

今回は原爆ドームと広島平和記念公園について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!修学旅行前の予習にも、大人の旅行計画にも役立つ内容をまとめたよ!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
「原爆ドーム」という名前は、実は正式名称ではありません。もとは広島県の物産を紹介するための「広島県産業奨励館」という、チェコ出身の建築家が設計した洒落た洋風建築でした。
核爆弾で廃墟となったこの建物が「ドーム」と呼ばれ世界遺産になるまでには、保存か解体かをめぐる市民の長い闘いがありました。その経緯を知ってから訪れると、建物の見え方がきっと変わるはずです。
原爆ドームとは?3行でわかる基本情報
- 1945年8月6日、原子爆弾の爆心地から約160mで被爆し廃墟となった旧広島県産業奨励館の残骸
- 爆風がほぼ真上から垂直に当たったため建物の骨格が崩れずに残り、現在も当時の姿をとどめている
- 1996年にユネスコ世界文化遺産に登録。外観見学は24時間・無料

出典:Dariusz Jemielniak (Pundit) / Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)
原爆ドームの正式なユネスコ登録名は「広島平和記念碑(原爆ドーム)」といいます。所在地は広島県広島市中区中島町、元安川のほとりに立つ廃墟の建物です。
1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍が投下した原子爆弾が上空約600メートルで爆発しました。爆心地は現在の島病院(中区大手町)付近とされており、この建物はそこから約160メートルという至近距離で被爆したのです。
爆発の瞬間、建物内にいた約30名の職員や来訪者は即死したとされています。熱線・爆風・放射線が同時に直撃したこの建物は、ドーム型の屋根の鉄骨だけを残して内部は焼け落ち、現在見られる廃墟の姿となりました。太平洋戦争がもたらした悲劇の象徴として、今も広島の街に静かに建ち続けています。

「原爆ドーム」という呼び名、実は終戦直後から使われていたわけじゃないんだ。当初は「産業奨励館の廃墟」とか「原爆の建物」と呼ばれていて、「原爆ドーム」という名前が広く使われるようになったのは1950年代以降のことなんだよ。丸いドーム型の屋根だけが残ったことから、市民の間でこの名前が自然に定着していったんだ。
もともとは「物産館」だった — 被爆前の姿

現在の廃墟からは想像しにくいのですが、この建物はもともと、広島県の産業・物産を国内外に紹介するための施設として建てられました。1910年(明治43年)、広島県が産業振興を目的に建設を計画し、設計を担当したのはチェコ(当時ボヘミア地方)出身の建築家、ヤン・レツル(Jan Letzel)です。
レツルは当時の最新様式である当時最新のセセッション様式(分離派)を取り入れた装飾豊かな洋風建築を採用し、地上3階建て(正面中央の階段室部分のみ5階相当)で屋上中央に特徴的な楕円形ドームを頂く建物を設計しました。1915年(大正4年)に完成し、当初は「広島県物産陳列館」として開館。1921年(大正10年)に「広島県立商品陳列所」と改称され、さらに1933年(昭和8年)に「広島県産業奨励館」と改称されました。
被爆前の建物は広島市内でも屈指のモダンな洋風建築として市民に親しまれ、物産展示・商工業の振興イベントなどに活用されていました。1945年8月6日の朝、その建物内では通常どおり職員が業務を開始していたとされています。被爆後、建物の骨格だけを残してすべてが一瞬にして消え去りました。


設計したのがチェコ出身の建築家というのは知りませんでした!ヤン・レツルという人は、この建物が原爆で壊されたことを知ったのでしょうか?

レツルはその後1923年にチェコへ帰国してしまったんだ。その後、自分が設計した建物が原爆でどうなったかを後から知ったとされているよ…。彼は1925年にチェコで亡くなっているので、1945年の被爆は知らなかった可能性が高い。でも、この建物が「平和の象徴」として今も世界に知られているなんて、設計者のレツルも想像もしなかっただろうね。
チェコ出身の設計者が作った洋風建築が、日本の平和記念の象徴となった——このちょっと意外な国際的なつながりも、この場所の見どころのひとつです。次の章では、なぜこの建物が原爆に耐えられたのかという、物理的な謎に迫ります。
なぜ建物が残ったのか?
💡 なぜ建物が残ったのか?ひとことで言うと
爆弾がほぼ真上から垂直に爆発したため、爆風が建物を横から倒す力ではなく真上から押しつぶす力として働いた。その結果、鉄筋コンクリートの骨格が崩れずに残った。

原子爆弾は上空約600メートルの高さで爆発しました.爆心地の真上、ほぼ垂直の位置から爆風が降り注いだため、建物に対して横方向に倒壊させる力が小さかったと考えられています。これは、爆心地から離れた場所にある建物のほうが横向きの爆風をより強く受け、より大きく倒壊したのとは逆の現象です。
また、この建物は鉄筋コンクリート構造だったことも重要です。爆風の衝撃で内部は焼け落ちましたが、柱・梁・壁の骨格は倒れずに残りました。特に中央のドーム型屋根は鉄骨造りだったため、熱線で表面の素材は溶けながらも、鉄骨自体は変形しながらも崩れ落ちなかったのです。
「爆心地に近すぎて、かえって骨格が残った」という逆説的な現象——これが原爆ドームを今も私たちが見られる最大の理由です。爆心地から約160メートルという距離は、正面から横向きの爆風を受けるには近すぎる距離でした。

原子爆弾投下の際、爆心地(現・島病院付近)から600m離れた地点では、爆風が水平に横から猛烈に吹き付ける。これが一般的な建物が倒壊するメカニズムだ。
ところが産業奨励館は爆心地からわずか160m。ほぼ真上からの垂直な爆風を受けたため、横向きの破壊力がかなり小さかった。鉄筋コンクリートの柱は垂直方向の圧力には比較的強く、内部は焼け落ちたが骨格は崩れなかった。
「近すぎたから残った」という逆説——これが原爆ドームが今も立ち続けている最大の物理的理由だ。爆心地から離れるほど水平の爆風を受けるため、かえって危険だったのである。

修学旅行前の事前学習で「爆心地に近かったから残った」って習ったけど、なんかピンとこなかったんですよね。今の説明でやっとわかりました!

そうそう!「爆心地から遠いほど安全」というイメージがあるよね。でも爆発が真上から起きた場合は、ある一定の距離より近いほうが横方向の力を受けにくいんだ。これは現地でガイドさんに解説してもらうとさらに実感がわくよ!ぜひ実際に建物の前で、上を見上げてみてね。
この「なぜ残ったのか」という問いへの答えを胸に秘めて現地を訪れると、廃墟の建物が語りかけてくるものが変わります。次の章では、その建物を「保存するか、解体するか」をめぐった知られざる論争のドラマを見ていきましょう。
世界遺産登録の舞台裏 — 保存か解体かの論争
終戦直後から、この廃墟の建物をどうするかは広島市民にとって大きな問題でした。一方では「戦争の悲惨な記憶を残すため保存すべきだ」という声があり、他方では「危険な廃墟はいつか崩れ落ちる。悲しい記憶は早く忘れるべきだ」という解体論も根強くありました。
1960年代に入ると建物の老朽化が深刻になり、解体かどうかの議論がいっそう高まりました。そして1966年、広島市議会はついに「原爆ドームを永遠に保存する」という決議を全会一致で採択しました。市民から集められた保存のための署名・募金運動が議会を動かした、市民主導の決断でした。
この決議の背後には、広島市民による粘り強い保存運動がありました。被爆直後から「戦争の傷跡を残すべきだ」と主張する市民グループが署名活動を展開。一方で「廃墟が目に入るたびに悲しみが蘇る。早く取り壊してほしい」という被爆者自身の声も決して少なくありませんでした。傷ついた人々の間でさえ、意見が二分された——それほど深刻な問いだったのです。
その後、建物の保存・補修工事が繰り返し行われ、1992年には広島市が世界遺産への登録申請を開始しました。そして1996年12月、ユネスコ世界遺産委員会において「広島平和記念碑(原爆ドーム)」として世界文化遺産への登録が決定されました。登録の決め手となったのは、「核戦争の悲惨さと平和の重要性を世界に伝える顕著な普遍的価値」という理由でした。
ただし、この世界遺産登録はコンセンサス(全会一致方式)で採択されたものの、アメリカは決定に与しない旨の声明(離脱表明)を行いました。中国は登録承認に対して賛否を留保しています。戦争責任をめぐる歴史認識の違いが国際舞台でも問われた瞬間でした。

修学旅行の資料で「世界遺産登録に反対した国があった」と読んだんですけど、アメリカと中国って本当ですか?なんで反対したんでしょう?

そうなんだ。登録はコンセンサス方式(全会一致)で採択されたんだけど、アメリカは「核兵器使用に至る歴史的文脈が十分に示されていない」として決定に与しない旨の声明(いわゆる「離脱表明」)を出したんだ。中国は「日本の戦争加害の歴史認識をめぐる懸念」を理由に賛否を留保したとされているよ。投票そのものは行われていないんだ。今では世界中の人が訪れる、いわゆる「負の遺産」の先駆的な例になっているよ。
「負の遺産」とは、人類の過ちや暗黒の歴史を後世に伝えるための世界遺産の概念です。原爆ドームはその先駆的な事例として、現在では平和教育の場として世界各地から多くの人々が訪れる場所になっています。次の章では、原爆ドームを中心に広がる平和記念公園の見どころを一気にガイドします。
平和記念公園の見どころ完全ガイド
広島平和記念公園は、原爆ドームを北端に置き、元安川と本川に囲まれた三角デルタ地帯に広がる公園です。入園は24時間・無料で、公園内には慰霊碑・モニュメント・資料館など多くのスポットが点在しています。
公園の設計には建築家・丹下健三が携わり、原爆ドーム・慰霊碑・平和記念資料館が「平和軸」と呼ばれる一直線上に配置されています。慰霊碑のアーチ越しに原爆ドームが見えるこの構図は、設計の核心となっています。
■ 原爆死没者慰霊碑

公園の中心部に立つ原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)は、1952年に建立されました。アーチ型のフォルムは「人を雨露からかばう家の形」を意図したもので、被爆者の霊を守るという意味が込められています。
碑の中央部には石棺があり、その中に被爆して亡くなった方々の名前が記された名簿が収められています。碑文には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれており、この言葉は「核兵器の使用という過ちを人類が繰り返さないという誓い」を意味しています。
慰霊碑の前に立って正面を見ると、そのアーチの先に原爆ドームが一直線に見えます。これが「平和軸」のデザインの真骨頂であり、慰霊碑・平和の灯・資料館・ドームが一列に並ぶ光景は、訪れた人々に深い印象を与えます。
■ 原爆の子の像(佐々木禎子と折り鶴)

公園内で特に子どもたちの心を打つのが原爆の子の像です。この像のモデルは、佐々木禎子という少女です。2歳のときに被爆した禎子さんは小学6年の秋(1954年)に体の異変が現れ、1955年2月に白血病と診断されて入院しました。「千羽鶴を折ると願いが叶う」という伝説を信じ、病床で折り鶴を折り続けましたが、1955年10月、12歳で亡くなりました。
禎子さんの死後、同級生たちが「原爆で死んだ子どもたちのために碑を建てよう」と募金運動を始め、全国の子どもたちから支援が集まり、1958年に像が完成しました。高さ約9メートルの塔の頂上には、折り鶴を空にかざす少女のブロンズ像が立っています。
現在も世界中から年間約1,000万羽ともいわれる折り鶴が届けられ、像の周囲のガラスケースに飾られています。世界遺産を訪れる修学旅行生が折り鶴を持参して捧げることも多く、平和への祈りが今も積み重なっています。
■ 平和の灯・平和の泉
慰霊碑と原爆ドームの間に位置するのが平和の灯(1964年設置)です。この炎は「世界中の核兵器がすべて廃絶される日まで絶やさない」という誓いを込めて灯し続けられています。東京オリンピックの聖火と同じ年に設置されたのはたった一つの偶然ではなく、平和への強いメッセージが込められています。
公園の入口付近には平和の泉(正式名称:祈りの泉、1964年設置)があります。被爆後、熱線と放射線で体を焼かれた人々が「水を…水を…」と叫びながら川に倒れ込んだという証言に基づき、「あの人たちに水を捧げたい」という思いから設置されました。噴水の前に刻まれた碑文「のどがかわいてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました 私はとてもそれが飲めませんでした」は、今も訪れる人の胸を打ちます。
■ 広島平和記念資料館(入館料・展示内容)
平和記念公園の南端に立つ広島平和記念資料館は、原爆の実態を伝える展示を行う博物館です。1955年の開館以来、世界中から年間約200万人(2024年度に初の200万人超)が訪れています。
館内は本館と東館に分かれており、本館では被爆者の遺品・写真・証言映像など、原爆の惨禍を直接伝える展示が並んでいます。焼け焦げた衣服・溶けたガラス瓶・被爆した人形など、実物の展示は言葉では伝えきれない重みがあります。東館では広島の歴史的背景・原爆投下の経緯・核兵器廃絶への取り組みが解説されています。
入館料は大人200円・高校生100円・中学生以下無料。所要時間は展示をじっくり見るなら2〜3時間が目安です。開館時間は季節によって異なり、夏場(8月)は7:30〜20:00まで(8月5・6日は21:00まで)、冬場(12〜2月)は7:30〜18:00です。早朝・夕方の特定時間帯はオンライン事前予約が必要な場合があるため、訪問前に公式サイトで確認することをおすすめします。
■ 被爆したアオギリ(見落としがちスポット)
資料館東館の北側にひっそりと立つのが被爆したアオギリです。爆心地から約1.3キロメートルの広島逓信局(現・広島合同庁舎)の構内にあったアオギリの木は、被爆の翌年(1946年)に幹の焦げた部分から新芽を芽吹かせました。
その生命力の強さに感動した人々が「生命の象徴」として大切に育て、1973年に資料館東館の北側に移植されました。今も毎年青々と葉を茂らせ、「どんな悲劇の後でも生命は甦る」ことを無言で語り続けています。修学旅行の見学コースに入っていないことも多いですが、ぜひ立ち寄ってほしい場所です。

修学旅行で時間が限られているなら、まず「原爆ドーム前」電停を降りて原爆ドームをしっかり見学→元安川を渡って公園に入り、慰霊碑→原爆の子の像→資料館の順で回るのが定番コースだよ。資料館は最後にしておくと、ドームや慰霊碑を見た後の心持ちで展示を見られてより印象が深まる。被爆アオギリは資料館東館の北側にあるから、出口を出たついでに立ち寄れるよ!
夜のライトアップ・季節イベント
昼間とはまったく異なる表情を見せる原爆ドームの夜。通常は夕刻から22:00頃まで照明でライトアップされ、元安川の川面に廃墟の影が揺れる幻想的な光景が広がります。昼間は観光客でにぎわう場所も、夜になると静かな祈りの空間に変わり、多くの人が言葉を失ってその場に立ち尽くすといいます。

なかでも圧倒的なのが、毎年8月6日の夜に行われるとうろう流しです。元安川と本川の川面に無数の燈篭が流れ、水面が淡いオレンジ色に染まる中、ライトアップされた原爆ドームのシルエットが浮かび上がります。この夜は原爆投下の日(広島平和記念式典当日の夜)にあたり、川岸では市民が手を合わせ、静かに祈りを捧げます。毎年数万個の燈篭が流されるこの行事は、夏の広島を代表する風景のひとつです。

また、8月5〜6日前後の期間は広島平和記念資料館の特別延長開館が実施されます(8月5・6日は21:00まで)。夜の資料館は混雑が少なく、展示をじっくり見られるため、旅行者にとっては昼間よりも深く向き合える貴重な時間帯です。
春(3〜4月)には元安川沿いの桜並木が満開となり、ドームと桜の対比が多くの写真に収められます。戦争の傷跡を残す廃墟と、毎年変わらず花を咲かせる桜——この取り合わせは、広島の持つ「悲しみと再生」のテーマを象徴しているともいえます。年間を通じて何度でも訪れる価値のある場所です。

夜のライトアップも見てみたいです!何時ごろまで見学できますか?夕食を食べる場所はドームの近くにありますか?

原爆ドームの外観は24時間いつでも見られるよ!ライトアップは通常22:00頃まで。近くのグルメスポットは「本通り商店街」方面がおすすめで、広島風お好み焼き・牡蠣料理など広島名物が揃っているよ。公園から徒歩10分圏内に飲食店が多い「大手町」エリアもにぎわっているから、夕食を済ませてからライトアップを見に行くルートが定番だね!
夜の原爆ドームを訪れる際は、静かに観賞することを心がけてください。昼間の観光スポットとは異なり、夜のドームは黙って向き合う空間です。次の章では、アクセス・拝観情報をまとめて案内します。
アクセス・見学情報
📍 住所:〒730-0811 広島県広島市中区中島町1-2
⏰ 原爆ドーム:外観のみ見学・24時間・入場無料
🏛 資料館開館時間:7:30〜18:00(12〜2月)/7:30〜19:00(3〜7月・9〜11月)/7:30〜20:00(8月)※8月5・6日は21:00まで
🎫 資料館入館料:大人200円 / 高校生100円 / 中学生以下無料
🚫 資料館休館日:12月30・31日、2月中旬(展示入替)
⏱ 所要時間の目安:公園のみ1〜2時間 / 資料館込みで3〜4時間
🚃 電車でのアクセス(おすすめ)
広島駅南口から広島電鉄(路面電車)2号線(広電宮島口行)または6号線(江波行)→「原爆ドーム前」下車すぐ。所要時間:約15〜20分、料金:240円
※ 一部の車両は被爆電車として現役で走っています。今も現役で走り、被爆の歴史を今に伝える貴重な車両です
🚌 バスでのアクセス
①広島バス24号線:JR広島駅南口→「平和記念公園」下車、所要約20分
②観光ループバス「めいぷる~ぷ」:広島駅新幹線口1階→「平和公園前」下車、所要約17分、料金240円
③タクシー:広島駅から約10〜15分 / 資料館周辺に一般向け駐車場なし(周辺有料駐車場を利用)
⚠️ 上記のアクセス・料金情報は2026年6月時点のものです。最新情報は広島平和記念資料館公式サイト(hpmmuseum.jp)および広島電鉄の公式ページでご確認ください。

修学旅行で資料館に行くんですが、混んでいる時間帯はありますか?あと事前に準備しておくことってありますか?

修学旅行シーズン(5〜6月・10〜11月)は午前10時〜午後2時頃がピーク!開館直後の7:30〜9:00が一番空いているよ。事前予約(オンライン)が必要な時間帯もあるから、担任の先生に確認しておこう。事前学習としては「原爆ドームとは何か」「なぜ世界遺産になったのか」この2点を頭に入れておくと、展示を見たときの理解が全然違うよ。この記事を読んで来てくれると嬉しいな!
原爆ドーム・広島をもっと深く知りたい人へ

原爆ドームに行く前、あるいは訪れた後に読んでほしい本を2冊紹介するよ。どちらも広島・原爆をテーマにした名作で、教科書では伝わらないリアルな体験や生活が描かれているんだ。読むと、現地で感じるものがぐっと深くなるよ!
よくある質問
1945年8月6日の原子爆弾投下で廃墟となった旧広島県産業奨励館の残骸です。爆心地から約160mの地点に位置し、爆弾が真上から垂直に爆発したため建物の骨格が崩れずに残りました。ユネスコ世界遺産としての正式名称は「広島平和記念碑(原爆ドーム)」で、外観見学は24時間・入場無料です。
原子爆弾は上空約600mで爆発し、爆心地のほぼ真上から垂直に爆風が下りてきました。建物に対して横から倒す力ではなく、真上から押しつぶす力が働いたため、鉄筋コンクリートの骨格が崩れずに残ったと考えられています。爆心地に近すぎたためにかえって骨格が残ったという逆説的な現象です。
「核兵器の惨禍と平和の重要性を世界に伝える顕著な普遍的価値がある」と認められ、1996年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。登録はコンセンサス(全会一致方式)で採択されましたが、アメリカは決定に与しない旨の声明を表明し、中国は賛否を留保しました。いわゆる「負の遺産」として核兵器廃絶への警鐘を鳴らす場として国際的に評価されています。
①慰霊碑のアーチ越しに原爆ドームが一直線に見える「平和軸」の配置、②佐々木禎子さんと折り鶴の物語が込められた「原爆の子の像」、③広島平和記念資料館の被爆者の遺品・証言映像の3点が特に重要です。資料館は事前に被爆の概要を学んでから入ると展示への理解が深まります。
入館料は大人200円・高校生100円・中学生以下無料。開館時間は7:30〜18:00(12〜2月)、7:30〜19:00(3〜7月・9〜11月)、7:30〜20:00(8月)で、8月5・6日は21:00まで。早朝・夕方の一部時間帯はオンライン事前予約が必要な場合があります。最新情報は公式サイト hpmmuseum.jp でご確認ください。
ユネスコ世界遺産としての正式登録名は「広島平和記念碑(原爆ドーム)」です。建物の歴史的な名称は「広島県産業奨励館(旧:広島県物産陳列館)」で、チェコ出身の建築家ヤン・レツルが設計し1915年に竣工しました。「原爆ドーム」という通称は戦後に市民の間で自然に広まったもので、公式の正式名称ではありません。
通常は夕刻から22:00頃までライトアップが実施されています。8月6日(広島平和記念式典の日)前後は特別ライトアップが行われ、元安川でのとうろう流しとともに幻想的な雰囲気になります。実施時間は変更になる場合があるため、訪問前に広島平和記念公園の公式情報をご確認ください。
まとめ

以上、原爆ドームと広島平和記念公園のまとめでした!「ドーム」という名前の由来・なぜ建物が残ったのかという謎・保存か解体かをめぐる市民の闘い・世界遺産登録の舞台裏まで、じっくり解説したよ。修学旅行や旅行の前にぜひ役立ててみてね。下の記事で原爆投下の歴史や昭和の時代についても、あわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年6月 / 参照:広島平和記念資料館公式サイト(hpmmuseum.jp)・Wikipedia日本語版「広島平和記念碑」
広島平和記念資料館公式サイト「hpmmuseum.jp」(2026年6月確認)
Wikipedia日本語版「広島平和記念碑」(2026年6月確認)
コトバンク「原爆ドーム」(日本大百科全書・デジタル大辞泉)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。




