今回は、鳥羽天皇について紹介します。鳥羽天皇は平安時代末期、白河法皇に引き続き院政を行った天皇として有名な天皇です。
鳥羽天皇の系図
鳥羽天皇は、堀河天皇が29歳で若くして亡くなったため1107年に即位した天皇です。当時は白河法皇が院政を行い政治の実権を握っていたため、生前の堀河天皇に政治の実権はもはやありませんでした。(白河天皇に実権を奪われた堀河天皇は、歌の世界に没頭してゆきます。)
鳥羽天皇は堀河天皇の息子であり、即位当時わずか5歳。政治など行えるはずもなく、引き続き政治の実権は白河法皇が握ることになります。鳥羽天皇と白河法皇は孫と祖父の関係であり、鳥羽天皇が成長した後も白河法皇に逆らうことはできませんでした。以下の記事で白河法皇が院政を行った理由を紹介しましたが、白河法皇の院政は鳥羽天皇の時代に本格化します。
白河法皇は1129年に亡くなりますが、それまでの約20年の間、鳥羽天皇(1123年以降は鳥羽上皇)は終始、白河法皇に抑圧されていたことになります。
鳥羽天皇と藤原璋子
1117年、白河法皇は養子にしていた藤原璋子(ふじわらのたまこ)という人物を鳥羽天皇に入内させます。鳥羽天皇は15歳、藤原璋子は17歳でした。
別の記事で詳しく紹介したいと考えていますが、この藤原璋子という人物は実に興味深い人物です。藤原璋子は非常に美人だったことで有名で、白河法皇が非常に寵愛していた養子の1人です。ところが藤原璋子と白河法皇は養父と養子の関係を飛び越えて、男女の関係にあったと当時もっぱらの噂でした。白河法皇が手をつけた女として噂の立っていた藤原璋子の評判は決して良いものではありませんでした。
白河法皇は、そんな藤原璋子を孫の鳥羽天皇に入内させたのです。もし噂が事実だとすれば、トンデモない話です。白河法皇は自分と性的関係を持った女性を孫に嫁がせた・・・ということになります。しかもこの噂、突拍子も無い噂というわけではなく、それなりに信ぴょう性のある噂だったようで、成人後の鳥羽天皇の心の中は穏やかではなかったことでしょう。
鳥羽天皇の心境は非常に複雑でした。祖父と性的関係を持った妃ですが、一方で藤原璋子はとても美人な女性でした。鳥羽天皇は生涯、美しきものを非常に好む性格だったようで、藤原璋子との間にたくさんの子を授かります。
鳥羽上皇と崇徳天皇の微妙な関係
そんな子供達の中でも長男の顕仁(あきひと)親王は1123年、崇徳(すとく)天皇として即位します。鳥羽天皇は譲位し上皇となりますが、白河法皇が健在だったため鳥羽上皇には政治の実権ありませんでした。天皇の時代も上皇の時代も何もすることができなかった鳥羽上皇は、心の中で白河法皇に強い不満を抱いていました。崇徳天皇の即位も白河法皇の意向により行われたものであり、鳥羽上皇はただ黙って白河法皇に従うしかありませんでした。
藤原璋子に良からぬ噂があるという話をしましたが、実は崇徳天皇は鳥羽天皇の子でなく、白河法皇と藤原璋子との間に生まれた子である・・・との噂がありました。現に鳥羽上皇は崇徳天皇に対しては嫌悪感を抱いており、おそらくこの噂は本当であったのだろうと思われます。この噂が正しいとすれば、白河法皇にとって鳥羽天皇は寵愛する藤原璋子の子の崇徳天皇が即位するまでの皇位継承のつなぎ役であり、白河法皇は当初から鳥羽上皇に政治の実権を渡す気はなかったことになります。
これは鳥羽上皇にとって非常に屈辱的なことです。白河法皇と性的な関係を持った女を妃とし、天皇として一切政治の実権を握ることもないままに白河法皇の隠し子かもしれない崇徳天皇に譲位してしまうなど、一国家の君主としてこれほどの辱めはないでしょう。
鳥羽上皇の院政
不遇に陥っていた鳥羽上皇ですが1129年、白河法皇が亡くなることで鳥羽上皇にも転機が訪れます。
白河法皇の死後、鳥羽上皇はそれまで溜めに溜めた不満を爆発させるかのように院政を開始します。それまで白河法皇の下で院近臣として勤めていた多くの者をクビにして、新体制を築き上げました。
白河法皇の死後、政治の実権を握れるようになった鳥羽上皇は、それまでの白河法皇のしがらみを絶つべく様々な試みを実施します。
藤原得子の入内
その1つは、藤原得子(なり藤原璋子こ)の入内です。藤原得子は、藤原璋子と同様に美人で有名な人物であり、鳥羽上皇が非常に寵愛していた女性でした。鳥羽上皇は1133年頃から藤原得子を寵愛するようになり、藤原得子は1135年に子まで産みました。
こうして、鳥羽上皇の心は次第に藤原璋子から離れていきます。それと同時に藤原璋子との子であった崇徳天皇との関係も微妙なものになっていきます。
近衛天皇の即位
1139年、鳥羽上皇は藤原得子との間に念願の男子を出産することになります。すでに藤原璋子との関係が冷却していた鳥羽上皇は、次期天皇を藤原得子との間に生まれた子にしようと考えていました。こうして1141年、わずか3歳の近衛(このえ)天皇が即位することになります。
この近衛天皇即位は、鳥羽上皇と崇徳天皇の関係を決定的に悪化させ、1156年に起こる有名な保元の乱の火種を作ることになります。
鳥羽上皇の策略 ー崇徳天皇外しー
崇徳天皇と近衛天皇の関係はちょっと複雑で、異母兄弟でありながらも養父と養子の関係でもありました。
院政という政治スタイルは、「天皇の父」という立場で政治を行うというもの。崇徳天皇から見れば、異母兄弟の近衛天皇が即位しても、崇徳天皇は近衛天皇の父ではないので、上皇になっても院政を行うことはできません。つまり近衛天皇の即位は、自らの政治権限が剥奪されるに等しい行為であり、断じてこれを容認することはできません。
ところが、近衛天皇の養母が崇徳天皇の妃だったので、間接的に養子と養父の関係とも捉えることが可能でした。そう考えると、近衛天皇の即位は崇徳天皇が院政を行う契機となり、崇徳天皇にとっても悪い話ではありません。
このような微妙な人間関係を鳥羽上皇は利用しました。
崇徳天皇の浅はかさ
具体的にどのようなやりとりがあったかは不明ですが、崇徳天皇は「近衛天皇とは養父の関係であるから将来的に自ら院政を行うことができるはずだ」と考えます。
ところが1141年、いざ崇徳天皇譲位になると、その譲位は「皇太弟」であった近衛天皇が即位するという形式で行われます。これに崇徳天皇は驚愕します。皇太弟が近衛天皇として即位するということは、崇徳天皇と近衛天皇の関係はあくまで異母兄弟であり、これでは崇徳天皇は院政を行うことはできません。
養子と養父の関係から「皇太子」の近衛天皇が即位するとばかり思っていた崇徳天皇は、まんまと鳥羽上皇に謀られたわけです。
しかし、崇徳天皇も浅はかでした。鳥羽上皇の心が藤原璋子から離れ、寵愛する藤原得子に子が生まれた今、鳥羽上皇が簡単に藤原璋子の子である崇徳天皇を天皇にしようと考えるはずがありません。崇徳天皇には、鳥羽上皇の複雑な心境を見抜く洞察心が欠けていたように思います。
いずれにせよ、上皇となった崇徳の政治実権は剥奪され、近衛天皇の父である鳥羽上皇が引き続き政治の実権を握るようになります。1155年に近衛天皇が亡くなると、諸事情により次は崇徳天皇とは同母弟である後白河天皇が即位しますが、崇徳上皇の状況は変わりませんでした。
保元の乱へ
1156年、権力者となっていた鳥羽法皇(1141年に出家した)が亡くなることで朝廷内の緊張感が高まります。
崇徳上皇には政治の実権はもはやなく、一方の後白河天皇は今様という遊びにハマってばかりで、政治に対する意欲があまりありませんでした。
このような権力者不在の朝廷の中で、摂関家や平氏源氏一門の内部対立など様々な対抗勢力が、崇徳上皇と後白河天皇を擁立し始めました。
こうして、様々な勢力が崇徳上皇派と後白河天皇派に分かれて起こった内乱が、保元の乱と呼ばれる乱になります。
絶対的権力者が失われ、世は平安時代末期となり、天皇、上皇、武士、摂関家それぞれの思惑が渦巻く混沌とした時代へと突入していくのです。
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