今回は、1587年に豊臣秀吉が出したバテレン追放令について、わかりやすく丁寧に解説してくね!
バテレン追放令とは
バテレン追放令の『バテレン』っていうのは、キリスト教の神父(司祭)を意味しています。
つまりバテレン追放令とは、キリスト教の神父を国外追放する命令・・・という意味になります。
バテレン追放令は、キリスト教の日本への悪影響を懸念した豊臣秀吉によって1587年に出されました。
バテレン追放令は日本初のキリスト教に対する禁教令であり、その後の日本のキリスト教への対応の基礎にもなった・・・という点で歴史的にも大事なキーワードです。(だから教科書にも載っている!)
バテレン追放令が出された時代背景
そもそもキリスト教は、1540年頃、ヨーロッパから九州へやってきたイエズス会の宣教師たちによって日本に伝わりました。
当時、天下人だった織田信長は、このキリスト教を好意的に受け止めました。
・・・というのも、宣教師に抜擢された神父たちは貿易船に乗ってやってきたので、「宣教師がたくさん来る」=「貿易でいろんなものが手に入る」という関係があったからです。
つまり、
イエズス会の宣教師は、貿易品を餌にして日本へキリスト教を広める
日本は、キリスト教を受け入れる代わりに貿易品やヨーロッパの文化・技術を手にいれる
というWin-Winの関係が成立していたのです。
1540年代以降、ポルトガルと日本との間で盛んに貿易船が往来するようになりました。(この貿易のことを『南蛮貿易』と言います。)
※少し遅れて、後にスペイン船も日本にやってくるようになります。
この状況は、織田信長が本能寺の変で亡くなった1582年以降も続き、豊臣秀吉も基本的にはキリスト教をウェルカムな姿勢で迎え入れていました。
1586年、豊臣秀吉は宣教師コレリョを呼び寄せ、キリスト教の布教許可証を渡しました。
キリスト教は権力者である豊臣秀吉からも公式に認められていたのです。
豊臣秀吉は、この時すでに中国や朝鮮への出兵計画を考えていて、布教許可の見返りとしてコレリョに対して『俺が中国・朝鮮に出兵の際は、船や船員を提供して助けてくれよな!』と支援要請を行ったと言われています。
豊臣秀吉にとってキリスト教は、あくまで政治・経済・外交の交渉カードの1つだったんだね。
突然出されたバテレン追放令
・・・ところがその翌年(1587年)、豊臣秀吉は突如としてバテレン追放令を出すことになります。
ちょうど1586年というのは、豊臣秀吉が天下統一のため、九州の覇者だった島津氏を倒して九州を平定しようとしているタイミングでした。
1587年、九州平定を成し遂げた豊臣秀吉は、勝利の凱旋のため自ら九州へ足を運び、そこでキリスト教等のが多くいる地域やそこに住む人々の様子を目の当たりにします。
おいおい、キリスト教のせいで人々の生活や町の様子がメチャクチャになってるじゃねーか!
こんな邪教もう許さん。神父どもなんて全員日本から追放してやんよ!!
九州に滞在していた豊臣秀吉は、突如、バテレン追放令を出して、神父(バテレン)たちに早期に日本から立ち去るよう命じたのです。
なぜ豊臣秀吉は、わずか1年でキリスト教に対する方針を180度変えてしまったのか・・・?
それは・・・
豊臣秀吉にとってキリスト教の利用価値より、そのデメリット(副作用)が上回ってしまった
からでした。
キリスト教にまつわる社会問題
キリスト教のデメリット(副作用)って具体的にどんなものだったのかしら?
キリスト教が日本に広く普及し始めると、実は色々な社会問題が起こるようになったんだ。
今回はその一部を紹介しておくね!
問題①:長崎がイエズス会に支配される
長崎という場所は、もともと貧しい農村でした。
ところが、長崎を治めていたキリシタン大名の大村純忠が、ポルトガル船の来航を受け入れると長崎の様子は一変します。
長崎が良港であることが発見され、以降はポルトガルとの重要な貿易拠点として瞬く間に大きな町へと発展していったのです。
大村純忠は、長崎や大村周辺に領地を持っていた大名で、周囲の大名たちと激しい争いを繰り広げていました。
ぐぬぬ・・・。戦乱を勝ち抜くには、ポルトガルに協力を求めるしかあるまい。
決して強い大名とは言えなかった大村純忠は、生き残り戦略としてポルトガルに支援を求めるようになり、1580年には、支援の見返りとして長崎の領地をイエズス会に差し出してしまいます。
長崎では、ポルトガル人が制限を受けることなく自由気ままに行動することができ、長崎はキリスト教の布教活動の拠点となっていきました。
長崎の様子は、見る人が見ればポルトガルに侵略されていると感じてもおかしくないような光景でした。
問題②:日本人が奴隷として世界各国に売られる
ポルトガル人は、以前からアフリカや東南アジアで奴隷貿易を行なっており、日本でも日本人を奴隷として各地へ売り飛ばす非人道行為が行われていました。
奴隷貿易の拠点となったのはポルトガル人が多くいる場所、つまり長崎などの九州北部であり、キリスト教が広く布教されている地域(今でいう長崎県)でした。
※奴隷貿易が日本への布教活動の障害になると考えたイエズス会は、ポルトガルに働きかけて1571年に日本人の奴隷貿易禁止令を出させましたが、効果はあまりなく、ポルトガル商人たちは日本人の奴隷貿易で多くの利益を手に入れていました。
問題③:キリスト教徒に神社仏閣が破壊されまくる
キリスト教は偶像崇拝(※)を禁止する宗教であったため、キリスト教が広く布教された地域では、神社仏閣がキリスト教徒に破壊されるという事件が頻発するようになりました。
※偶像崇拝:神仏の像を信仰の対象として崇めること
そのため、神道や仏教を信仰する人々らはキリスト教を強く批判し、その声は当然、豊臣秀吉にも届くようになりました。
日本とキリスト教の風習が全く違うこともまた、大きな軋轢を生みました。
例えばキリスト教では、夫婦関係は一夫一妻制が基本です。
ところが当時の日本は、確かに本妻は1人ですが、その他に妾をもつことは当然のこととされ、一夫多妻制のような考え方が当たり前でした。
こんな逸話があります。
豊臣秀吉が九州に滞在中、その側近が自分の評価を上げようと美女を見つけて「秀吉様の妾にならないか?」と持ちかけましたが、頑なに拒まれ美女探しに失敗してしまいました。
この側近は「美女たちはキリシタンで、一夫一妻を守り抜くため秀吉様の妾になることを拒んだんだ!」と考え、秀吉に事情を話すと、秀吉はこれにブチギレ。
天下人の俺よりキリスト教を選ぶとは何事だ!
キリスト教が広まれば、俺に逆らう奴はさらに増えるはずだから、一刻も早く根絶やしにせねばならん!!
この出来事が、秀吉がバテレン追放令を決めた直接のきっかけになった・・・という説もあります。
直接的なきっかけはわかりませんが、秀吉がこのようなキリスト教にまつわる諸問題を重く受け止めて出されたのがバテレン追放令だったのです。
バテレン追放令の内容
次にバテレン追放令の内容を現代語訳で紹介しておきます。
1 日本は神の国であるから、キリスト教の国から邪教を授かることは、大変よろしくないことである。
2 (キリシタン大名が)国郡の者たちを信者とし、神社仏閣を打ち壊しているが、これは前代未聞のことである。(全国の領地は秀吉公のものであり)諸国の大名に領地を治めさせているのは一時的なことである。天下からの法律をよく守り、諸事について法律の趣旨を承知しておくべきなのに、大名たちが勝手なことをするのはけしからぬことである。
3 宣教師たちはその知恵によって信者を獲得しているかと思ったが、前に書いたとおり日本の仏教を破壊しているのはけしからぬことであるから、宣教師を日本に置いておくことはできないので、今日から20日以内に準備をして帰国せよ。・・・(略)
4 (ポルトガルの)貿易船は商売のために来ているから、(バテレン追放令とは)別の話であるので、今後も商売を続けよ。
5 今後は仏教の妨げをしない者であれば、商人はもちろん、誰でもキリスト教の国から行き来しても良い。
引用元:バテレン追放令の原文と現代語訳
バテレン追放令の内容で重要なのは、「バテレン(宣教師)が日本に滞在することは絶対許さない。で、でも、貿易商人たちはウェルカムだから、そ、そこんとこ勘違いしないでよね・・・!」っていうツンデレじみた内容になっている点です。
豊臣秀吉は、本心ではバテレンを根絶やしにしたかったかもしれませんが、南蛮貿易が日本に貴重な商品や知識をもたらしていたので、貿易船の来航まで禁止にすることはできなかったのです。
単純にバテレンを追放するだけなら、項目4・5は不要です。
あえて「バテレン以外なら日本に来ていいよ!」なんて書いたのは、バテレンを追放することで貿易船がまったく来なくなってしまうと、それはそれで困ったことになってしまうからです。
ちなみに、バテレン追放令が出された翌年(1588年)、九州平定を終えた秀吉は大村純忠がイエズス会に渡してしまった長崎を直轄領として、しっかりとイエズス会から取り戻しています。
バテレンを追放したいのに、長崎をイエズス会に渡したままにすることはできないからな。
当然、直轄領となった長崎でポルトガル船が貿易をするのはウェルカムだぜ!
バテレン追放令の影響
結論から言うと、バテレン追放令の効果はイマイチでした。
というのも、バテレンたちは商人を装ったり、貿易に紛れて密かに入国したりと、バテレン追放令への対策を講じて日本に入り込み、キリスト教の布教活動を続けていたからです。
※キリスト教を完全にシャットアウトするには貿易船ごと日本への往来を禁止にする必要がありましたが、江戸時代に鎖国政策が始まるまで、貿易船の往来が禁止されることはありませんでした。
バテレン追放令の効果は確かにイマイチでしたが、秀吉はバテレン追放令を出した後はアンチキリスト教の立場を明確に示すようになります。
1596年に起きたサン=フェリペ号事件では、スペイン人がキリスト教を利用しての日本侵略を仄めかす発言をすると、秀吉はこれに大激怒し、キリスト教徒26名を長崎で処刑しました。(26聖人殉教)
日本で権力者(当時は豊臣秀吉)がキリスト教を理由に処刑を断行したのは、この時が初めてのことでした。
効果がイマイチだったとはいえ、バテレン追放令は日本が初めて出したキリスト教の禁教令という点で、やはり重要な政策であったと言えます。
さらに、バテレン追放令にある「キリスト教はダメだけど、貿易はいいよ!」という考え方は、その後の日本の基本的な外交スタンスとなり、江戸時代になっても引き継がれました。
そして年月が経つにつれ、次第に「キリスト教はダメ!」って部分に重きを置くようになり、鎖国政策が行われるようになるのです。
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