸は周囲の大名と同盟を結ぶたびに、信繁を人質として差し出しました。記録によれば、まず上杉景勝のもとへ。その後、豊臣秀吉が天下を握ると、今度は豊臣家の人質として大坂城に送られています。
本来であれば、馬を駆り、戦場で武功を立てて名を上げるはずの青春時代――。それを、信繁は「他家の館でじっと過ごす日々」に費やしたのです。

人質って、お城の地下牢に閉じ込められてるイメージだけど…そんなにひどい生活だったの?

戦国時代の人質は、意外と「賓客(ひんきゃく)」扱いだったんだよ。屋敷を与えられて、教養や武芸を学ぶこともあった。今でいうと「半分強制的な留学生活」みたいなイメージかな。ただし、家が約束を破ったら殺される――そんな緊張感のある日々だった。
■ 豊臣政権下での信繁
豊臣家の人質として大坂に送られた信繁ですが、ここで思わぬ転機が訪れます。豊臣秀吉に気に入られ、「豊臣」の姓と従五位下・左衛門佐(さえもんのすけ)の官位を与えられたのです。
さらに、秀吉に重用された有力奉行であった大谷吉継の娘(一説には養女)を妻に迎えます。これは、ただの人質には絶対にあり得ない厚遇でした。
つまり、信繁にとって豊臣家は「拘束された場所」ではなく、自分を一人の武将として認めてくれた恩人」でもあったのです。のちに豊臣方として死ぬ決断をするその根っこは、この時期に深く埋め込まれたと言えるでしょう。

定めのない浮世なので、一日先のことは知ることができませぬ……。されど、太閤殿下(秀吉)よりたまわった御恩は、生涯忘れることはありますまい。
関ヶ原の戦いと犬伏の別れ

1598年、豊臣秀吉が亡くなると、天下は再び大きく揺れ始めます。秀吉の後継者・秀頼はまだ幼く、実権を握ろうとする徳川家康と、それを阻もうとする石田三成の対立が一気に深まりました。
1600年、ついに両者は決戦へ。これが、日本史最大の決戦――関ヶ原の戦いです。
真田家にとっても、ここが運命の岐路でした。
■ 犬伏の別れ――父と兄との「別れ」
1600年7月、家康に従って会津征伐に向かっていた真田父子3人は、下野国・犬伏(現在の栃木県佐野市)で石田三成からの密書を受け取ります。「西軍についてほしい」という要請でした。
父・昌幸、兄・信幸、弟・信繁。3人は陣中の小屋にこもり、深夜まで激論を交わしました。
そして出された結論は――父・昌幸と弟・信繁は西軍へ。兄・信幸は東軍に残る。
どちらが勝っても、片方が生き残れば真田家は続きます。「家を絶やさないための保険」という、戦国の家を守る厳しい知恵だったとされています。一族が滅ぼされない安全策として、真田家ではこの二股戦略を選んだのです。

この「犬伏の別れ」は、その後の信繁の人生を決定づけた瞬間なんだ。父と弟は西へ、兄は東へ。同じ家で育った3人が、生涯二度と一緒の食卓を囲むことなく散っていくことになるんだよ……。
■ 第二次上田合戦と上田城の死守
本拠地の信濃・上田城に戻った昌幸と信繁は、徳川家康の三男・徳川秀忠(ひでただ)の率いる3万8千の大軍を迎え撃つことになります。これが第二次上田合戦です。守る側はわずか3千ほど。
普通なら勝負にならない兵力差です。ところが昌幸・信繁親子は、地形を活かした巧みな伏兵戦と心理戦で、徳川秀忠軍の足を完全に止めてしまいました。
そしてなんと、秀忠軍は関ヶ原の本戦に間に合わなかったのです。これは家康にとって致命的なミスとなり、徳川親子に深い恥辱を残しました。信繁の名が後に家康を恐怖させる伏線は、ここですでに張られていたわけです。

上田で勝ったのに、関ヶ原は西軍が負けたんだよね?じゃあ昌幸と信繁はどうなったの?

本来なら処刑される運命だったんだけど、東軍についた兄・信幸と義父・本多忠勝が必死に助命を嘆願したんだ。それでぎりぎり命を救われて、紀伊国・九度山(くどやま)への流刑に処されることになったんだよ。
九度山での14年間
1600年の冬――。父・昌幸と信繁は、わずかな従者を連れて紀伊国の山里・九度山(現在の和歌山県九度山町)へと送られました。

高野山のふもとに広がる、田畑と山ばかりの土地。武将としての活動は禁じられ、表向きは一人の流人としてひっそり暮らすしかありません。
このとき信繁、34歳。武人として最も脂の乗る時期を、彼は14年もの間、この山里で過ごすことになります。
真田家の収入は途絶えており、兄・信幸からの仕送りが頼りでした。残された手紙には、昌幸が「焼酎を送ってほしい」「子供に着物を」「歯が抜けて困っている」など切実な訴えを綴ったものが残っています。かつての武将の威厳とはほど遠い、慎ましい暮らしがそこにあったのです。
■ 真田紐という謎の活動
九度山で信繁が始めたとされるのが、真田紐づくりです。木綿を平らに織った頑丈な紐で、刀の柄や荷物の結束に使われました。
家臣たちに作らせて諸国に売り歩かせた、と伝えられています。表向きはただの内職ですが、「実は紐の販売を口実に各地の情勢を探る情報網だったのでは」と語る研究者もいます。
真偽は今もはっきりしません。ただ、この14年間、信繁がただ意気消沈していたわけではないことだけは確かです。

実はこの時期の信繁、ただ流刑生活に耐えていたわけじゃないんだよ。父から知略を学び、家臣の絆を保ち、その先に来る「もう一度の戦」をじっと待っていたとも言われているんだ。
■ 父・昌幸の死と覚悟
1611年、流刑生活11年目――。信繁が頼りにし続けた父・昌幸が、九度山の地で病没します。享年65。「もう一度、徳川と戦ってみせる」と語り続けていた老将は、その夢を果たせないまま世を去りました。
信繁は深く悲しみますが、それと同時に、父の遺志は彼の中に確かに引き継がれていきます。
そして1614年――。豊臣家と徳川家の関係がついに決裂し、大坂城から信繁のもとへ密使が送られてきます。
「黄金200枚、銀30貫を支度金とする。大坂に来てほしい」――そんな破格の条件でした。信繁は迷うことなく、家族と家臣を連れて九度山を脱出します。14年ぶりの戦場への帰還でした。

父上、ようやくその日が参りました。たとえ勝てぬ戦であろうとも、武士として戦わねばならぬときが、確かにあるのでござる――。
大坂冬の陣と「真田丸」

1614年(慶長19年)、ついに豊臣秀頼と徳川家康の対立が爆発します。これが大坂冬の陣のはじまりです。
大坂城に集ったのは、信繁だけではありません。後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登――かつて天下に名を轟かせながら、関ヶ原の敗戦で居場所を失っていた猛将たちが続々と集結。彼らは「大坂五人衆」と呼ばれるようになります。
信繁はその中心人物として、大坂城の防衛戦略を任されました。
■ 真田丸とはどんな砦だったのか
信繁が真っ先に注目したのが、大坂城の南側でした。大坂城は北・東・西を川や湿地に守られていますが、南は台地が続いていて、攻め手にとって最も攻めやすい弱点だったのです。
そこで信繁は、大坂城の南に張り出すかたちで土塁の砦を築きます。これが、のちに彼の名と共に語り継がれる真田丸です。


真田丸って、お城の名前だと思っていたんだけど…大坂城の中にある別のお城ってこと?

真田丸は「出丸(でまる)」っていう、本城の弱点を補うための“前線基地”だよ。土塁と堀で囲まれていて、鉄砲を撃ちまくれる構造になっていたんだ。

■ 冬の陣での大勝利と停戦
1614年12月、徳川方の前田利常・井伊直孝・松平忠直らの大軍が真田丸に襲いかかります。ところが信繁の挑発に乗って無秩序に突撃してきた徳川軍を、土塁の上から鉄砲で次々と撃ち倒したのです。
真田丸の戦いだけで徳川方の死傷者は1万人を超えたとも言われ、家康をして「これは長期戦になる」と覚悟させるほどでした。
結局、家康は強引に和睦を持ちかけます。表向きは穏当な条件でしたが、和睦の交渉のなかで大坂城の外堀がすべて埋められ、さらには内堀まで埋められてしまったのです。
裸城同然となった大坂城――。信繁渾身の真田丸も、和睦の条件として取り壊しを命じられました。

家康の本当の狙いは、戦いに勝つことではなく「大坂城の堀を埋めること」だったんだよ。和睦の条件にうまく潜ませていたんだ。これが、のちの夏の陣で豊臣方を一気に追い詰める伏線になっていく――。
大坂夏の陣 — 家康を震え上がらせた最後の突撃

1615年(元和元年)4月。豊臣方の浪人衆が解散しないことを口実に、家康は再び大坂攻めを決断します。大坂夏の陣のはじまりです。
しかし、すでに堀を失った大坂城は籠城戦ができません。豊臣方は城を出て、野戦で雌雄を決するしかなくなっていました。
5月6日――。河内国・道明寺の戦いで、後藤又兵衛、薄田兼相が次々と討死。信繁も到着が遅れて又兵衛を救えず、無念の撤退を余儀なくされます。
もはや、勝利の見込みはほぼなくなっていました。それでも信繁は、最後の作戦を立てます。「家康の首ひとつ獲って散る」――それが彼の腹案でした。
「敵は百万と言うが、男はひとりもいないぞ」
――大坂夏の陣を前にした真田信繁の言葉と伝わる

たとえ百万の軍勢が押し寄せようと、真の侍はひとりも見当たらぬ。されば我ら、家康の首をひとつ獲って、武士の意地を後の世に示そうぞ!
■ 家康本陣への突撃
1615年5月7日――。天王寺・岡山の戦いと呼ばれる、大坂の陣の最終決戦が始まります。
信繁は赤備えの鎧を身にまとった精鋭3000騎を率い、家康本陣めがけて一直線に突撃しました。赤備えは武田信玄以来、武勇の象徴とされる装備です。
真田勢の猛烈な突進により、徳川方の旗本たちは押し倒され、本陣の馬印(うまじるし)が倒れるという大事件まで起きます。家康自身も馬を捨てて逃げ惑い、一時は自害を覚悟したとも伝えられています。
信繁は二度、三度と本陣に肉薄しました。けれども、徳川方の数の力には勝てません。少しずつ追い詰められ、ついに信繁は安居神社(やすいじんじゃ)の境内で力尽きて休んでいたところを、徳川方の越前松平家の武士・西尾仁左衛門に討ち取られた、と伝わります。

馬印は、戦場で大将のいる場所を示す目印です。それが倒れたということは、「大将が斬り込まれて陣形が崩壊した」のと同じ意味。家康の本陣でこの事件が起きたのは、三方ヶ原の戦い以来、実に40年以上ぶりだったと言われています。
■ 信繁の最期と「日本一の兵」の称号
1615年5月7日、信繁は安居神社の境内で討ち取られました。享年49(諸説あり)。妻と子を連れ、父の遺志を背負ってきた長い戦いの旅路が、ここに幕を閉じます。
その死後、敵方であったはずの薩摩・島津家の家中で残されたのが、有名な一節です。
「真田日本一の兵、いにしへよりの物語にもこれなき由」
――『薩藩旧記雑録』に残る、信繁を称える島津家中の言葉
意訳すれば「真田は日本一の兵である。これほどの戦いぶりは昔からの物語にも見当たらない」。敵側の武士でさえ、この賛辞を惜しまなかったのです。

「日本一の兵」という称号は、本人がいた豊臣方ではなく、戦場で対峙した島津家の家中から出たんだ。敵に「すごい武将だった」と認めさせるって、武士にとって最高の名誉なんだよ。信繁の約49年の生涯(生年には諸説あり)は、この一言に集約されているのかもしれないね。
真田幸村の人物像と逸話
戦場での活躍ばかりが語られる信繁ですが、実は同時代の記録には「物静かで穏やかな人物だった」と伝わる側面もあります。歯はまばらで、髪にも白いものが混じる――九度山の14年間で、まだ40代半ばだったはずの彼は、すっかり「老けた武将」に見えていたとも言われています。
そんな信繁が、なぜ最後の戦場であれほどの輝きを放ったのか。残された逸話から、その人物像をのぞいてみましょう。
■ 家康の引き抜きを断った男
大坂冬の陣の前――。家康は信繁の力量を知っていたため、東軍に寝返らせようと使者を送ります。条件は破格でした。「信濃一国(現在の長野県全域)を与える」というものです。
九度山で14年間も貧困にあえいできた信繁にとっては、夢のような申し出だったはず。けれども信繁はその提案を、きっぱりと断ります。

信濃一国だよ⁉ お父さんの上田領なんて10万石くらいだったのに、その何倍ももらえるってこと? なんで断っちゃったの、すごくもったいなくない?

普通に考えればもったいないよね。でも、信繁にとっては豊臣家への恩義のほうが大事だったんだ。秀吉に取り立ててもらった人質時代、大谷吉継の娘との結婚――豊臣に受けた恩は、土地と引き換えにできるものではなかったんだよ。「武士として、恩を返すべき相手は決まっている」――それが信繁の答えだったんだ。
■ 子・大助の最期と託された未来
信繁には、長男・大助(真田幸昌)がいました。父と一緒に大坂城で戦った大助は、当時まだ13〜14歳前後の少年です(生年に諸説あり)。
夏の陣の最終局面、信繁は出陣前に大助を呼び寄せ、「お前は秀頼様のおそばにいて、最期までお守りせよ」と命じたと伝わります。父子はそこで別れ、信繁は天王寺へ向かい、大助は大坂城に残りました。
5月8日、大坂城が落城すると、大助は秀頼とともに自害して果てます。一族の血を絶やさないため、信繁は他の幼い子どもたちを密かに城外へ逃がしていたとされ、伊達政宗に娘の阿梅(おうめ)を預けたという逸話も残されています。
信繁の娘・阿梅は伊達家家臣の片倉重長(かたくらしげなが)に保護され、のちに正室となりました。仙台真田家として、信繁の血筋は江戸時代を通じて続いたと伝えられています。「敵だったはずの仙台で、信繁の子孫が大切に守られた」――武士の世らしい不思議な後日談です。
■ 大坂五人衆――敗者たちのチーム
信繁が大坂城で組んだのは、彼ひとりだけではありません。大坂五人衆と呼ばれた仲間たちは、いずれも関ヶ原で敗れ、行き場を失った猛将ぞろいでした。

五人衆は、いってみれば「人生のリベンジマッチに集った敗者たち」。生まれ・主君・宗教もバラバラだけど、徳川の世に居場所を奪われたという共通点でつながっていたんだ。だからこそ、信繁の作戦に命を懸けて従ったんだよ。
なぜ「幸村」という名で呼ばれるのか?

ここまで読んでくれた方は、もう気付いているかもしれません。本人が「真田幸村」と名乗ったことは、史料上では一度も確認できないのです。
信繁が出した手紙、寄進状、署名――どれを見ても本人が記したのは「信繁」のみ。にもかかわらず、現代では「幸村」のほうが圧倒的に有名です。なぜでしょうか?

本名が信繁なのに、なんで400年も「幸村」のほうで呼ばれ続けているの? 教科書にも「真田幸村(信繁)」って書かれていたりするよね。

カギは江戸時代の出版文化にあるんだ。江戸の庶民は、徳川を苦しめたヒーローの物語が大好きだったんだよ。その期待に応えるため、軍記物や講談で「幸村」というカッコいい名前が使われ、それが400年かけて定着していったんだ。
「幸村」という名が文献に登場するのは、信繁の死後60年ほど経った江戸時代前期のこと。1672年(寛文12年)に成立した軍記物『難波戦記(なんばせんき)』が、その出発点とされています。
『難波戦記』は大坂の陣を題材にした娯楽性の高い読み物で、史実とフィクションが混ざり合っています。ここで信繁を「幸村」と表記したことが、その後の講談・歌舞伎・浮世絵にも引き継がれていきました。
江戸時代の庶民にとって、徳川幕府は「絶対に逆らえない権力」でした。だからこそ、家康を最も追い詰めた武将の物語は、ひそかな憧れの対象になります。
講談師たちは「真田十勇士」という架空の家臣団まで創作し、幸村を超人的なヒーローとして演じました。猿飛佐助・霧隠才蔵といった忍者キャラの活躍は、すべてこの時期に作られた創作です。
真田家の通字(とおりじ=代々受け継ぐ字)は「幸」でした。父・昌幸も「幸」の字を使い、祖父・幸隆も「幸」を持ちます。「幸」は真田家の象徴です。一方の「村」については諸説あり、徳川家ゆかりの妖刀「村正」にちなんで付けられたという俗説もありますが、根拠は不明確です。要するに、「真田っぽくて、響きがカッコいい名前」として後世に定着した、というのが正確なところです。

つまり「幸村」は、本人が名乗った名前というより後世の人が付けた愛称みたいなものなんだ。歴史学的には「信繁」が正しいけれど、「幸村」と呼びたくなる気持ちもわかるよね。それくらい、彼は江戸の庶民から愛され続けた武将だったんだ。
よくある質問
本名は真田信繁(さなだのぶしげ)です。「幸村」は江戸時代前期の軍記物『難波戦記』(1672年成立)以降に広まった通称で、本人が生前に「幸村」と名乗った史料は見つかっていません。現在も歴史学的には「信繁」が正式な名前として扱われています。
真田信繁が大坂城の南面に築いた出丸(出城)のことです。北・東・西を川や湿地に守られた大坂城は南だけが弱点で、信繁はそこに張り出すかたちで土塁の砦を築きました。1614年の大坂冬の陣では、この真田丸で徳川軍を撃退し、家康に長期戦を覚悟させたほどの戦果を挙げています。
豊臣秀吉の人質時代に取り立てられ、大谷吉継の娘との結婚など豊臣家から多くの恩を受けた経緯があったためです。信繁にとって徳川家への恩義はなく、武士としての義を貫いて豊臣方を選んだとされています。九度山流刑中に家康から信濃一国を条件に寝返りを誘われましたが、これも断ったと伝えられています。
島津家の記録『薩藩旧記雑録』に残された「真田日本一の兵、いにしへよりの物語にもこれなき由」という一節に由来します。意味は「真田は日本一の武士で、これほどの戦いぶりは昔の物語にも見当たらない」ということ。敵側の島津家の家中から出た言葉だからこそ、武士としての最高の称号として現代まで語り継がれています。
1615年(元和元年)5月7日、大坂夏の陣・天王寺口の戦いで討ち死にしました。享年49歳(諸説あり)。家康本陣に二度突入する激しい戦いののち、安居神社(やすいじんじゃ・現在の大阪市天王寺区)の境内で力尽き、徳川方の武士・西尾仁左衛門に討ち取られたと伝えられています。
長男・大助(幸昌)は大坂落城に際して秀頼とともに自害しました。一方、娘・阿梅(おうめ)は仙台藩主・伊達政宗の重臣である片倉重長に保護され、のちに正室となったと伝えられています。仙台真田家として血筋は江戸時代を通じて続き、現代にも子孫が存在するとされています。
真田幸村をもっと知りたい方へ:おすすめ本・漫画
真田幸村(信繁)についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本・漫画を紹介するよ!史実に基づいた研究書から、漫画でサクッと読める入門書まで、目的に合わせて選んでみてね。
まとめ:真田幸村(真田信繁)はどんな武将だったか

以上、真田幸村(真田信繁)のまとめでした!「勝てないとわかっていても、戦わなければならない」――そんな信繁の覚悟が、400年経った今も人の心を打つんだろうね。下の関連記事で、父・昌幸や大坂の陣の全体像もあわせて読んでみてね!
-
1567年頃真田昌幸の次男として生まれる
-
1582年武田家滅亡。真田家の生存戦略が始まる
-
1585年頃上杉景勝のもとに人質として送られる
-
1594年豊臣秀吉に仕え、大谷吉継の娘と結婚
-
1600年関ヶ原の戦い。犬伏の別れと第二次上田合戦
-
1600年12月父・昌幸とともに紀伊国・九度山に流罪
-
1611年父・真田昌幸が九度山で死去
-
1614年九度山を脱出し大坂城に入城。真田丸を築き冬の陣で徳川軍を撃退
-
1615年5月6日道明寺の戦い。後藤又兵衛らが討死
-
1615年5月7日大坂夏の陣・天王寺口で家康本陣に突撃。安居神社で討死、享年49(諸説あり)
関連記事
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「真田信繁」(2026年5月確認)
コトバンク「真田信繁」(日本大百科全書・デジタル大辞泉)
山川出版社『詳説日本史』
九度山・真田ミュージアム 公式サイト(2026年5月確認)
平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』角川選書、2015年
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。





