

今回はバテレン追放令について、「なぜ出されたのか」「5カ条の内容」「なぜ失敗したのか」「江戸の禁教令とどう違うのか」まで、中学生にもわかるように丁寧に解説していくよ!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
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「バテレン追放令=キリスト教を禁止した法令」——そう思っている人は多いのではないでしょうか。
でも実は、豊臣秀吉はキリスト教そのものを禁止したかったわけではありませんでした。南蛮貿易は続けたかった。宣教師だけ追い出す——そんな「半端な禁止令」だったのです。
しかも、令を出したその翌日には自分で運用を緩め、宣教師たちは結局日本に居残り続けました。10年後には26人もの信者が長崎で処刑されるという大事件(26聖人殉教)にまで発展します。
「なぜ中途半端な令を出したのか」「なぜ失敗したのか」——この記事ではそこを丁寧に解説していきます。
バテレン追放令とは?わかりやすく解説
- 1587年、豊臣秀吉が出したキリスト教宣教師(バテレン)の国外追放令
- 貿易は続けつつ「宣教師だけ追い出す」という中途半端な禁止令だった
- 実際には宣教師が追放されず、有名無実化してしまった
バテレン追放令とは、1587年(天正15年)7月24日、豊臣秀吉が九州で発布した全5カ条の法令です。「伴天連追放令」とも表記されます。
キリスト教の宣教師(バテレン)を日本から追い出すことを命じた法令ですが、注目すべきは「南蛮貿易は今後も続けてよい」と明記されていた点です。宗教と貿易をあえて切り離した、当時としてはきわめて特異な法令でした。
令は全部で5カ条からなりますが(後述)、内容のポイントをひと言でまとめると、「神父・修道士は20日以内に日本を出ていけ。ただし商人は構わない」ということです。
■ バテレンとは?語源と意味
「バテレン」という言葉の由来は、ポルトガル語の「padre(パードレ)」です。これはカトリックの神父・聖職者を意味する言葉で、日本人にはその発音が「バテレン」に聞こえたため、こう呼ばれるようになりました。

「バテレン」っていうのは、ポルトガル語で”神父・宣教師”って意味なんだよ。漢字で書くと「伴天連」になるんだけど、これはポルトガル語の音に当て字をしたものなんだ。
漢字表記では「伴天連」と書きます。これはポルトガル語の発音を漢字の音に当てたもので、現代語で言えば当て字です。「バテレン追放令」も「伴天連追放令」もどちらも正しい表記です。
■ キリスト教伝来と南蛮貿易

キリスト教が日本に伝わったのは1549年(天文18年)のことです。イエズス会の宣教師、フランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸し、布教を始めました。
キリスト教の伝来は、南蛮貿易とセットで広まりました。ポルトガルやスペインの商人・船乗りたちは宣教師とともにやってきます。大砲・火薬・生糸・絹織物などを日本にもたらし、その見返りに日本の銀や刀剣を持ち帰りました。
戦国大名の中にもキリスト教に改宗する者が現れます。九州の大村純忠(日本初のキリシタン大名)、大友宗麟、有馬晴信らがその代表です。彼らは外国貿易の利益も期待してキリスト教を保護していました。

秀吉って最初からキリスト教に反対だったの?

いや、最初は割と寛容だったんだよ。信長と同じく、お寺・神社に対抗させるために利用する面もあった。でも、ある出来事がきっかけでガラッと方針が変わるんだ…。
なぜバテレン追放令が出されたのか?きっかけと背景

バテレン追放令が出されたのは1587年の夏、秀吉が九州を平定した直後のことでした。九州征伐のために長崎近くに滞在していた秀吉のもとに、イエズス会のガスパール=コエリョという宣教師がやってきます。この面会が、追放令発布の直接のきっかけとなりました。
なぜバテレン追放令が出されたのか、主な理由を整理すると次の3点です。
理由①:日本人奴隷の問題(コエリョとの面会で発覚)
理由②:キリシタン大名への政治的不安(大名が教会に従う)
理由③:長崎がイエズス会の支配下にあった(領地として寄進されていた)
■ ガスパール=コエリョとの対面が直接のきっかけ
1587年、秀吉はイエズス会日本準管区長のガスパール=コエリョと博多で面会します。コエリョは秀吉の歓迎に感激し、この勢いでキリスト教を日本に広める話を持ちかけようとしました。
ところが、この面会で秀吉は複数の問題を追及します。「日本人を奴隷として海外に売り飛ばしているのは本当か」「なぜバテレンは神社仏閣を壊させているのか」「なぜ大村純忠はキリスト教に従わぬ民を追い出しているのか」——矢継ぎ早の質問に、コエリョはまともに答えられませんでした。

バテレンどもが日本人を海外に奴隷として売り飛ばしているだと!?寺社仏閣を壊させているだと!?これは許すわけにいかんぞ!
翌朝、秀吉はコエリョを再び呼び出し、「バテレン追放令」の趣旨を伝えます。コエリョは弁明を試みますが、秀吉の怒りは収まりませんでした。令が出されたのはその後(1587年7月24日、旧暦6月19日)のことです。
■ 日本人奴隷の問題と長崎直轄化
コエリョとの面会で秀吉が激怒した最大の理由は、日本人が奴隷として海外に売られていた事実でした。
16世紀後半、ポルトガル人やスペイン人の商人がアジア各地で奴隷貿易を行っていました。日本人も例外ではなく、推定で数万人規模の日本人が奴隷としてインド・マカオ・南米などへ送られたとも言われています。宣教師たちがその仲介に関わっていたことが、秀吉の怒りの根拠のひとつでした。

また、長崎が問題でした。キリシタン大名の大村純忠が長崎をイエズス会に寄進しており、事実上イエズス会が長崎を支配していたのです。秀吉はバテレン追放令と同時に長崎を直轄領としてイエズス会から取り上げます。これは追放令の「おまけ」ではなく、実は長崎奪還のほうが目的に近かったとも言われています。

長崎はもともと大村純忠がイエズス会に「あげた」土地なんだけど、そこが実質的に外国勢力に支配された状態になってたんだよね。秀吉からしたら「日本の港を乗っ取られた」感じで、これが許せなかったんだと思う。
■ キリシタン大名への政治的不安
もうひとつの背景が、大名がキリスト教に従うことへの政治的な脅威です。高山右近(元摂津高槻城主、1587年時点では播磨明石の領主)などのキリシタン大名は、神父の命令に絶対服従する姿勢を見せていました。
秀吉が恐れたのは、「もし宣教師が反乱を扇動したら、キリシタン大名がそれに従ってしまうのではないか」という事態です。天下統一を目指す秀吉にとって、大名が国内の主君より外国の宗教指導者を優先するのは、重大な政治的脅威でした。
主なキリシタン大名(16世紀後半)
高山右近(元摂津高槻、1587年時点は播磨明石)・大友宗麟(豊後)・大村純忠(肥前)・有馬晴信(肥前)
このうち大村純忠は日本初のキリシタン大名として知られる。
バテレン追放令の内容・5カ条の現代語訳
バテレン追放令は全5カ条からなる法令です。発布日は1587年(天正15年)7月24日。当時の原文は難読な候文(そうろうぶん)で書かれていますが、現代語に訳してみると「あれ、意外と中途半端じゃないか?」と感じるはずです。
■ 5カ条の現代語訳
- 第1条:日本は神国(かみのくに)である。キリシタンの国からよこしまな法(キリスト教)を広めることは、まことに良くないことだ。
- 第2条:バテレンが人々をキリシタンにするのは、神社仏閣を壊させたり、寺社の領地を横取りしたりするための謀略だ。これは前代未聞の非常識であり、国法に違反する行為だ。
- 第3条:バテレンが神社仏閣を破壊し、寺社領を侵している。これは日本では許されない。
- 第4条:今後、バテレンが日本の地に住むことは認められない。今日から数えて20日以内に準備して出港せよ。その際、乗組員に罪はない。もし今後バテレンを乗せてきた船があれば、その船と荷物を没収する。
- 第5条:黒船(ポルトガル・スペイン船)は商売のために来るのだから、今後も貿易は続けてよい。ただしバテレンを乗せてきた場合は、この限りではない。
注目は第5条です。「南蛮貿易(黒船による交易)は今後も続けてよい」とはっきり書かれています。

ここが一番のポイントだよ!第4条で「バテレンは20日で出ていけ」と言いながら、第5条で「でも商売はしていいよ」って書いてある。宣教師だけ追い出して、お金(貿易利益)はそのまま受け取ろうって魂胆なんだよね。これが「半端な禁止令」と言われる理由。
■ 「布教禁止・貿易は継続」という矛盾
第5条の「貿易は続けてよい」という文言は、この法令の本質を物語っています。秀吉が本当にやりたかったのは、宗教的な問題(宣教師による支配・奴隷貿易)の排除であって、ポルトガルやスペインとの経済関係を断ち切ることではなかったのです。
しかし、これは現実的には不可能な要求でした。なぜなら、ポルトガル・スペインの船は宣教師と商人が一体となってやってくるからです。「宣教師だけ乗せないでくれ」などという虫のいい話を、相手国が聞くはずもありません。

バテレンは追い出す。だが貿易はやめたくない。商売と宗教は別の話だろう…。
この矛盾が、バテレン追放令が「有名無実化」した最大の構造的理由です。秀吉自身も内心では貿易継続を優先していたため、宣教師が追放期限を過ぎても日本に残っていることを黙認するしかなかったのです。
バテレン追放令の影響と結果・なぜ失敗したのか
バテレン追放令は、結果としてほとんど実行されませんでした。追放を命じておきながら、令が出された翌日には秀吉自身がその内容を骨抜きにするような動きをしたからです。
なぜ失敗したのか。主な理由は次の3点です。
■ なぜ宣教師は追放されなかったのか
令では「20日以内に出港せよ」と命じていましたが、この期限はほぼ無意味でした。理由は3つあります。
まず、秀吉自身が貿易を手放したくなかったということです。令を出した翌日、秀吉はポルトガルの貿易船に「来年もちゃんと貿易に来るように」という書状を送っています。宗教問題と経済関係は切り離して考えていたのです。
次に、商人たちが宣教師をかくまったことです。南蛮貿易で利益を得ていた商人・大名たちは、宣教師を追い出すことへの抵抗感がありました。期限が過ぎても密かに宣教師を住まわせたり、司祭服から俗服に着替えさせて残留させたりしたのです。
そして、令の翌朝には事実上の運用緩和がありました。令を出した翌日、秀吉はイエズス会の修道士に「布教はだめだが、個人として日本に住むのは構わない」という趣旨のことを伝えています。これでは追放令とは言えません。

追放令を出したのに、宣教師はそのまま日本に残り続けたんですか?それはどうして秀吉は追放できなかったの?

「追放令を出した翌日には、事実上それを骨抜きにしていた」って感じだよ。秀吉の本音は「貿易は続けたい。でも宣教師の横暴は困る」という、かなり都合のいい考えだった。その矛盾のせいで、令は形だけのものになったんだ。
■ 高山右近ら切支丹大名のその後
バテレン追放令はキリシタン大名にも影響を与えました。特にルイス=フロイスの記録に詳しいのが、高山右近の対応です。
高山右近(播磨明石の領主・6万石)は、秀吉から「改宗するか、所領(土地)を捨てて国外に出るか」という選択を迫られました。他のキリシタン大名のほとんどが「表向きだけ棄教(キリシタンをやめること)する」という選択を選ぶ中、高山右近は信仰を捨てず、所領を差し出して国外追放を受け入れます。
高山右近はその後も日本各地を転々とし、最終的にはマニラ(フィリピン)に追放されました(1614年)。到着後まもなく病死し、現代ではカトリック教会から「福者(準聖人)」に列せられています。
■ サン=フェリペ号事件から26聖人殉教へ
バテレン追放令が有名無実化した事実は、1596年の事件で一気に表面化します。
1596年、スペインの帆船「サン=フェリペ号」が土佐(高知)に漂着しました。秀吉の役人が船内の地図を見たところ、世界各地にスペインの植民地が記されており、役人が「なぜそれほど広い土地がスペインのものになっているのか」と尋ねると、乗組員がこう答えたとされています。
「まず宣教師が布教してキリシタンを増やし、次に軍隊を送り込んで征服するのだ」——これがサン=フェリペ号事件と呼ばれる出来事です。(ただしこの発言が実際にあったかどうかは史料によって疑いもあります。)
この事件をきっかけに、秀吉は態度を一変させます。1597年2月、フランシスコ会外国人宣教師6名・日本人イエズス会士3名・日本人信徒17名の計26名を長崎の西坂の丘で処刑しました。これを二十六聖人殉教といいます。
バテレン追放令から10年。宣教師が日本に居残り続けたまま、大量処刑という最悪の事態に至ったことは、令の失敗をよく示しています。
バテレン追放令 vs 禁教令(江戸幕府)の違いは?
「バテレン追放令」と「禁教令」は試験でよく混同されます。どちらもキリスト教を規制した法令ですが、出した人・時代・内容・実効性が全く異なります。整理して覚えましょう。
■ バテレン追放令と禁教令の違いをまとめると
| 比較項目 | バテレン追放令(1587年) | 禁教令(1612年・1613年) |
|---|---|---|
| 出した人 | 豊臣秀吉 | 徳川幕府(江戸幕府) |
| 対象 | 宣教師(バテレン)のみ | キリスト教信者・宣教師全体 |
| 南蛮貿易 | 継続可(令に明記) | 制限→のち禁止(鎖国へ) |
| 実効性 | 低い(有名無実化・翌日から骨抜き) | 高い(絵踏・宗門改など厳格に運用) |
| その後 | サン=フェリペ号事件・26聖人殉教 | 島原の乱・鎖国体制へ |

ざっくり言うと、秀吉の令は「宣教師だけ追い出す・でも貿易はしてね」という甘め設定。江戸幕府の禁教令は「信者ごと根絶やし・貿易も制限」という徹底したもの。対象の広さと実効性がまるで違うんだよ!

じゃあテストでバテレン追放令と禁教令をどうやって区別したらいい?

「秀吉=宣教師だけ追放・貿易継続OK」「江戸幕府=信者ごと完全禁止」という対比で覚えておくと確実だよ!年号は秀吉が1587年、禁教令は1612〜13年って感じで押さえておこう。
江戸幕府の禁教令は、まず幕府直轄領を対象に出され(1612年)、翌年旧暦12月(新暦1614年1月)に全国へ拡大されました。その後、絵踏(えふみ)・宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)・五人組制度などで徹底的に信者を摘発しました。バテレン追放令とは比べものにならないほど厳しく、実効性の高いものでした。
江戸幕府がここまで厳しくしたのは、1637〜38年の島原の乱が背景にあります。長崎・島原を中心にキリシタンが大規模な反乱を起こしたことで、幕府はキリスト教を根本から絶やすことを決断しました。
一方、鎖国体制も禁教令の延長線上にあります。ポルトガルを完全に追い出し(1639年)、貿易相手を中国・オランダ・朝鮮・琉球のみに絞ることで、キリスト教の流入を根本から遮断したのです。
テストに出るポイントまとめ
【比較問題でよく出るポイント】
バテレン追放令(秀吉・1587年)とキリスト教禁止令(全国禁教令・1613年)を混同しないこと。
ポイント:秀吉は「宣教師のみ追放+貿易継続」→ 江戸幕府は「信者ごと禁止+貿易制限」。
試験では「この法令を出したのは誰か」「南蛮貿易との関係は?」という形で頻出。
■ バテレン追放令・禁教令・鎖国の流れを比較
| 政策 | 年 | 出した人 | 内容・ポイント |
|---|---|---|---|
| バテレン追放令 | 1587年 | 豊臣秀吉 | 宣教師追放・貿易継続・実効性低 |
| 禁教令(直轄領) | 1612年 | 江戸幕府 | 幕府直轄領でキリスト教を禁止 |
| 全国禁教令 | 1613年 | 江戸幕府 | 全国へ拡大・宣教師国外追放 |
| ポルトガル船来航禁止 | 1639年 | 江戸幕府 | 鎖国体制の確立・キリスト教根絶 |
バテレン追放令についてもっと詳しく知りたい人へ

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よくある質問(FAQ)
1587年(天正15年)、豊臣秀吉が九州征伐の帰路に発令した法令です。「バテレン」とはポルトガル語の「padre(パードレ)」に由来し、キリスト教の宣教師・神父を意味します。令の主な内容は宣教師の20日以内の国外退去でしたが、南蛮貿易は引き続き認めるという矛盾した内容でした。正式名称は「伴天連追放令(ばてれんついほうれい)」とも表記されます。
主に次の3つの理由が挙げられています。①イエズス会日本準管区長ガスパール・コエリョとの会談で、宣教師が日本人を奴隷として海外に売り飛ばしている事実・武装化・神社仏閣の破壊を知ったこと。②キリシタン大名がキリスト教の命令に従い、秀吉の支配を脅かす可能性への政治的不安。③長崎がイエズス会の領地となっていたこと(秀吉は博多到着後すぐに長崎を直轄領に取り戻しました)。これらが複合的に重なり、九州征伐の帰路に突如令を発令しました。
現代語に訳すと、①日本はキリスト教の国ではなく神国であるから、仏教・神道を妨げるバテレンが日本にいることは許せない、②バテレン(宣教師)は日本人を信者にするだけでなく奴隷として売り飛ばしており、言語道断である、③日本人がバテレンの宗旨に帰依することは問題だが、処罰はしない(信仰の自由は認める)、④バテレン(宣教師)は今後20日以内に出国しなければならない、⑤南蛮船は日本との貿易を従来通り続けてよい(ただし宣教師を乗せることは禁止)——という内容です。特に「信者への処罰なし」と「貿易継続」という2点が、令の中途半端さを象徴しています。
大きく3点が異なります。①対象:バテレン追放令は宣教師(バテレン)のみが対象でしたが、江戸幕府の禁教令(1612〜13年)はキリスト教の信者全体が対象でした。②南蛮貿易:バテレン追放令では貿易継続を明示しましたが、禁教令後はポルトガル船来航禁止(1639年)まで貿易を段階的に規制しました。③実効性:バテレン追放令は有名無実化して宣教師が残留しましたが、江戸幕府の禁教令は絵踏・宗門改帳・五人組制度を組み合わせて厳格に運用されました。
教科書に掲載されている定番の語呂合わせは広く定着しているものがありません。「1587年」は「一(1)こ(5)は(8)なし(7)追放」などの覚え方を紹介するサイトもありますが、一般的ではありません。年号の暗記よりも「豊臣秀吉が出した」「宣教師のみ追放・貿易継続」「有名無実化した」という内容と流れで理解する学習法が長期記憶につながりやすいです。試験では年号より「誰が・何を・なぜ」のセットで問われることが多いです。
主な理由は3つあります。①令の内容そのものが矛盾していた:「貿易は続けるが宣教師は追い出す」という両立困難な要求で、商人たちは貿易を維持するために宣教師をかくまいました。②秀吉自身が本気で追放する気がなかった:令を出した翌日に「布教はだめだが、日本に住むのは構わない」という趣旨を伝え、事実上骨抜きにしています。③20日という退去期限が現実的でなかった:遠方の宣教師には連絡が届かず、また大船での出国手配も現実的に不可能でした。結果として宣教師は日本に残り続け、1597年の26聖人殉教という最悪の事態につながりました。
まとめ:バテレン追放令をおさらい
-
1549年フランシスコ・ザビエルが来日・キリスト教伝来
-
1582年天正遣欧少年使節がローマへ(キリシタン大名が派遣)
-
1587年豊臣秀吉がバテレン追放令を発令(九州征伐直後・博多)
-
1590年天正遣欧少年使節が帰国(高山右近は1587年に信仰を守り領地を没収され、前田利家に庇護される)
-
1596年サン=フェリペ号事件(有名無実化が露呈・秀吉の態度急変)
-
1597年26聖人殉教(長崎・西坂)
-
1612年江戸幕府が禁教令(幕府直轄領)を発令
-
1613年全国禁教令へ拡大・宣教師全員追放

以上、バテレン追放令のまとめでした!「宣教師は追い出すけど貿易は続ける」という秀吉の本音がよく見える政策だったね。形だけの令が最終的に26人の殉教者を生んでしまった——歴史の皮肉とも言えるよね。下の記事で南蛮貿易や豊臣秀吉・島原の乱についてもあわせて読んでみてください!
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📅 最終確認:2026年4月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「バテレン追放令」(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「伴天連追放令」(2026年4月確認)
コトバンク「バテレン追放令」(デジタル大辞泉・日本大百科全書、2026年4月確認)
コトバンク「ガスパール・コエリョ」(日本大百科全書、2026年4月確認)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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