永倉新八とはどんな人?新選組最強の剣士が「語り部」になるまでの生涯

特集 | 詳しく見る 2026年 NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」 登場人物まとめ
永倉新八

もぐたろう
もぐたろう

今回は新選組二番隊組長・永倉新八についてわかりやすく丁寧に解説していくよ!
「一に永倉、二に沖田」って言葉、聞いたことある?実は沖田総司より強かったと言われた最強の剣士の生涯を、一緒にたどっていこう!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠

この記事を読んでわかること
  • 永倉新八がどんな人物か(新選組二番隊組長・神道無念流の達人・松前藩出身)
  • 「一に永倉、二に沖田」と称された理由(同時代の隊士による最強剣士証言)
  • 池田屋事件での活躍(刀が折れ、防具がボロボロになるまで戦い抜いた夜の真実)
  • 近藤勇との対立と「非行五ヶ条」(仲間を守るために声を上げた義侠心の物語)
  • 晩年の「語り部」としての功績(『新撰組顛末記』で新選組の真実を後世に伝えた)

「新選組で一番強かったのは誰?」と聞かれたら、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは天才剣士・沖田総司でしょう。

ところが実は、新選組にいた隊士・阿部十郎は明治になってからこう証言しています。
「剣術の腕なら、一に永倉新八ながくらしんぱち、二に沖田総司、三に斎藤一」と。

天才・沖田を抑えて「最強」と評されながら、なぜ永倉は歴史の陰に隠れてしまったのか――。
今日は松前まつまえ藩を脱藩してまで剣の道を選んだひとりの男が、新選組の二番隊組長として駆け抜けた幕末から、晩年に「語り部」として新選組の真実を後世に残した瞬間までの生涯をたどっていきます。

スポンサーリンク

永倉新八とは?

永倉新八 3行でまとめると

① 1839年(天保10年)生まれ、1915年(大正4年)没。松前藩士の子で、新選組二番隊組長。
神道無念流しんとうむねんりゅうの達人で、同時代の隊士から「一に永倉、二に沖田」と称された最強の剣士。
③ 明治以降も生き延び、北海道の小樽で『新撰組顛末記しんせんぐみてんまつき』を書き残した、新選組の語り部。

永倉新八は、江戸の松前藩上屋敷で生まれた松前まつまえ藩士の子です。父は永倉勘次といい、松前藩(現在の北海道松前町)に仕える江戸詰の藩士でした。本名は「長倉ながくら新八」とも書きますが、本人が後年使った表記に合わせて「永倉新八」が一般的に用いられています。

後に新選組の二番隊組長・撃剣師範として活躍し、京都の治安を守るために剣を振るいました。明治維新後は北海道に移り住み、杉村義衛すぎむらよしえいと改名。明治・大正の時代まで生き、1915年(大正4年)に77歳で生涯を閉じています。

新選組の隊士の中で、明治以降も長く生き、晩年に自らの証言を文章として残した人物はほんの一握り。永倉新八は剣の腕だけでなく、その「証言力」によっても、新選組の歴史にかけがえのない足跡を残した人物なのです。

永倉新八(若き日の写真)
若き日の永倉新八(甲冑姿)/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

スポンサーリンク

剣術に取り憑かれた少年時代――脱藩してでも強くなりたかった

永倉新八は幼い頃から、とにかく剣が好きでした。8歳で岡田十松おかだじゅうまつ神道無念流しんとうむねんりゅうの道場・撃剣館に入門し、めきめきと腕を上げていきます。15歳で本目録(中級者の証)を授けられたといいますから、相当な才能の持ち主だったことがわかります。

その後、19歳で百合元昇三ゆりもとしょうぞうから免許皆伝を受け、さらに腕を磨くため心形刀流・伊庭軍兵衛いばぐんべえの道場へも出入りするようになります。江戸の有名道場をいくつも渡り歩き、ひたすら剣に打ち込む――まさに「剣に取り憑かれた青年」だったのです。

ところが、ここで永倉は人生の大きな決断を迫られます。松前藩士の家柄である永倉は、本来であれば藩のために働くべき身分。しかし剣を極めるためには、藩務に縛られず江戸で修行を続けたい――。悩んだ末、永倉は脱藩します。当時、脱藩は重罪。捕まれば打ち首になることもある覚悟の決断でした。

「剣のためなら、武士の身分すら捨てる」――この一途さが、後の新選組での活躍につながっていきます。

■ 神道無念流と「龍飛剣」――永倉を最強たらしめた技法

永倉が極めた神道無念流は、戦国末期に福井兵右衛門ふくいひょうえもんが開いたとされる剣術流派です。江戸時代後期には斎藤弥九郎さいとうやくろうが江戸・九段坂上に開いた「練兵館れんぺいかん」が隆盛を極め、千葉周作の北辰一刀流・桃井春蔵の鏡新明智流とあわせて「幕末江戸三大道場」のひとつに数えられました。永倉が入門した道場は、同じ神道無念流の「撃剣館げきけんかん」(岡田十松おかだじゅうまつの道場)です。

神道無念流の特徴は、力強い突き技と、相手の動きを先読みする機動力。型を細かく刻むよりも、素早く間合いに飛び込んで一撃で相手を倒す実戦向きの流派でした。永倉が得意としたのも、まさにこの突き技で、後年の隊士たちは「永倉先生の突きは見えない」と語ったといわれています。

もぐたろう
もぐたろう

神道無念流っていうのは、スピードと突き技が得意な流派なんだ!今でいうフェンシングのように、相手より速く間合いに飛び込んで一撃で仕留めるイメージに近いよ。新選組には沖田の天然理心流、斎藤の無外流など他流派の達人が集まったけど、永倉の神道無念流もその中でトップクラスに恐れられていたんだね。

スポンサーリンク

試衛館との出会いと壬生浪士組の結成

江戸で剣の修行を続けていた永倉新八は、ある日、市谷甲良屋敷いちがやこうらやしきにあったひとつの道場と出会います。試衛館しえいかん――天然理心流の道場でした。

そこには、後に新選組の幹部となる男たちが集っていました。道場主の近藤勇、副長となる土方歳三、天才剣士・沖田総司、そして山南敬助・井上源三郎・原田左之助・藤堂平助――いわゆる「試衛館派」と呼ばれる面々です。

永倉は試衛館に食客(食事と寝床を提供される居候のような立場)として身を寄せ、近藤勇と剣を交わすうちに意気投合します。神道無念流の永倉と天然理心流の近藤――流派は違えど、剣に懸ける情熱で結ばれた仲間となっていきました。

そして1863年(文久3年)、ついに大きな転機が訪れます。14代将軍・徳川家茂の上洛警護のため、幕府が「浪士組ろうしぐみ」を募集したのです。近藤・土方・沖田たち試衛館派とともに、永倉もこれに参加して京都へ向かいました。

試衛館派の近藤勇・沖田総司ら新選組メンバー
試衛館派の近藤勇・沖田総司ら新選組メンバー(イメージ)

ところが京都に着いた直後、浪士組の中で内紛が起きます。発起人の清河八郎きよかわはちろうが「実は尊王攘夷のために動く」と本心を明かし、浪士たちを江戸へ呼び戻そうとしたのです。これに反対した近藤・土方・永倉ら試衛館派と芹沢鴨せりざわかもら水戸派は、京都に残って治安維持に当たることを選びました。

こうして京都・壬生みぶ村の八木邸やぎていを屯所として結成されたのが「壬生浪士組みぶろうしぐみ」。後の新選組の前身です。

ゆうき
ゆうき

壬生浪士組ってなに?新選組と何が違うの?

もぐたろう
もぐたろう

1863年(文久3年)に京都の治安維持のために結成されたのが壬生浪士組で、その同年に会津藩主・松平容保から「新選組」の名を与えられて改称したんだ。つまり壬生浪士組と新選組は、同じ組織の名前違いってこと!永倉新八は最初から創設メンバーとして参加していて、後に二番隊組長になっていくよ。

新選組で「最強の剣士」と称された理由――「一に永倉、二に沖田」

新選組の中で「最強は誰か」――これは現代の歴史ファンにとっても熱く語られる永遠のテーマです。沖田総司、斎藤一、土方歳三……。誰もが思い浮かべる名前は、人によってさまざまでしょう。

そんな中、もっとも信頼できる証言として知られているのが、元新選組隊士・阿部十郎あべじゅうろうのこんな一言です。

「剣術の達人を挙げれば、まず永倉新八。次に沖田総司。三番目に斎藤一

つまり当時実際に新選組で生活し、隊士たちの稽古を間近で見ていた人間の証言では、永倉新八が天才・沖田を上回る最強剣士と評価されていたわけです。

沖田総司は確かに天才肌の剣士でしたが、若くして肺結核を患っていたことで知られています。一方の永倉は健康で、稽古でも実戦でも安定した強さを発揮し続けました。試合では沖田にも勝った記録があり、撃剣師範として隊士たちの稽古をつける立場でもありました。「最強」と称される根拠は、こうした日々の積み重ねにあったのです。

永倉新八
永倉新八

最強なんて言われても、剣ってのは生涯磨き続けるもんだ。俺が強いとすれば、それは脱藩してまで稽古を積んできた数だけだろうよ。沖田の天才には舌を巻いたが、病で長く生きられなかったのが惜しかったな……。

📝 「一に永倉、二に沖田」証言の出典:阿部十郎は元新選組隊士で、後に新選組を離脱して御陵衛士(伊東甲子太郎一派)に加わった人物。明治期にジャーナリストの取材に応じた際の証言が、現在の永倉「最強説」の根拠となっています。離脱者の証言という性質はあるものの、隊士たちの稽古を間近で見ていた当事者の言葉として、史料的価値の高いものとされています。

池田屋事件――刀が折れるまで戦い続けた夜(1864年)

1864年(元治元年)6月5日の夜、京都・三条小橋の旅館「池田屋いけだや」――。新選組の名を一夜にして全国へ轟かせた、あの池田屋事件が起こります。

事の発端は、京都に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士たちが、「京都に火を放ち、その混乱に乗じて天皇を長州へ連れ去る」という計画を立てていたという情報。新選組はこれを察知し、池田屋に集まる志士たちを一網打尽にすべく出動したのです。

このとき隊士の捜索範囲が広く、近藤勇率いる本隊はわずか4名のみで池田屋に踏み込みました。近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助――この4人で、20名以上の志士たちが集まる池田屋に乗り込んだのです。

池田屋事件の場所(京都・三条小橋)
池田屋事件が起きた京都・三条小橋の位置

戦いは凄絶を極めました。沖田は途中で喀血して戦線を離脱、藤堂は額を斬られて重傷を負い、近藤も奮戦するも疲労困憊。そんな中、最後まで戦い抜いたのが永倉新八でした。

永倉はこの夜の戦いで、左手の親指を深く斬られ、防具はぼろぼろになり、そして遂には愛刀の刀身が折れるという壮絶なダメージを負いながらも、最後まで剣を振るい続けたといいます。後年の本人の証言(『新撰組顛末記』)にも、このときの戦いの様子が生々しく記録されています。

永倉新八
永倉新八

刀が折れようと、防具がぼろぼろになろうと、退くわけにはいかなかった。攘夷派の謀略を止めなければ、京都の町が火の海になる。沖田が倒れ、藤堂が倒れ、それでも近藤先生の背中を守れるのは俺しかいない――そう思って振るい続けたんだ。

■ 池田屋事件後の評価と新選組の全盛期

池田屋事件で京都の危機を救った新選組は、幕府や朝廷から大いに評価されました。会津藩主・松平容保まつだいらかたもりを通じて幕府から褒賞金が下賜され、新選組の名は一気に全国へ知れ渡ります。

この事件で活躍した永倉新八は、新選組の組織改編にともない二番隊組長に任命されました。さらに撃剣師範(剣術の指導役)として、隊士たちの稽古をつける立場にもなります。沖田総司(一番隊組長)と並ぶ「剣の双璧」として、新選組の中核を担ったのです。

1864〜1867年頃は、まさに新選組の全盛期。永倉はその中心人物のひとりとして、京都の治安維持に身を捧げました。しかし――栄光の裏で、永倉の心には次第にひとつの違和感が膨らんでいきます。それは、隊長・近藤勇の振る舞いに対する疑念でした。

近藤勇との対立――「同志」か「家臣」か(非行五ヶ条)

新選組の全盛期、永倉の心に芽生え始めた違和感――それは、近藤勇の振る舞いがしだいに「同志のリーダー」から「主君」へと変質していくことへの危惧でした。

新選組には「士道不覚悟しどうふかくご」など、有名な「局中法度きょくちゅうはっと」がありました。違反した隊士には切腹が命じられる――この厳しい規律によって組織を律する仕組みです。しかし、近藤土方による粛清が次第に乱発されるようになり、永倉の目には「これでは仲間が次々に消されていくだけだ」と映っていきます。

もうひとつ大きな問題は、近藤勇の専横ぶりでした。試衛館時代は近藤も含めて「みんな同志」という雰囲気があったのに、新選組が大きくなるにつれて、近藤は自分を主君として、他の隊士を家臣のように扱うようになっていったのです。

そして1864年(元治元年)8月頃、永倉は同じ試衛館派の原田左之助はらださのすけ・斎藤一・島田魁らとともに、ある思い切った行動に出ます。近藤勇の専横を5箇条にまとめた訴状――いわゆる「非行五ヶ条ひこうごかじょう」を、新選組の後ろ盾である会津藩主・松平容保に直訴したのです。

あゆみ
あゆみ

えっ、近藤勇に直接の訴え状を出すって、ものすごく怖くなかったのかしら?仲間を裏切るようなものじゃない?

もぐたろう
もぐたろう

実はね、永倉の行動は近藤への裏切りじゃないんだ。彼は近藤先生への敬意は持ちつつ、粛清で次々と仲間が消されていく状況に義憤を感じて声を上げたんだよ。「俺たちは同志のはず、近藤先生にだけ忠誠を誓ったわけじゃない」という考え方だね。「同志か家臣か」という価値観のぶつかり合い――これは現代の組織でも起こり得る、永遠のテーマだと思うよ。

永倉新八
永倉新八

俺たちは近藤先生の子分じゃねえ。同じ志を持って集まった同志だ。だから言わなきゃならない!このまま黙って見ていたら、仲間が次々に切腹させられてしまう。近藤先生に物申すのは、先生を裏切るためじゃない。新選組という志を守るためなんだ。

松平容保の仲裁により、このときは近藤が「以後改める」と謝罪する形で事は収まりました。しかしこの一件で、永倉と近藤の間には深い亀裂が入ります。「同志」だった2人の絆は、もはや昔のままではいられなくなっていたのです。

そしてこの後、新選組は戊辰戦争という時代の大きな波に飲み込まれ、急速に解体へと向かっていきます。次の章では、壊滅していく新選組の最期と、永倉新八が選び取った新たな道、そして晩年に「語り部」として歴史に名を残すまでをたどっていきましょう。

新選組の崩壊と永別――靖兵隊結成・戊辰戦争

1868年(慶応4年)1月、京都・鳥羽伏見とばふしみで旧幕府軍と新政府軍が激突します。世にいう鳥羽・伏見の戦いとばふしみのたたかい――戊辰戦争の幕開けです。

新選組も旧幕府軍の一翼として参戦しますが、新政府軍の近代化された火力の前にあっけなく敗走。退却の途中、近藤勇は伏見で銃撃を受けて右肩を負傷し、戦線を離脱します。京都で「最強」を誇った新選組は、わずか数日で組織として壊滅状態に追い込まれてしまいました。

戊辰戦争期の土方歳三(洋装の写真)
戊辰戦争期の土方歳三(洋装で写真に収まる姿。新選組末期の象徴的な一枚)

江戸へ撤退した新選組は、3月に「甲陽鎮撫隊こうようちんぶたい」と名を変えて再起を図り、甲州勝沼こうしゅうかつぬま(現在の山梨県甲州市)で新政府軍と戦います。しかしここでも大敗――新選組は完全に解体の危機を迎えました。

そんなとき、永倉と原田左之助は近藤との別離を決意します。近藤が再び「家臣」のように隊士を扱う姿勢を見せたことで、「もう近藤先生の下では戦えない」と判断したのです。永倉は原田や旧試衛館派の仲間とともに、新たに靖兵隊せいへいたいを結成し、新選組から離脱しました。

その後、永倉率いる靖兵隊は北関東で新政府軍と戦い、永倉は会津方面まで転戦します。一方の近藤勇は同年4月に新政府軍に捕らえられ、板橋で斬首――。土方歳三もまた、転戦を続けた末、翌1869年(明治2年)に箱館・五稜郭の戦いで戦死しました。

永倉は近藤が捕らえられたと聞いたとき、板橋の刑場へ面会に行こうとしたと伝わっています。しかし許されることはありませんでした。新選組結成からともに戦ってきた盟友の最期を、永倉は遠くから聞くしかなかったのです。後年、永倉は命日になると近藤の墓を詣で続けたといいます。対立しても、裏切られたと感じても――永倉にとって近藤は、剣を志した原点にいた人だったのでしょう。

永倉新八
永倉新八

近藤先生、土方……。あのとき江戸で別れたのが、最後だったんだな。お前たちと過ごした試衛館の日々が、俺の人生の宝物だった。だからこそ俺は、お前たちの代わりに生き残らなければならぬ。新選組の真実を、後の世に伝えるために――。

■ 油小路事件――かつての仲間と戦う苦しみ

新選組末期のもうひとつの悲劇が、1867年(慶応3年)11月の油小路事件あぶらのこうじじけんです。

新選組の参謀であった伊東甲子太郎いとうかしたろうは、思想の違いから新選組を離脱し、御陵衛士ごりょうえじ(孝明天皇陵を守る部隊)として独立していました。しかし新選組はこれを許さず、伊東を七条油小路の路上で暗殺。さらに遺体を引き取りに来た御陵衛士たちを、待ち伏せで斬りかかったのです。

このとき、現場に出動した新選組側の主力のひとりが、永倉新八でした。御陵衛士の中には、永倉とともに池田屋を戦い抜いた藤堂平助もいました。試衛館時代からの仲間であった藤堂を、永倉自身の隊が斬らねばならない――。永倉にとっては、二度と思い出したくないほど苦い夜になったといいます。

もぐたろう
もぐたろう

「組長」って立場は、自分の感情だけで動けないんだよね。藤堂は永倉にとって試衛館時代からの戦友で、池田屋の生死を共にした仲間だった。それでも組織の命令には逆らえない――。永倉が後に近藤と袂を分かつ決意を固めたのは、こういう「義」と「組織」のぶつかり合いを何度も経験したからだろうね。

「仲間だった人間と戦わなければならない」――この苦しみは、永倉の心に深い傷を残しました。後年の『新撰組顛末記』でも、この事件についての記述は重く、彼が背負った業の深さを今に伝えています。

晩年:新選組の「語り部」として北海道へ(小樽へ移住)

戊辰戦争を生き延びた永倉新八は、明治新政府から罪を問われることなく、東京で剣術指導の職を得ます。そして1870年(明治3年)、北海道松前藩の藩医であった杉村介庵すぎむらかいあんの娘・きねと結婚し、婿養子として松前へ渡ります。1873年(明治6年)に家督を相続し、杉村義衛すぎむらよしえいと名を改めました。

そして1880年代以降、永倉は本格的に北海道へ移り住み、晩年は小樽おたるで過ごすことになります。剣の達人として、北海道庁立小樽中学校(現・小樽潮陵高校)や北海道大学(当時の北海道帝国大学)の剣道部で指導役を務めたと伝えられています。

永倉新八が晩年を過ごした北海道(小樽)
永倉新八は晩年、北海道・小樽に移り住み剣道指導と回顧録執筆に専念した

晩年の永倉にはユニークな逸話も多く残されています。たとえば小樽の映画館で観劇中、近くの席で騒いでいたヤクザの一団を一喝して黙らせたという話。当時すでに70歳を超えていたにもかかわらず、その眼光と気迫はやはり「新選組二番隊組長」のものだったのでしょう。

また、北大剣道部の学生たちが永倉に「池田屋の夜はどんな戦いでしたか」と尋ねると、永倉はおもむろに立ち上がり、木刀で突きの型を披露したといいます。70代の老人とは思えない、鋭い一閃。学生たちがどよめくと、永倉は「剣は体が覚えている。頭は忘れても、手は忘れん」と笑ったそうです。

そして1913年(大正2年)――74歳近くになった永倉は、ついに人生最大の仕事に取り組み始めます。それが『新撰組顛末記』の連載でした。小樽新聞に掲載されたこの回顧録は、新選組元隊士本人が直接語った貴重な証言として、現在でも新選組研究の一次史料とされています。

永倉新八
永倉新八

俺が語らなければ、誰が近藤先生や土方の本当のことを伝える?剣が錆びても、言葉は残る。剣で守れなかった仲間の名誉を、今度は筆で残してやろう――それが、生き残った俺の最後の務めだ。

連載開始から約2年後の1915年(大正4年)1月5日、永倉新八は享年77歳でその生涯を閉じます。新選組の隊士の中で、これほど長く生き、そしてこれほど多くの言葉を後世に残した人物は他にいません。

■ 新撰組顛末記――剣だけでなく「記録」でも歴史を救った

『新撰組顛末記』の歴史的価値は、いくら強調してもしすぎることはありません。なぜなら、新選組という組織は明治新政府にとって「賊軍」であり、敗者の側だったからです。

歴史は勝者が書くもの――もし永倉が筆を執らなかったら、近藤勇・土方歳三・沖田総司といった隊士たちは、単なる「幕府側のテロリスト」として歴史の闇に葬られていたかもしれません。実際、現在の新選組のイメージ(剣に生き義を貫いた集団)の多くは、永倉の証言を基礎にして形作られたものなのです。

つまり永倉新八は、剣で新選組を支えたうえに、晩年は「記録」によって新選組を歴史から救った――。これはおそらく、当時の彼が想像できた以上に大きな功績でした。司馬遼太郎の『燃えよ剣』や子母澤寛の『新選組始末記』など、後世の小説・ドラマもすべて、永倉が残した記録があって初めて成立しています。

新撰組顛末記ってなに?

1913年(大正2年)に小樽新聞で連載された、永倉新八の回顧録です。連載タイトルは当初「永倉新八」でしたが、後に『新撰組顛末記』として出版されました。近藤勇・土方歳三・沖田総司・斎藤一など、新選組隊士の人柄・剣の腕・最期の様子を、永倉本人が直接見聞きした証言として記録しています。後世の作家・研究者が新選組を語るときの一次史料であり、彼の記録なしには現在の新選組像は成り立たなかったといえます。

よくある質問(FAQ)

「最強」の定義によりますが、当時の隊士・阿部十郎が後年「一に永倉、二に沖田、三に斎藤」と証言しており、当時の評価では永倉が最も強い剣士とされていたようです。沖田総司は天才肌でしたが若くして肺結核を患っていたため、健康で安定した強さを発揮し続けた永倉が一段上と見られていた、というのが現在の通説です。

新選組が大きくなるにつれて、近藤勇が「同志のリーダー」から「主君」のように振る舞うようになったこと、そして粛清が乱発され仲間が次々と切腹に追い込まれていったことが理由です。永倉は1864年(元治元年)8月頃に「非行五ヶ条」を会津藩主・松平容保に提出し、近藤の専横を訴えました。これは裏切りではなく、仲間を守ろうとする義侠心からの行動でした。

神道無念流(しんとうむねんりゅう)です。同流派の道場「撃剣館」(岡田十松の道場)で修行し、若くして本目録(中級免許)を授けられました。なお幕末江戸三大道場のひとつとして知られる「練兵館」も同じ神道無念流の道場ですが、永倉が稽古した道場は撃剣館です。突き技・足さばき・実戦的な機動力を重視するスタイルで、後年の証言では永倉の十八番として「龍飛剣」という技も伝えられています。

明治3年(1870年)に北海道松前藩の藩医・杉村介庵の娘と結婚して婿養子となり、明治6年に杉村義衛と改名。後年は北海道の小樽に移り住み、剣術指導に携わりました。映画館でヤクザを一喝した逸話も残されています。1915年(大正4年)1月5日に享年77歳で逝去しました。

1913年(大正2年)に小樽新聞で連載された永倉新八の回顧録です。近藤勇・土方歳三・沖田総司など新選組隊士の人柄や戦いぶりを、本人が直接見聞きした証言として記録しています。新選組研究の一次史料として歴史的価値が極めて高く、現在のほぼすべての新選組像はこの記録を基礎にして形作られています。

近藤勇率いるわずか4名の本隊(近藤・沖田・永倉・藤堂)で20名以上の尊王攘夷派志士に踏み込みました。沖田が喀血して離脱、藤堂が重傷を負うなか、永倉は左手の親指を斬られ、防具がぼろぼろになり、ついには刀身が折れるという壮絶な戦いを繰り広げ、最後まで戦い抜きました。新選組の名を一夜にして全国に轟かせた立役者のひとりです。

まとめ

永倉新八まとめ
  • 1839年(天保10年)生まれ、1915年(大正4年)77歳没。松前藩士の子として生まれ、神道無念流の達人となった
  • 新選組二番隊組長として活躍。当時の証言「一に永倉、二に沖田」と評された最強の剣士
  • 1864年の池田屋事件では刀が折れるまで戦い抜き、新選組の名を天下に知らしめた
  • 近藤勇の専横に対し「非行五ヶ条」を提出。「同志」としての義を貫いた
  • 明治以降は北海道(小樽)で語り部として生き、『新撰組顛末記』で近藤・土方・沖田の実像を後世に伝えた

もぐたろう
もぐたろう

以上、永倉新八のまとめでした!剣の強さだけでなく、仲間への義や、語り部としての役割まで持っていた奥深い人物だったんだね。下の記事で新選組のほかの隊士や幕末の流れもあわせて読んでみてください!

永倉新八の生涯年表
  • 1839年
    誕生(松前藩士・永倉勘次の子として生まれる)
  • 江戸時代
    江戸で岡田十松の撃剣館に入門し神道無念流を修行
  • 1863年
    壬生浪士組として上洛・新選組の二番隊組長に就任
  • 1864年
    池田屋事件で活躍(刀が折れるまで戦い抜く)
  • 1864年
    非行五ヶ条を会津藩主・松平容保に提出(元治元年8月頃)。近藤勇との対立表面化
  • 1867年
    油小路事件(御陵衛士との戦い)
  • 1868年
    靖兵隊を結成・新選組から離脱。戊辰戦争を戦い抜く
  • 明治以降
    北海道(小樽)に移住・杉村義衛と改名。剣術指導に携わる
  • 1913年
    小樽新聞に『新撰組顛末記』を連載開始
  • 1915年
    逝去(享年77歳)

永倉新八・新選組についてもっと詳しく知りたい人へ

もぐたろう
もぐたろう

永倉新八・新選組についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!

①テストや授業でサッと確認したいなら|永倉本人の証言録

新撰組顛末記

永倉新八(口述) 著|新人物文庫


②新選組の人間ドラマをじっくり読みたいなら|司馬遼太郎の傑作

新選組血風録 新装版

司馬遼太郎 著|角川文庫


③地図で場面を追いながら読みたいなら|ビジュアル版顛末記

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「永倉新八」(2026年5月確認)
コトバンク「永倉新八」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
永倉新八口述・吉島力記録『新撰組顛末記』新人物文庫

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

スポンサーリンク
【大事なお知らせ】YouTube始めました!!

2024年2月、YouTubeチャンネル「まなれきドットコムちゃんねる」を開設しました。

まだ動画は少ないですが、学生や大人の学び直しに役立つ動画をたくさん増やしていくので、ぜひ下のアイコンからチャンネル登録、よろしくお願いいたします。

チャンネル登録する

この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

もぐたろうをフォローする
未分類