三木合戦とは?三木の干殺しと別所長治の最期をわかりやすく解説

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三木城

もぐたろう
もぐたろう

今回は「三木合戦」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!戦国一壮絶な兵糧攻めって言われている「三木の干殺し」と、わずか23歳で散った城主・別所長治の物語をたっぷり紹介していくね。

📚 この記事のレベル:高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
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この記事を読んでわかること
  • 三木合戦とはどんな戦いか(1578〜1580)
  • 「三木の干殺し」の意味と兵糧攻めの実態
  • 別所長治が離反した理由と最期(辞世の句)
  • 竹中半兵衛の陣中死という悲劇
  • 秀吉の「情の人」と「冷酷な軍略家」の二面性

実は、豊臣秀吉の天下取りで「最も時間がかかった戦い」のひとつが、この三木合戦です。

派手な合戦の連続というイメージとは裏腹に、秀吉が播磨制圧のために選んだのは「ほとんど戦わずに、相手を2年間かけて飢え死にさせる」という壮絶な策略でした。

城内で起きていたのは、餓死者の山と人肉まで噂された地獄絵図。そして籠城戦の終わりに残されたのは、23歳の若き城主・別所長治が城兵を救うために自ら命を差し出した、あまりにも切ない結末でした。



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三木合戦とは?

3行でわかる三木合戦
  • 1578〜1580年、羽柴秀吉 vs 別所長治の籠城戦(播磨・三木城)
  • 別名「三木の干殺し」——城兵を食料断絶で追い詰めた凄惨な兵糧攻め
  • 別所長治は一族切腹を条件に城兵の助命を勝ち取り、23歳で生涯を閉じた(諸説あり)

三木合戦みきがっせんは、織田信長の命を受けた羽柴秀吉はしばひでよし(のちの豊臣秀吉)が、播磨はりま国(兵庫県南部)の三木城みきじょうに立てこもった別所長治を約2年がかりで攻め落とした戦いです。

戦いの期間は天正6年(1578年)3月から天正8年(1580年)1月まで。なんと2年弱という、戦国時代でも屈指の長期籠城戦になりました。

秀吉が選んだのは、刀と槍で城門を破る正面攻撃ではありませんでした。三木城の周りに40以上の付城つけじろ(包囲用の小さな砦)を築き、城への補給路を完全に遮断する——いわゆる「兵糧攻め」だったのです。

三木城の包囲図と秀吉の付城配置
出典:Wikimedia Commons「羽柴秀吉軍三木城包囲図」雲龍寺所蔵(パブリックドメイン)

ゆうき
ゆうき

そもそも秀吉って、なんで播磨まで来てたの?京都とか大坂のイメージしかないんだけど…。

もぐたろう
もぐたろう

いいところに気づいたね!この時期の信長は、西の大大名・毛利氏を倒すために中国地方への進出を狙っていたんだよ。秀吉はその先鋒(さきがけ)役。播磨は中国地方の入口にあたる超重要エリアだったんだ。

つまり三木合戦は、織田信長による「中国攻め」の最初の山場でした。秀吉が播磨を完全に押さえないと、その先の毛利攻めも進められないからです。

そして三木城は、播磨のほぼ中央にそびえる要衝。ここを敵に明け渡したまま西へ進むことは、軍事的にも政治的にもありえない選択だったのです。

三木城の位置を示す令制国区分マップ(播磨国を強調)
三木城は播磨国(現・兵庫県三木市)に位置する。令制国境界: ArcGIS Hub(CC BY 4.0)



別所長治の離反——加古川会談の決裂

三木合戦の発端は、播磨の名門・別所長治の突然の離反でした。それまで織田方として秀吉に協力していた長治が、なぜ手のひらを返したのか——。きっかけは、ある一回の軍議だったと言われています。

■ 加古川会談と決裂のきっかけ

天正6年(1578年)2月、秀吉は播磨の有力国人衆を集めて加古川会談かこがわかいだんと呼ばれる軍議を開きました。中国攻めの作戦を練るための重要な会議です。

このとき別所家を代表して出席したのが、長治の叔父・別所吉親(よしちか)でした。吉親は名門意識が強く、秀吉に対しても堂々と作戦案を主張したと伝わります。

ところが秀吉側は、この提案を冷たくあしらったとされています。当時の秀吉はまだ「成り上がりの新参者」。代々続く播磨の名門・別所家からすれば、自分たちを軽んじる態度はとうてい我慢できるものではありませんでした。

さらに別所家は、信長の力ずくの統治方針に強い不安を抱いていたとも言われています。「織田に従うのか、毛利と組むのか」——その選択が、別所家の命運を分ける岐路になっていたのです。

別所長治って、どんな人?

別所長治は、播磨・三木城を本拠とした戦国大名・別所氏の当主。1558年生まれで、三木合戦の開始時はまだ20歳前後の青年武将でした。父・別所安治の死去により若くして家督を継ぎ、家中の意向と織田・毛利の間で苦悩しながら判断を下した人物です。

■ 荒木村重の謀反・黒田官兵衛の幽閉との絡み

別所長治の離反だけなら、秀吉は短期決戦で押し切れたかもしれません。けれども事態を一気に深刻化させたのが、同じ年の10月に起きた荒木村重あらきむらしげの謀反でした。

村重は、信長から摂津(大阪府北部・兵庫県東部)一帯を任されていた重臣中の重臣。その彼が織田を裏切って有岡城ありおかじょうに立てこもったことで、織田方は「東は摂津、西は播磨」と挟み撃ちの危機に陥ってしまったのです。

このとき村重を翻意させようと有岡城に乗り込んだのが、秀吉の参謀・黒田官兵衛でした。官兵衛は主君・小寺政職とともに織田方に付いていた人物です。ところが説得は失敗し、官兵衛はそのまま捕らえられ、約1年間も土牢に幽閉される悲劇に見舞われます。

あゆみ
あゆみ

長治からすれば「自分一人じゃない、村重も毛利もいる」って心強くなったってこと?

もぐたろう
もぐたろう

そう、当初はね。「毛利が西から、村重が東から助けに来てくれれば、織田なんて潰せる」って計算だったんだ。でも実際にはこの援軍構想が全て崩れていくのが、長治の悲劇のはじまりだったんだよ。

別所長治の肖像
別所長治の肖像(出典:Wikimedia Commons / パブリックドメイン)



兵糧攻めの展開——付城40以上の包囲網

長治の離反を知った秀吉は、すぐに三木城を取り囲みました。ところが正面攻撃で力押しすることはせず、城のまわりに次々と「付城」を築き始めたのです。

その数、最終的には40以上。三木城の周囲を、一つの連なる包囲網がぐるりと取り囲んでいきました。

三木城は標高約180mの洪積台地(上の丸)に築かれた山城です。急峻な崖と深い堀が自然の防壁となり、正面からの攻城戦では多大な犠牲が予想されました。秀吉が「干殺し」という兵糧攻めを選んだ背景には、正攻法での落城が極めて困難だという判断があったのです。

■ 付城(陣城)とは何か?

付城つけじろとは、敵の城を攻めるときにその近くに築く小さな砦(とりで)のこと。攻撃側が交代で休む拠点であり、敵の出入りを監視する見張り台でもあります。

三木城の場合、特に重視されたのが「補給路の遮断」でした。三木城は毛利軍が海から食料を運び込めるルートを持っていたため、秀吉はそのルートを断つために付城を海路まで広げていったのです。

こうして三木城は、ジワジワと「外界から完全に切り離された孤島」へと変えられていきました。

■ 竹中半兵衛と「戦わずして勝つ」哲学

この兵糧攻めの戦略を秀吉とともに練り上げたのが、もう一人の名軍師・竹中半兵衛でした。

半兵衛は若い頃から「戦わずして勝つ」ことを理想としていた人物です。中国の兵法書『孫子』の影響を受けたと言われ、相手の心を折って戦意を失わせる戦い方を得意としていました。

三木城を「干す」という非情な選択は、半兵衛の哲学そのものでもあったのです。

竹中半兵衛
竹中半兵衛

城を落とすのに、戦は要らぬ。腹が減れば、人は刀よりも先に米俵を欲しがる——。これこそ、味方の血を一滴も流さずに勝つ道。

竹中半兵衛(重治)の肖像
竹中半兵衛(重治)の肖像(出典:Wikimedia Commons / パブリックドメイン)



三木の干殺し——飢餓2年間の凄惨な籠城

包囲が完成すると、三木城内の食料はみるみる減っていきました。籠城していた人数は約7,500人。城兵だけでなく、領内の百姓や女子供までもが城に避難していたと言われています。

2年間にわたり外との出入りを断たれた人々が、何を口にし、どう倒れていったのか——それが「三木の干殺し」と呼ばれる戦国屈指の悲劇でした。

■「干殺し」の意味と城内の悲劇

三木の干殺しみきのひごろし——この呼び名は、「干す(食料を断つ)ことで殺す」という、文字どおりの意味です。

包囲開始から半年もすると、城内の備蓄米は底をつきました。城兵はまず牛馬を食べ、次に犬や猫、果ては草の根や木の皮までも口にしたと伝わります。

記録によれば、最終局面では人肉食まで噂されるほど追い詰められたといいます。栄養失調と感染症で次々と人が倒れ、城内には死臭が充満していたとも記されました。

📝 「干殺し」という言葉は、後世の三木合戦を語るときに広まった表現です。当時の文書には「三木の渇え殺し(うえごろし)」という記述も見られます。どちらも、食料を絶たれて命を落とす凄惨さを伝える言葉です。

■ 竹中半兵衛の陣中死(天正7年・1579年)

そして三木城が苦しんでいたまさにその真っ最中、秀吉軍にも大きな喪失が訪れます。

天正7年(1579年)6月13日——三木城の包囲拠点である平井山ひらいやまの本陣で、竹中半兵衛が病没しました。享年36歳。死因は肺の病(結核とも肺炎とも言われていますが、詳細は不明です)だったと言われています。

半兵衛はもともと病弱で、京都での療養を勧められていました。しかし「武士の死に場所は陣中にあり」と本人が固辞し、最後の戦場を三木に選んだとされています。

もぐたろう
もぐたろう

「敵を殺さずに勝つ」って言ってた半兵衛が、敵の城を干している陣中で自分が先に倒れちゃうって……なんとも切ないよね。秀吉が涙を流したっていう逸話も残っているくらい、彼の死は織田軍にとっても大きな喪失だったんだ。

ゆうき
ゆうき

ねえ、なんで秀吉は2年も待ち続けたの?2年って長くない?普通にイライラしそう。

もぐたろう
もぐたろう

正面攻撃したら、味方の侍がたくさん死んじゃうからなんだよ。秀吉は「自分の兵を一人でも多く生き残らせる」ことを最優先に考える指揮官だったんだ。だから時間がかかっても、味方の血を流さずに城を落とす道を選んだんだね。

三木城の堀跡
現在の三木城跡に残る堀の跡(撮影:管理者)



別所長治の最期——辞世の句と城兵の助命

天正8年(1580年)1月17日、夜明け前の三木城。風はやみ、城内には咳ひとつ立たない静けさが満ちていました。城門の内側で身を寄せ合う城兵たちは、もはや立ち上がる力すら残っていません。木の根を噛み、藁を煮詰めた汁で命をつないだ2年——飢餓は人間からあらゆるものを奪い去っていました。

本丸の一室で、別所長治べっしょながはるはじっと目を閉じていました。23歳。元服してまもない若き城主の前には、もはや選ぶべき道はひとつしか残されていなかったのです。

——自分が腹を切れば、城兵が救われる。

長治は静かに筆を取りました。秀吉に宛てた降伏の使者へ託す書状。条件はただひとつ——「自分と一族の命と引き換えに、城に残る者すべての助命を願う」。それは、城主としての誇りを捨て、ただ「人を生かすため」に差し出された命でした。

■ 辞世の句「今はただ 恨みもあらじ…」の深読み

降伏の朝、長治は最後の筆を執りました。生まれ落ちてから23年、すべての時間を凝縮した一首——のちに戦国史に残る辞世の句です。

「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命にかわる 我が身と思えば」
——別所長治

意味は——「今となっては、もはや恨みなど何ひとつ残っていない。多くの人々の命に代わる、この我が身だと思えば」

2年もの間、城のなかで仲間が次々に飢え死にしていく地獄を見てきた若者の言葉とは思えません。本来なら、信長への憎しみも、秀吉への怒りも、毛利の援軍を断ち切られた無念も、煮えくり返るほどあったはずです。それらすべてを呑み込み、「諸人の 命にかわる」——多くの人々の身代わりになる、と詠んだ。

ここには、自分の死を「敗北」ではなく「贈り物」として差し出すという、強烈な覚悟があります。23歳で達した境地としては、あまりに重い。

別所長治
別所長治

城のなかで腹を空かせて死んでいった者たちのことを思えば、もはや恨みなど抱きようもない。我が一命で皆が救われるなら、これに勝る勲(いさお)はない——。

■ 一族そろっての自刃——妻・照子と弟・友之

別所長治の覚悟は、自分ひとりにとどまりませんでした。本丸の同じ一室で、妻の照子てるこ、弟の友之ともゆきもまた、長治と運命をともにしたのです。

長治は3歳の我が子を膝の上で涙ながらに刺し殺し、続いて伝承では「照子」と呼ばれる妻を引き寄せてその命を絶ちました。播磨の名門・小寺こでら家の血を引くとも伝わる妻は、籠城の2年間、城内の人々の世話に奔走し、「城主の妻」としての務めを最後まで貫いたとされています。

弟・友之もまた、迷うことなく自ら腹を切って果てました。長治自身も切腹し、家臣の三宅治忠みやけはるただが介錯を務めました。叔父の吉親よしちかも加わり、別所家の主だった者たちはすべてこの本丸の一室で命を絶ったのです。誰ひとり、城兵に「身代わり」を強いることはありませんでした。

この場面は織田方の一次史料『信長公記』巻13に記されています。ただし妻の名「照子」は同史料には記載がなく、後世の文書に由来する伝承です。また弟・友之の死については、長治が介錯したとする説もありますが、『信長公記』では友之が自ら切腹したと記されています。

ゆうき
ゆうき

23歳で自分から死を選ぶって、現代の感覚だとちょっと信じられない…。長治って、本当にそこまで覚悟が決まってたのかな?

もぐたろう
もぐたろう

うん、現代の感覚だと「逃げればよかったのに」って思うよね。でも戦国時代の城主にとって「家臣・領民の命を守る」ことは、自分の命より重い義務だったんだ。長治は2年間、城のなかで人が次々に死んでいくのを毎日見てきた。最後に「これ以上、誰も死なせない」って自分の命で線を引いた——それが武士の責任の取り方だったんだよ。

■ 城兵7,500人の助命と「秀吉の涙」

別所一族の死をもって、約束は果たされました。秀吉は降伏の条件を守り、城内に残されていたおよそ7,500人ともいわれる城兵・領民に手をかけることはなかったといいます。骨と皮だけになった彼らは、城門を出た先で握り飯を渡され、ようやく「明日」を取り戻したのです。

後世の軍記物には、ある一場面が描かれています——長治の辞世の句を耳にした羽柴秀吉はしばひでよしは、馬上で目を伏せ、ぽろぽろと涙をこぼしたといいます。「あっぱれな最期である」と、敵将を讃えたとも伝わります。

けれど忘れてはなりません。その秀吉こそ、2年もの間、城を兵糧で締め上げ、女子どもを含む数千人を飢え死にさせた当の張本人だということを。「情の人」と「冷酷な戦略家」——三木合戦は、のちの天下人の二つの顔を、もっとも生々しく刻みつけた戦いでもあったのです。

【史実と伝説】「秀吉が涙を流した」というエピソードは、江戸時代以降に成立した軍記物(『播州太平記』など)に伝わる後世の脚色です。当時の一次史料には記録がありません。一方、長治の自刃と城兵の助命は史実として確認されています。辞世の句についても、長治本人作と断定する一次史料はなく、後世に整えられた可能性も指摘されていますが、地元三木では今も「長治公の辞世」として大切に語り継がれています。

あゆみ
あゆみ

秀吉って明るい「人たらし」のイメージしかなかったんだけど…こうやって見ると、本当に冷たい一面もあったのね。怖い。

もぐたろう
もぐたろう

うん、これがリアルな秀吉。優しいだけじゃ天下なんて取れない。三木合戦のあと、秀吉は鳥取城の干殺し・備中高松城の水攻めと、次々に「戦わずに勝つ」戦法を磨き上げていく。三木合戦は、その出発点になった戦いだったんだよ。長治の死は、ただの一城主の死じゃなくて、戦国の戦い方そのものを変えた「分岐点」でもあったんだ。

別所長治の首塚
三木市内に残る別所長治の首塚(撮影:管理者)

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三木城とゆかりの地を訪ねる

三木合戦の舞台となった三木城みきじょう跡は、現在の兵庫県三木市上の丸町にあります。城そのものは江戸時代に廃城となり建物は残っていませんが、本丸跡には別所長治の像が立ち、城兵と長治の悲劇を今に伝えています。

三木合戦ゆかりの地マップ(三木城跡・雲龍寺・秀吉本陣跡・竹中半兵衛の墓)
① 三木城跡(上の丸公園) ② 雲龍寺(長治公首塚) ③ 秀吉本陣跡(平井山) ④ 竹中半兵衛の墓 / © OpenStreetMap contributors

近隣には、秀吉が本陣を置いた平井山ひらいやま本陣跡や、竹中半兵衛が眠るとされる平井山ノ上ひらいやまのうえの墓所も残っています。徒歩・車で巡れる範囲に主要な史跡が集まっているため、半日もあれば三木合戦の全体像をたどることができます。

■ 訪ねておきたい主な史跡

  • 三木城跡(上の丸公園):本丸跡に別所長治公像が立つ。三木市内の中心部。
  • 雲龍寺(別所長治・照子の首塚):長治と妻・照子の首が葬られたと伝わる寺。
  • 平井山ノ上 秀吉本陣跡:三木城を見下ろす丘陵に築かれた秀吉軍の本陣。
  • 竹中半兵衛の墓(平井山):陣中で没した半兵衛が眠るとされる場所。

🚃 アクセス:神戸電鉄粟生線「三木上の丸駅」から三木城跡まで徒歩約5分。新神戸駅・大阪駅からはバス・電車で1時間〜1時間半ほど。三木市観光協会公式サイトに「三木合戦ゆかりの地マップ」が公開されているので、訪問前にチェックすると効率よく回れます。

もぐたろう
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毎年4月17日(旧暦1月17日にあたる日)には、三木市で「別所公春まつり」が開かれていて、武者行列も行われるんだ。長治の命日に合わせた地元の供養と祭りが今も続いていて、三木の人たちが「自分たちの城主」として長治を大切にしているのが伝わってくるよ。



よくある質問(FAQ)

三木合戦とは、1578年(天正6)から1580年(天正8)にかけて、織田方の羽柴秀吉が播磨国・三木城の別所長治を約2年間にわたり兵糧攻めで陥落させた戦いです。別名「三木の干殺し」と呼ばれ、秀吉の中国攻めを大きく前進させた戦いとして知られています。

秀吉軍が三木城の周囲に40以上の付城(陣城)を築いて補給路をすべて遮断し、城内の食料を「干上がらせて」城兵を飢え死にに追い込んだことから、三木の干殺しと呼ばれます。約2年間にわたる籠城で、城内では牛馬や草の根まで食べ尽くされたと伝わっています。

1578年の加古川会談で、秀吉と別所方の意見が対立したことが直接のきっかけとされます。一族内には毛利氏寄りの勢力も強く、織田の急速な勢力拡大に対する播磨の国人衆の反発、そして毛利氏からの誘いも重なって、長治は織田方を離れて毛利方に立つ決断を下しました。

竹中半兵衛(重治)は、美濃出身の戦国軍師で、黒田官兵衛と並んで「両兵衛」と呼ばれる秀吉の二大参謀の一人です。20歳で稲葉山城を一夜で乗っ取った逸話で知られ、「戦わずして勝つ」を信条としました。三木合戦の最中、平井山の陣中で病没。享年36歳とされています。

三木合戦は、天正8年1月17日(西暦1580年2月2日)に終結しました。別所長治が城兵の助命を条件に妻・弟・叔父らとともに自刃し、三木城は開城。秀吉はこの勝利によって播磨をほぼ制圧し、本格的な中国攻めへと進んでいきました。

「兵糧攻め」は敵の城に物資が届かないよう包囲して食料を断つ戦術全般の名前で、「三木の干殺し」はその兵糧攻めのうち、特に三木城で行われた約2年間の長期包囲を指す固有の呼び名です。つまり、三木の干殺しは三木合戦における兵糧攻めの具体的な実例にあたります。

黒田官兵衛は秀吉の参謀として三木合戦の包囲戦を支えた人物の一人です。三木合戦のさなか、摂津の荒木村重が織田方を離反すると、官兵衛は説得のため有岡城に乗り込みますが、そのまま約1年間にわたって幽閉される事件が起こりました。三木合戦と荒木村重の謀反は、同時並行で起きた事件として深く絡み合っています。



まとめ

三木合戦のポイントまとめ
  • 三木合戦は1578〜1580年、羽柴秀吉が別所長治を兵糧攻めで降した約2年間の籠城戦
  • 40以上の付城で補給路を断つ「三木の干殺し」は、戦国屈指の凄惨な籠城劇として知られる
  • 陣中では竹中半兵衛が病没。秀吉は名軍師を失いながらも包囲を続けた
  • 別所長治は23歳で自刃(諸説あり)。一族切腹の引き換えに城兵約7,500人の命を救った
  • 三木合戦は秀吉の「戦わずに勝つ」戦法の起点。鳥取の渇え殺し・備中高松の水攻めへとつながる

三木合戦の年表
  • 1578年(天正6)2月
    加古川会談で秀吉と別所方が決裂
  • 1578年(天正6)3月
    別所長治が織田方を離反——三木合戦の開戦
  • 1578年(天正6)10月
    荒木村重が離反、黒田官兵衛が有岡城で幽閉される
  • 1579年(天正7)6月
    竹中半兵衛、平井山の陣中で病没(享年36歳)
  • 1579年(天正7)秋
    毛利氏の支援が途絶え、城内の食料が枯渇しはじめる
  • 1580年(天正8)1月
    別所長治、一族切腹を条件に城兵の助命を交渉
  • 1580年(天正8)1月17日
    別所長治・妻・弟・叔父が自刃。三木城開城・三木合戦終結(享年23歳・諸説あり)
  • 1581年(天正9)
    秀吉が因幡・鳥取城を兵糧攻めで陥落——「鳥取の渇え殺し」へ

もぐたろう
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以上、三木合戦のまとめでした!秀吉の華やかな天下取りの裏側には、別所長治の覚悟と、城兵たちの2年間の地獄があったことを、ぜひ覚えておいてほしいな。下の記事では別所長治・竹中半兵衛・黒田官兵衛それぞれの生涯を深掘りしているから、あわせて読んでみてね!

📅 最終確認:2026年4月

参考文献

Wikipedia日本語版「三木合戦」(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「別所長治」(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「竹中重治」(2026年4月確認)
コトバンク「三木合戦」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年4月確認)
コトバンク「別所長治」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年4月確認)
山川出版社『詳説日本史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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