

今回は、戦国時代でもっとも過酷な籠城戦のひとつ「鳥取の渇え殺し」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
「鳥取城の水攻め」——そう検索した方、ちょっと待ってください。実は、鳥取城攻めで秀吉が使ったのは水ではありません。一滴の水も堤も使っていない。秀吉が仕掛けたのは、水よりはるかに残酷な作戦——兵糧攻め、別名「渇え殺し」でした。
天正9年(1581年)、わずか4ヶ月の籠城で城内は地獄絵図と化し、城将・吉川経家は自分の命と引き換えに将兵を救う決断を下します。なぜ「水攻め」と呼ばれているのか。秀吉はどんな手を打ったのか。経家は何を遺したのか——順番にひも解いていきましょう。
鳥取の「渇え殺し」とは?——実は水攻めじゃなかった
- 天正9年(1581年)、羽柴秀吉は鳥取城を兵糧攻めにした(水は使っていない)
- 事前の米買い占めで食料を断ち、農民まで城内に追い込む「渇え殺し」作戦
- 4ヶ月後、城将・吉川経家が自刃することで開城。将兵の命と引き換えにした
「鳥取城の戦い」と検索すると「水攻め」というワードが頻繁にヒットします。しかし、史実上の鳥取城攻めは兵糧攻めです。水を使った本格的な水攻めは、翌年の備中高松城で行われました。鳥取城は包囲して食料を断つ作戦であり、当時の人々は「鳥取の渇え殺し」と呼んで震え上がったといいます。
では、なぜ「水攻め」というワードが広まったのでしょうか。理由はおそらく2つあります。1つは、翌1582年に同じ秀吉が備中高松城で本物の水攻めを成功させ、両者がセットで語られるうちに混同されたこと。もう1つは、「鳥取=水攻め」と覚えてしまっている人がネット上に再生産している可能性です。
正しい呼び名は「鳥取城の戦い(第二次)」、または「鳥取の渇え殺し」。教科書にも「兵糧攻め」と書かれています。テストで聞かれるのは「兵糧攻め」のほうなので、ここはしっかり押さえておきましょう。

「水攻め」と「兵糧攻め」って、そもそもどう違うの?

「水攻め」は堤を築いて川の水を引き込み、城を水没させる作戦のこと。一方の「兵糧攻め」は、城を完全に包囲して食料が入らないようにして、城内の人を飢えさせる作戦だよ。鳥取城でやったのは後者。「兵糧攻めの中でも特に米を狙い撃ちにした派手バージョン」って覚えるとわかりやすいよ!
- 力攻め:兵を突撃させて短期決戦で落とす方法。味方の被害も大きい
- 兵糧攻め:包囲して食料を断ち、降伏を待つ方法。時間はかかるが味方の損害は最小
- 水攻め:堤を築いて川の水を引き込み、城を水没させる方法。地形と土木技術が必要
秀吉はこの3つを使い分けた稀有な武将で、特に兵糧攻め・水攻めを得意としました。
背景:秀吉はなぜ鳥取城を狙ったのか

鳥取城の戦いは、織田信長が進めていた中国攻めの一環として起きました。中国攻めとは、信長が西国の大大名・毛利輝元を倒すために展開した中国地方平定戦のこと。1577年から始まり、現場の総司令官に任命されたのが家臣・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)でした。
秀吉はまず播磨(兵庫県)から攻め込み、1580年に三木城を兵糧攻めで落とします。次の標的が因幡国(いなばのくに/鳥取県東部)。その因幡の中心にあるのが、鳥取城でした。
鳥取城は標高263mの久松山に築かれた山城で、当時から「難攻不落」と呼ばれていた堅城です。力攻めで落とそうとすれば、こちらの兵がどれだけ死ぬかわかりません。秀吉は最初から、力攻めではなく兵糧攻めを選ぶつもりでした。
■ 第一次・第二次 鳥取城の戦い
実は鳥取城の戦いは2回あります。よく語られる「渇え殺し」は第二次のほうです。
第一次は天正8年(1580年)。当時の城主は山名豊国(やまなとよくに)でした。秀吉が3ヶ月ほど包囲した結果、豊国は降伏。城は明け渡されました。ところが、城内の重臣たちは「降伏は屈辱だ」と猛反発。豊国を追い出し、毛利方に支援を要請してしまいます。
毛利方は山名氏家臣の要請に応じて新しい城将を派遣します。それが吉川経家でした。経家は天正9年(1581年)の春に鳥取城に入り、城兵と共に徹底抗戦の構え。これに対して秀吉も再び大軍を率いて出陣する——これが第二次鳥取城の戦い、すなわち「渇え殺し」の始まりです。

鳥取城って、そんなに大事な城だったの?信長はなんで遠い因幡まで攻めようとしたの?

因幡(鳥取県東部)は、毛利の本拠地・安芸(広島)に向かう山陰道のルート上にあるんだよ。今でいうと、東京から大阪に向かう新幹線の途中駅みたいな感じ。ここを押さえないと毛利の本拠地に進軍できない。だから信長としては絶対に通過点として落としたかったんだ。

秀吉の兵糧攻め作戦——「米を先に買い占めろ」

秀吉の鳥取城攻めが「前代未聞」と言われるのは、戦闘そのものではなく戦闘前の準備段階に秘密がありました。秀吉は包囲を始める前から、すでに鳥取城の食料を奪う仕掛けを動かしていたのです。
仕掛けの中心は、たった1つ。米の買い占めです。鳥取城を落とすには、城内の食料を断てばいい。だったら包囲する前に、周辺の市場から米そのものを消し去ってしまえばいい——秀吉はそう考えました。
■ 米の買い占め——今でいう経済封鎖
秀吉は商人の若狭屋(わかさや)などを使って、因幡・但馬(兵庫県北部)の市場で米を高値で買い集めさせます。普通なら売る気のなかった農民までが「これは儲かる」と次々と米を売却。集まった米は秀吉の兵糧として運び去られ、市場の棚はからっぽになりました。
鳥取城側もこの動きを察知していたはずですが、相場の数倍という高値に城方の備蓄米まで売ってしまった商人や城内関係者がいたとされています。包囲が始まる前の段階で、城周辺の食料はすでに底をつきかけていたのです。

これ、今でいうサプライチェーン攻撃に近い発想なんだよ。台風が来る前にコンビニからカップ麺が消えるよね?あれを意図的に、しかも数倍の高値で全部買い占めるってこと。鳥取城の人たちが「敵の動きを見てから米を備蓄しよう」と思った頃には、もう市場に米が残っていなかったんだ。

戦う前にまず米を押さえよ。城は人なき城、人は腹ある人。腹を空かせれば、刀を抜かずとも城は落ちるのだ。
■ 農民を城内に追い込む——「口を増やして消費させる」
米買い占めだけでは、まだ秀吉の作戦は半分しか終わっていません。次にやったのは農民を城内に追い込むという、これまた残酷な手口でした。
1581年7月、秀吉は約2万の軍勢で鳥取城周辺を包囲し始めます。そして近隣の村々を焼き討ちし、住民を城のほうへと追い立てたのです。逃げ場を失った農民は、安全を求めて鳥取城に駆け込みます。城将の経家としては、目の前で逃げ込んでくる老人や女性、子どもを追い返すわけにもいかない。受け入れざるを得ませんでした。
こうして城内の人口が一気に膨れ上がります。城に備蓄されていた食料は、本来なら城兵だけで籠城する想定で計算されていたもの。そこに非戦闘員が大量に入り込んだことで、消費スピードは倍以上に跳ね上がりました。秀吉の狙いは、まさにそこにあったのです。

農民を追い込むって……ちょっと残酷すぎませんか?秀吉ってもっと人情味のある人物のイメージだったのに。

これが戦国時代の現実なんだよね。秀吉は「味方の兵を1人も死なせず、最短で城を落とす」ことを最優先にしたんだ。力攻めなら何千人も死ぬところを、兵糧攻めなら自軍はほぼ無傷。残酷ではあるけど、戦のプロとしては合理的な判断だったとも言えるよ。
■ 包囲陣の構築——城を取り囲む「もう一つの城」
包囲の決定打となったのが、秀吉が築いた陣城です。陣城とは、敵城を取り囲むようにして築く臨時の砦のこと。秀吉は鳥取城の周囲に太閤ヶ平(たいこうがなる)など複数の陣城を築き、互いを土塁と柵で連結させました。
こうしてできあがったのは、鳥取城という一つの城を、ぐるりと囲む「もう一つの城壁」。物資の搬入はおろか、城内からの脱出も、外部との連絡も完全に遮断されました。海上からの補給を試みた毛利方の動きも、秀吉軍に発見されて阻止されています。
城内の惨状——4ヶ月で「地獄絵図」に
1581年7月の包囲開始から、城が落ちる10月25日まで、およそ4ヶ月。短いように感じるかもしれませんが、毛利方からの援軍は来ず、城内には事前の米買い占めで備蓄が乏しく、農民が大量に流れ込んで人口が膨れ上がっている——この条件下で、城内はあっという間に飢餓地獄へと転落していきます。
■ 1ヶ月目:備蓄が底をつく
包囲開始から1ヶ月もすると、城内の備蓄米はほぼ底をつきました。馬や牛が食べられ、犬や猫まで食料に変わりました。それでも足りず、城内の樹木の皮や草の根、雑草を煮て食べる状況へ。木の皮はそのままでは硬すぎるので、煮出して柔らかくし、何日もかけて噛みしめたといいます。
■ 2〜3ヶ月目:餓死者が積み上がる
2ヶ月目を過ぎると、餓死者が連日のように出始めます。城内のあちこちに死体が転がり、生きている者も骨と皮ばかりに痩せ細っていく。痩せ衰えた人々は、もはや立ち上がる気力もなく、城の通路や塀のそばに座り込んだまま動けなくなりました。
当時の様子を伝える記録には、「骨と皮ばかりの者が、ただただ呻く声だけが聞こえた」と残されています。中には城外へ脱出を試みる者もいましたが、秀吉の包囲網は厳重で、脱走者は容赦なく射殺されるか捕らえられました。
■ 「人肉食」の記録——史料の信頼性
鳥取城の籠城戦を語るとき、必ず触れられるのが「人肉食」の記録です。江戸時代に書かれた『太閤記』などには、餓死者の遺体に城内の者がすがりつき、肉を奪い合ったという凄惨な描写が残されています。

……それは本当の話なんですか?さすがに脚色じゃ……

『太閤記』は江戸時代に書かれた読み物で、後世の脚色も含まれているから、すべてをそのまま史実とは言えないんだ。ただ、当時の他の籠城戦の記録を見ても、極限の飢餓状態で同様の出来事が起きた事例は確かにあるんだよね。少なくとも「それが起きてもおかしくないほどの惨状だった」ことは、複数の史料から伝わっているよ。
■ 降伏後の大量死——「リフィーディング」の悲劇
あまり知られていませんが、鳥取城の悲劇は降伏後にも続きました。10月25日に開城した際、秀吉は約束通り将兵に食料を与えます。ところが、極限まで飢えていた城兵たちが急に食事をとった結果、多くの者が次々と死んでいったのです。
これは現代医学でいう再栄養症候群(リフィーディング症候群)と類似した現象とされます。長期飢餓状態の体に急に栄養を入れると、電解質バランスが崩れて心臓や臓器に致命的な負担がかかる、という現象です。
つまり、籠城中の餓死者と同じくらい、いやそれ以上の人数が、降伏後の食事再開で命を落とした可能性があります。籠城戦を生き延びたと安心した直後に、その喜びの食事で逆に死んでしまう——これが「鳥取の渇え殺し」のもう一つの悲劇でした。
吉川経家の決断——「首桶を持参して乗り込んだ覚悟の男」

鳥取城を語る上で外せない人物が、城将・吉川経家です。経家はもともと毛利方に従属していた石見吉川氏の当主で、石見国(島根県西部)の福光城主でした。鳥取城が再び抗戦の構えを見せた天正9年(1581年)、毛利方の城番(守備将)として派遣されたのが彼でした。
経家が鳥取城に入城した時のエピソードは、戦国武将の中でも特に語り継がれる場面です。彼は出陣にあたって、自分の首を入れるための首桶を持参したと伝えられています。「俺はもう生きて帰る気はない。この城で死ぬ覚悟だ」——そういう意思表示でした。

この首桶は、わが首を納めるためのもの。生きて石見へ戻ることはあるまい。鳥取の城兵と共に、ここで果てる覚悟である。
■ 経家の降伏交渉と自刃
10月、鳥取城の秋は静かでした。
山門も板戸も、薪代わりにすでに燃やし尽くされています。4ヶ月前まで城兵が立っていた石垣に、もう誰もいない。城内のどこかで飢えた声さえ上がらなくなっていました——生き残った兵たちは、もはや声を出す力もなかったのです。
経家は使者を立てました。秀吉陣への降伏交渉です。秀吉が示した条件は簡潔でした。「城将・吉川経家の切腹」。それだけでよい、と。
経家は応じます。しかし、ひとつだけ——条件を付けます。

城兵と農民の命だけは、助けてくれ。それだけでいい。この首は、惜しまぬ。
本来であれば、毛利から派遣された城番として、経家は城が落ちても生き残れば毛利の元へ戻れる立場でした。ところが彼は、4ヶ月をともに飢え苦しんだ兵たちを見捨てることができなかった。「将兵・農民の助命」と引き換えに、自ら命を差し出す——敵陣へそう申し出たのです。
交渉は成立しました。
1581年10月25日、秋の朝——
吉川経家は鳥取城内に静かに正座し、腹を切りました。享年35歳。
城兵と農民たちが山を下りてきたのは、それからしばらく後のことです。秀吉の兵は約束通り、彼らの命に手を出しませんでした。
■ 辞世の句と秀吉が「男泣き」したエピソード
経家は切腹に先立ち、一首の歌を詠みました。静かな夜に筆をとり、紙に残した最後の言葉です。
武士の 取り伝へたる 梓弓
かへるやもとの 棲家なるらん
「武士の家に代々伝わる梓弓(=武士としての自分)が、元の住処(冥土)へ帰っていく」——死を静かに受け入れた歌です。恨みも悔いも、一切ない。刀を持って生まれた者として、持ち場を全うして帰る。ただそれだけのことだ、と。

「梓弓」は和歌の伝統では武士の象徴として使われる言葉。「武士として生まれ、武士として死ぬ」をこれだけ自然に詠んでいる。地獄のような4ヶ月を経験して、それでもこれだけ澄んだ句を詠める——経家の器の大きさが伝わってくるよね。武具の比喩で自分の死を静かに肯定する、死の直前の歌とは思えない清澄さがある。
経家の死を聞いた秀吉は——泣いた、と伝えられています。
敵将の切腹に際して、秀吉は男泣きしたとされます。攻め滅ぼした側の将でありながら、その死を心から惜しんだ秀吉。部下を救うために自ら命を差し出した経家の覚悟が、それほどまでに彼の胸を打ったのでしょう。経家の遺骸は鳥取の地で丁重に葬られ、後に首級だけが故郷・石見へ届けられたといいます。敵将にも礼を尽くす——これが秀吉という人間の、もうひとつの顔でもありました。
切腹の前夜、経家は妻と子どもたちへ遺書を認めたとされます。
子へは——「父は武士の道を全うする。お前たちは健やかに育ち、母に孝行せよ」と。
妻へは——「今生でのつとめは果たした。先に逝く非礼を許してほしい」と。
文字にすれば短い。しかしこの言葉が届いた時、石見の家族はまだ——夫が、父が鳥取城で戦っていると、思っていたはずです。
戦国武将の死は、いつも誰かの「知らせ」の向こうにある。
秀吉の「三大城攻め」を比較——三木・鳥取・備中高松
秀吉の中国攻めには、後世「秀吉の三大城攻め」と呼ばれる代表的な攻城戦が3つあります。それが、三木城・鳥取城・備中高松城の3つの戦いです。いずれも力攻めではなく、敵を兵糧で追い詰めたり、地形を利用して水没させたりと、頭脳戦で城を落とした名采配として知られています。
3つの戦いはどれも、城兵をなるべく殺さず、味方の損害も最小限に抑えることを目的としていました。ただし手法は地形と状況によってまったく違うのがポイントです。表で並べてみましょう。
| 城攻め | 手法 | 年 | 城将・結末 |
|---|---|---|---|
| 三木城 (干殺し) | 兵糧絶ち+包囲 | 1578〜1580年 | 別所長治が一族の自刃と引き換えに将兵を救う |
| 鳥取城 (渇え殺し) | 米買い占め+包囲+農民追い込み | 1581年 | 吉川経家が自刃。将兵・農民の助命を勝ち取る |
| 備中高松城 (水攻め) | 堤防を築き川の水で水没させる | 1582年 | 城将・清水宗治が自刃。本能寺の変で和議成立 |
■ なぜ秀吉は手法を使い分けたのか
3つの戦いを並べてみると、秀吉は城ごとに環境を見極めて、最も効果的な手法を選んでいたことがわかります。三木城は山城で力攻めしにくいから、ぐるりと包囲して兵糧を絶つ。鳥取城も山城ですが、近くに大きな商業流通があったため、開戦前から市場ごと押さえて飢えさせる。備中高松城は周囲が湿地で、足守川という大きな川が近くを流れていたため、堤を築けば水で沈められる——という具合です。

えっ、じゃあ秀吉ってめっちゃ頭いい武将ってこと?力でゴリ押しするタイプじゃないの?

そうそう、秀吉は「戦わずに勝つ」のがめちゃくちゃ得意な武将だったんだ。力攻めだと味方も大量に死ぬから、できるだけ知恵で落としたい。今でいうと、正面衝突せずにサプライチェーン(物流)を断って相手を干上がらせる経営戦略みたいなイメージ。鳥取・三木・高松の3連戦は、その完成形なんだよね。
もし経家が最後まで降伏を拒み続けていたら、城内の餓死者はさらに膨らみ、将兵・農民を含めた数千人が全滅していた可能性があります。一方で、秀吉が次に向かう備中高松城への進軍も大幅に遅れ、翌1582年6月の本能寺の変のタイミングで秀吉が中国大返しに動けたかどうかも怪しくなります。
つまり経家の降伏は、結果的に「秀吉が天下を取るシナリオ」を成立させた一因とも言えます。経家自身はそんなことを意図していなかったでしょうが、武将一人の決断が後の歴史を大きく動かす——戦国の怖さと面白さがここにあります。
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よくある質問(FAQ)
A. 実際には水を使った水攻めではなく、兵糧攻め(渇え殺し)です。秀吉は事前に米を買い占め、農民を城内に追い込んで食料を断ちました。本物の「水攻め」は翌年の備中高松城の戦いで行われたもので、両者を混同しないよう注意が必要です。
A. 毛利方に従属していた石見吉川氏の当主で、石見国(島根県西部)の福光城主だった戦国武将です。1581年に毛利方からの援軍として鳥取城に入城。死を覚悟して自分の首を入れる首桶を持参したと伝わります。城が限界を迎えると、将兵と農民の命を救う条件で自ら切腹し、35歳で生涯を閉じました。
A. 複数の史料に、秀吉が因幡・但馬の市場から相場の数倍の高値で米を買い占め、城内に米が回らないようにしたという記録が残っています。詳しい量や買い占めの正確な時期は史料ごとに差があり、一部に脚色も含まれる可能性がありますが、「戦う前に経済的に城を干上がらせる」という戦略を実行していたことは事実とされています。
A. 一般に「鳥取城の戦い」と呼ばれるのは、1581年(天正9年)の第二次鳥取城の戦いです。同年7月頃に秀吉が包囲を本格化させ、10月25日に城将・吉川経家の自刃で開城。およそ4ヶ月の籠城戦でした。なお1580年には第一次の戦いがあり、こちらは前城主・山名豊国の開城で短期に終わっています。
A. 秀吉の中国攻めで行われた代表的な3つの攻城戦のことです。三木城(干殺し・1578〜1580年)、鳥取城(渇え殺し・1581年)、備中高松城(水攻め・1582年)の3つを指します。いずれも力攻めではなく、兵糧や水を使って敵を追い詰める頭脳的な攻城戦でした。
A. 史料によって幅がありますが、籠城中の餓死者は数百〜千人以上とされ、農民を含めた城内の人口は当時2,000〜4,000人前後と推定されています。また降伏後に食事を再開して亡くなった人も多数おり、籠城中の餓死者と同じくらい、あるいはそれ以上の死者が出た可能性があります。正確な数字は現在も確定していません。
A. 鳥取城は鳥取県鳥取市の久松山にあり、現在は国の史跡として石垣や曲輪の跡が残されています。建物そのものは明治以降に取り壊されていますが、秀吉が築いた包囲陣の跡である「太閤ヶ平(たいこうがなる)」も国指定史跡として保存されており、両者を結ぶ登山道は「籠城戦の戦跡」として歩ける場所になっています。
まとめ:鳥取の「渇え殺し」——兵糧攻めが生んだ悲劇と経家の覚悟
- 1580年第一次鳥取城の戦い:山名豊国が秀吉に降り、城を開城
- 1581年春吉川経家、城将として鳥取城に入城(首桶を持参)
- 1581年春秀吉、因幡・但馬で米を大量に買い占める
- 1581年7月第二次鳥取城の戦い開始:秀吉が太閤ヶ平など包囲陣を構築
- 1581年夏農民が城内に追い込まれ、食料消費が一気に加速
- 1581年秋餓死者が続出。城内は「地獄絵図」と化す
- 1581年10月25日吉川経家、自刃。将兵の助命と引き換えに城を開城
- 1582年翌年、秀吉は備中高松城を「水攻め」(本物の水攻め)

以上、鳥取の「渇え殺し」のまとめでした!「水攻め」という呼び方は誤解だけど、実際の戦いは水攻め以上に残酷だった——そんな歴史の重みを感じてもらえたら嬉しいよ。下の記事で秀吉の中国攻めや三木城の戦い、そしてその後の中国大返しも合わせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年4月
Wikipedia日本語版「鳥取城の戦い」「吉川経家」「太閤ヶ平」「三木合戦」「備中高松城の戦い」(2026年4月確認)
コトバンク「吉川経家」「鳥取城」「太閤ヶ平」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
鳥取市観光サイト「史跡鳥取城跡附太閤ヶ平」(2026年4月確認)
鳥取県公式サイト「鳥取城の歴史」(2026年4月確認)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。





