サン=フェリペ号事件を簡単にわかりやすく解説【秀吉ブチギレで26聖人殉教に発展】

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遭難するガレオン船
もぐたろう
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今回は1596年に起きたサン=フェリペ号事件と、その後に起きた26聖人殉教事件について、わかりやすく丁寧に解説していくね!

この記事を読んでわかること
  • サン=フェリペ号事件ってそもそもどんな事件?
  • サン=フェリペ号事件はなぜ起きたの?
  • サン=フェリペ号事件は、日本にどんな影響を与えたの?
  • サン=フェリペ号事件の後に起きた26聖人殉教事件ってどんな事件だったの?
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サン=フェリペ号事件とは

サン=フェリペ号事件とは、1596年にスペイン船のサン=フェリペ号が漂流して、土佐に流れ着いた事件のことを言います。

サン=フェリペ号事件は、漂流そのものというよりも、サン=フェリペ号の乗船員がトンデモない爆弾発言をしてしまい、これに豊臣秀吉とよとみひでよしがブチギレたことで大きな事件へと発展していきました。

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サン=フェリペ号の漂流

サン=フェリペ号は、マニラ(現フィリピンの首都)で貿易品や財宝をたっぷり積み込み、メキシコへ向かうところでした。

・・・ところが航海の途中、台風が直撃し、船が大破。舵を失ったサン=フェリペ号は漂流し、幸運にも土佐へと流れ着いたのです。

スペインの航海ルート

1400年代になると航海技術の発展により、ヨーロッパ諸国が海を渡って世界中へ進出した大航海時代が始まります。

そして、大航海時代の先駆けとなった国がポルトガル・スペインでした。

ポルトガルがアフリカ→インド→東南・東アジアの航海ルートを発見すると、

スペインは対抗して、メキシコ→東南・東アジアと太平洋を横断するルートを発見しました。

サン=フェリペ号は、スペインの航海ルートだったマニラからメキシコへ向かう途中に漂流し、日本に流れ着いたのです。

土佐の領主だった長宗我部元親ちょうそかべもとちかが、秀吉にサン=フェリペ号の件を報告すると、秀吉は近臣の増田長盛ましたながもりを派遣し、現地調査を開始しました。

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水先案内人の爆弾発言

増田長盛が、サン=フェリペ号の乗船員と話していると、口論となってヒートアップし、こんなやりとりが交わされました。

スペインは世界各地に領地を持つ大きな国なんだ!日本なんて所詮しょせん小さな国さ!!

増田長盛
増田長盛

ほほう。

なぜスペインは広大な領地を手に入れることができたんだ?

まず、その土地でキリスト教を広めるんだ。そしてキリスト教徒が増え始めたら反乱を起こさせて、その混乱に乗じて領地を奪い取る・・・っていうのがお決まりのパターンさ!どうだビビったかい!?

増田長盛
増田長盛

ふーん。じゃあ、そうやって秀吉様に報告するから。

お前、どうなっても知らねーぞ。

増田長盛
増田長盛

秀吉様は、キリスト教に強い警戒心を持ってるし、この話を伝えたら絶対にブチギレするだろうなぁ・・・。

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豊臣秀吉、ブチギレ

豊臣秀吉は増田長盛から報告を聞くと、案の定ブチギレ。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

俺は前々からキリスト教は危険だと思っていたが、今回の報告を聞いて確信した。

スペインやポルトガルは、日本でキリスト教を広めた後、日本へ侵略するつもりだ。

俺に逆らったらどうなるか覚悟しとけ・・・!

こうしてサン=フェリペ号の漂流は、ただの漂流事件から、天下人の豊臣秀吉を動かした大事件へと発展していきました。

※ちなみに、増田長盛とサン=フェリペ号乗船員とのやりとり内容には実は諸説があります。

もともと秀吉はキリスト教に対して不信感・警戒心を抱いており、1587年にバテレン追放令を出して、バテレン(宣教師)が日本に滞在することを禁止していました。

・・・ただ、バテレン追放令を出しても、秀吉は不法入国するバテレンを厳しく取り締まることはしませんでした。

・・・というのも、バテレンたちはポルトガルやスペインの貿易船に乗ってやってきたので、取り締まりを厳しくすると、貿易船そのものが日本に来なくなってしまうかもしれないからです。

ポルトガル・スペインとの貿易(南蛮貿易)は、日本に中国産生糸をメインとした貴重な商品やヨーロッパの知識・技術をもたらしてくれました。

なので、秀吉は内心ではキリスト教をこころよく思っていなくても、バテレンを厳しく取り締まることで貿易がストップしてしまうことを恐れたのです。

実際、1593年に宣教師のペドロ=バプチスタが秀吉との謁見を許されていたし、サン=フェリペ号事件が起きた1596年当時も、ペドロ=バプチスタは日本に滞在することを許されていました。

ところが、サン=フェリペ号の乗船員が日本侵略をほのめかす発言をしたことで、秀吉の態度は一変します。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

とりあえず、京都とか大阪にいるキリスト教徒、皆◯しにしてやんよ。

あ、ペドロ=バプチスタお前もだからな。滞在許可を与えてたけど、気が変わったからやっぱり○ね。

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26聖人殉教

こうして京都や大阪では24人のキリスト教徒が捕えられ、拷問を受けました。

キリスト教徒らは、耳を切り落とされ、両手を縛られ、首に縄をかけられたまま、京都・大阪の町々で大衆の前に晒されました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

お前ら、このまま簡単に逝けると思うなよ。

処刑は長崎で行う。長崎までの道中、お前たちを大衆に晒して、キリスト教を信仰するとどうなるか民たちに知らしめてやるわ!

拷問を受けた24人は、ほとんど素足のまま下関まで陸路で運ばれ、そこから船に乗って博多を経由して1597年2月に長崎に到着しました。

道中、2人のキリスト教徒が新たに捕えられ、処刑されるキリスト教徒は26名となりました。

処刑場はキリシタンの意向により、長崎の街を一望できる小さな丘(現在の西坂公園)に決まり、処刑場には26個の十字架が掲げられます。

1597年2月5日、捕えられた26名はそれぞれ十字架に縛り付けられ、両脇を脇で一斉に突き刺され全員が命を落としました。

26聖人殉教
26聖人殉教の様子を描いた絵画

この事件はすぐにヨーロッパにも伝えられ、カトリック教会の一大事件として語り継がれました。

しばらく経った1862年、ローマ教皇は殉教じゅんきょうした26人に聖人の位を与え、処刑が行われ2月5日をカトリック教徒らの祝日として定めました。

そのため、長崎で起きたこの処刑事件は、世間では26聖人殉教と呼ばれています。

殉教とは?

キリスト教の信仰のため、迫害や弾圧を受けても教えを守り抜いて命を落とすこと。

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サン=フェリペ号事件が日本に与えた影響

サン=フェリペ号事件は、日本がキリスト教への弾圧を強めるきっかけとなった事件でした。

1587年に出されたバテレン追放令は、秀吉が南蛮貿易の中断を恐れたため、その効果はイマイチでした。

・・・が、サン=フェリペ号事件では、ブチギレた秀吉によって日本で初めてのキリスト教徒の処刑(26聖人殉教)が行われました。

サン=フェリペ号事件以降、日本のキリスト教弾圧は少しずつ強まるようになります。

江戸時代に入ると、1614年にキリスト教徒の国外追放、1622年(元和8年)には再びキリスト教徒らの大処刑(元和の大殉教)が行われました。

そして、1637年に起きた島原の乱によって、キリスト教の信仰は全面禁止され、日本は完全な鎖国政策に踏み切ることになります。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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