(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA)
興福寺シリーズ、前半は阿修羅像の話をしたので後半は興福寺の歴史について話そうと思います。
興福寺の歴史は、実は奈良公園と密接に結びついています。
奈良公園の歴史を知ると奈良公園を見る目が少しだけ変わりますよ!!奈良公園は鹿がいるだけの公園じゃないんですね。
興福寺はあの有名な藤原氏のお寺!
興福寺の歴史は古いです。
600年代の後半、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)という人物が造った山階寺(やましなでら)というお寺が起源になります。
藤原鎌足は有名な人で、あの大化の改新で蘇我氏を打ち滅ぼした人物です。
(話が横道に逸れますが、大化の改新について気になる方は、
なぜ大化の改新(乙巳の変)は起こったのか。その目的と内容とは。1/2
大化の改新(乙巳の変)はなぜ起こったのか。その目的と内容とは。2/2
をどうぞ)
そして、710年、平城京が出来上がったのを機に山階寺は平城京内へと移転します。この時、活躍したのが藤原不比等という人物。まぁまぁ有名な人物ですが、ここでは省略!
移転後に平城京に出来上がったお寺が興福寺なんです。
武士すら勝てない興福寺の圧倒的強さ
平安時代に隆盛を極めた藤原氏のお寺なので、興福寺はかなりの力を持っていました。
時代は、平安時代末期から鎌倉時代~戦国時代までの間。ざっくりと武士たちが勢力争いをしていた時代。
興福寺は、武士に屈することなく自分の領土を守り抜きます。当時の2大寺院勢力と言えば、延暦寺と興福寺でしたが、延暦寺は織田信長の焼き討ちにより屈してしまいました。
興福寺は、その後、ようやく豊臣秀吉の前に屈しましたが、延暦寺と違って過激な行動をしなかったせいなのか、手厚い保護を受けることになります。
興福寺は、平安時代から江戸時代まで膨大な領土と力を持ち続けることができたすごいお寺だったわけです。寺院は平安時代頃まではその権威を背景に強い力を持っていましたが、武士が登場するにつれ次第に勢力は衰えていきます。そんな中、興福寺は強い力を持ち続けていたのです。
当時の興福寺は、現在の数十倍もの敷地の広さで寺院が大量に立ち並んでいたそうです。興福寺の周りは広大な公園(奈良公園)となっていますが、実は奈良公園は昔はすべて興福寺だったんです。
それがとある事情により現在の様なこじんまりとしたお寺になってしまいます。
「神を貶める仏はぶっ壊す!」明治時代の廃仏毀釈
江戸時代まで強い力を持っていた興福寺。
明治時代になると状況が一変します。仏教の弾圧が始まったのです。これを廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と言ったりします。
明治時代は、江戸時代までの武士が支配する世を辞めて、平安時代のように天皇を国のトップにして新しい国を作ろうとしていた時代です。
神を頂点に置くにあたって、それまで神と併存していた仏さまの存在が邪魔になったのです。(神と仏が合体した信仰のことを神仏習合と言います。難しい話なのでこれ以上は省略!)
興福寺もその例外に漏れず、弾圧を受け、寺院は破壊され売却されつくしました。この明治時代の弾圧により興福寺は修復不可能なほどの壊滅的な被害を受けます。
こうして、興福寺は現在のこじんまりとしたお寺へと変化してしまったのです。
奈良公園行ったら破壊された寺院のことを忘れるな!
荒らされた寺院の跡地はどうなったかというと、実は今の奈良公園なんです!!(正確には奈良公園の一部)
仏教の強い弾圧があったからこそ、鹿で溢れる奈良公園が生まれたというわけです。奈良公園は日本を誇る素晴らしい公園ですが、その歴史には素直に喜べないものがあります。
普通お寺は、塀や柵で敷地が囲まれていますが、興福寺は一度破壊されてしまっているので、塀や柵もそのときに失われてしまいました。そして今も塀や柵がありません。行ってみるとわかりますが、興福寺と奈良公園の境目は曖昧なままなのです。
ちなみに、この仏教に対する強い弾圧は近くにある法隆寺でも行われました。余談ですが、法隆寺の弾圧では、フェノロサという人物が弾圧に反対し仏像の保護を訴えました。フェノロサは外国人ですが、日本に「国宝」という概念をもたらした何気に超重要人物だったりします。
(詳しく知りたい方は、国宝多すぎ!法隆寺の魅力を楽しむ豆知識を紹介!【聖徳太子】その2をどうぞ)
奈良観光に行く方は、鹿を見て楽しむだけじゃなくて、奈良公園に行ったらそこにはたくさんの寺院が建立され、賑わっていたことをぜひ想像してみてください。
興福寺の凄さと時代の流れが無常であることが実感できると思います。
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