今回は、安土・桃山時代(1550年前後)に行われていた南蛮貿易について、わかりやすく丁寧に解説していくね!
南蛮貿易とは
南蛮貿易とは、東南アジアに進出したスペイン・ポルトガルと日本の間で行われた貿易のことを言います。
日本では、いつも南の方角からやってくるスペイン・ポルトガル人のことを南蛮人と呼んだので、南蛮貿易と言います。
※南蛮はもともと南方の未開人を指す言葉でしたが、次第に南方から異国の文明・知識・商品を持ち込んでくるスペイン・ポルトガル人のことを南蛮と呼ぶようになりました。
南蛮貿易によってヨーロッパの文化・技術・知識が日本へもたらされ、その後の日本に大きな影響を与えることになりました。
【朗報?】ヨーロッパ人がアジアにやってくる
南蛮貿易が行われた時代背景を理解するため、まずは日本にわざわざやってきたスペイン・ポルトガルの事情を確認しておきましょう!
1400年代、ヨーロッパでは航海スキルや造船技術が発展し、長距離の航海が行われるようになりました。
特に航海が盛んだったのは、大西洋に面していたスペイン・ポルトガルでした。
ポルトガルはアフリカ・インド経由、スペインはメキシコ経由で、東南・東アジアに進出しました。
スペイン・ポルトガルが東南・東アジアを目指した理由は大きく3つありました。
主な理由①:ヨーロッパで人気だった東南アジアの香辛料を安くゲットできる!
主な理由②:イスラム教に対抗してキリスト教を世界に布教する!
主な理由③:ヨーロッパではアジアは黄金の国『ジパング』がある憧れの地だった。
ポルトガル・スペインは世界各地に拠点を持つようになり、1500年代に入ると東南・東アジアにも拠点が設けられ、その拠点から日本へも頻繁に訪れるようになったのです。
ポルトガルは、中国(明)のマカオでの居住が認められ、
スペインは、マニラ(今のフィリピン首都)に町を築いて東南アジアの拠点としました。
南蛮貿易で取引された商品
日本へ頻繁にやってくるようになったポルトガル・スペイン船は、日本と盛んに貿易を行うようになり、南蛮貿易が始まります。
主要な貿易品は、中国産の生糸や絹織物。
※絹織物:生糸で作られた製品(衣類など)
日本はポルトガル・スペイン船から主に生糸・絹織物を輸入し、その対価として銀を輸出しました。
生糸・絹織物は昔から中国の特産品で、日本でも西陣織などに使われる大人気の品でした。
生糸は英語でシルク(Silk)。中国とヨーロッパを結ぶ貿易路を昔からシルクロードと呼ぶのも、中国の生糸が古くから特産品として世界各地に輸出されていたからなんだ。
南蛮貿易によって輸入された生糸・絹織物は大繁盛し、ポルトガル・スペイン船はその代わりとして大量の銀を母国に持ち帰りました。
中国産の生糸がたくさん輸入されたってことはわかったよ。
でも、別にポルトガルとかスペインに頼らなくても直接中国と取引すれば良くない?隣の国なんだしさ。
良い質問だね!
確かに中国と直接取引すれば、南蛮貿易なんてする必要はありません。
・・・ただ、当時は中国と直接取引できない事情があったのです。
南蛮貿易のきっかけとなった明の海禁政策
日本が、中国と直接生糸・絹織物の取引をできなかったのは、中国(明)が日本との貿易を禁止していたからでした。
・・・ところが、ポルトガル・スペイン船が頻繁に明にやってくるようになると、富を求めて多くの人々がポルトガル・スペイン船と密貿易を行うようになります。
1567年、増え続ける密輸者の取り締まりに限界を感じた明は、海禁政策を一部緩和。
緩和の結果、明はマカオ・マニラとの貿易制限が撤廃され、明とポルトガル・スペインとの間で貿易が盛んに行われるようになりました。
すると、ポルトガル・スペインの商人らはあることに気付きます。
日本人は、中国産の生糸・絹織物をめっちゃ欲しがってるけど、明の海禁政策で密輸しかできない。
一方で、俺たちは明と自由に貿易ができるようになった。
ってことは、中国で生糸・絹織物を大量に仕入れて日本に高値で転売すれば大儲けできるじゃん!!
ポルトガル・スペインは今風に言えば「日本が欲しがっている生糸・絹織物を、中国から仕入れて売っていた転売ヤー」ってことになるね。
南蛮貿易が日本にもたらしたもの
南蛮貿易は、中国産の生糸・絹織物以外にも、ヨーロッパの様々な文物が日本に伝わるきっかけとなり、日本人の生活・文化にも大きな影響を与えました。(南蛮文化)
特に南蛮貿易とともに伝えられたキリスト教は、日本に大きな影響を与えました。
ポルトガル・スペイン船が東・東南アジアにやってきた理由の1つは「キリスト教の布教活動」でした。
そのため、貿易船にはキリスト教の宣教師が多く乗っていて、南蛮貿易と同時並行で九州を中心に日本でもキリスト教が広く伝わるようになりました。
織田信長は宣教師の布教活動を黙認し、信長の後を継いだ豊臣秀吉も当初はキリスト教が日本に広まるのを認めていました。
ポルトガル・スペイン船の目的の1つがキリスト教の布教活動だったから、それを妨害することで、貴重な文物を伝えてくれる南蛮貿易が途絶えてしまうことを恐れたんだ。
しかし、キリスト教の布教によって九州の人々の生活や文化が大きく変わってしまったことを知った豊臣秀吉は、キリスト教を警戒するようになり、1587年にバテレン追放令を出し、以後、日本ではキリスト教の取り締まりが少しずつ厳しくなっていきます。
南蛮貿易の終焉
江戸時代に入っても初代将軍の徳川家康は海外との交易に積極的で、これまでは日本に貿易船がやってくるだけでしたが、逆に日本からも幕府が認めた船(朱印船)が東南アジアへどんどん向かうようになりました。
※朱印船を中心として南蛮人との貿易のことを朱印船貿易と言います。
しかし、1616年に徳川家康が亡くなると、江戸幕府はキリスト教の布教を防ぐため鎖国政策を行うようになります。
1624年にスペイン船、1639年にポルトガル船の来航を禁じたことで、南蛮人(スペイン・ポルトガル人)は日本に来ることができなくなり、南蛮貿易は終焉を迎えることになります。
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