今回で聖徳太子物語は最終話となります。
【いままでのおさらい】
第1話:聖徳太子登場の裏には、どろどろとした皇位継承問題があった。
第2話:遣隋使派遣してみたら隋にフルボッコにされた。
第3話:隋を見習って国づくりを改めよう。17条憲法と冠位十二階の制定
第4話:2回目の遣隋使を派遣したら隋皇帝がブチ切れた
今回は、聖徳太子亡き後の話と、聖徳太子にまつわる話を少しだけしていきます。
世代交代の時代
聖徳太子は622年に逝去した。それに続き、推古天皇、蘇我馬子も逝去し、時代は新たな局面を迎えていた。
世代交代はこんな感じで行われました。
聖徳太子(622年没)→息子の山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)
推古天皇(628年没)→舒明天皇
蘇我馬子(626年没)→息子の蘇我蝦夷
再び勃発!皇位継承問題
推古天皇亡き後、皇位継承問題が起こります。推古天皇即位の時にも皇位継承問題で揉めていました(詳しくは聖徳太子物語第2話をどうぞ)が、また継承問題が起こってしまいました。
飛鳥時代は、天皇の代替わりごとに必ず何か問題が発生しています(汗)。これは、皇位継承のルールがあいまいで、皇位継承にはその時々の有力豪族の擁立が必要だったからです。(このことは、仏教をめぐる日本最古の戦い!蘇我氏と物部氏という記事ですでにお話ししました)
どっちが次の天皇だ!?山背大兄皇子vs田村皇子
皇位継承問題は、上の図のとおりの山背大兄皇子vs田村皇子(舒明天皇)という図式でした。
皇位継承問題は、天皇になる予定だった聖徳太子が早くして亡くなってしまったことが原因の1つとしてあります。しかし、それなら聖徳太子の息子である山背大兄皇子が次期天皇となれば問題なかったはずです。
実際に、山背大兄皇子が天皇になると皆考えていたようですが、そうはなりませんでしたなぜでしょうか?
推古天皇の遺言 ~譲位制度への第1歩~
現代の天皇制度では、皇室典範に基づき、天皇が皇太子へ譲位することにより皇位継承が行われます。譲位とは、天皇自らが天皇の身分を別のものに譲り渡すことを言います。
当時の天皇制度では、皇位継承には群臣の擁立が必要でした。特に、強大な権力を持つ蘇我氏の影響はとても大きいものでした。
ところが、山背大兄皇子vs田村皇子では、蘇我氏の影響のほかに、推古天皇の遺言という大きい要素が皇位継承問題に加えられました。
これは、現代の天皇制度に用いられている譲位制度の確立に向けた第一歩だと私は考えています。
ちなみに、こんな遺言でした。
田村皇子へ:「天下を治めるのは大変なことである。簡単に口出ししないように」
山背大兄皇子へ:「自分の意見にこだわってはいけません。群臣の意見をちゃんと聞くように」
むむ、この遺言じゃどっちを天皇にしたいのかよくわかりません。実は、推古天皇の意図はよくわかっていません。
蘇我蝦夷、推古天皇の遺言を独自解釈する
蘇我蝦夷は主張します。推古天皇の遺言は、田村皇子に「天下を治める」ことを委ねたものだ!と。
蘇我一族の立場でいえば、蘇我の血を引く聖徳太子の息子:山背大兄皇子に天皇になってもらうのが、外戚として権力を奮えて嬉しいところですが、なぜか蘇我蝦夷と山背大兄皇子は犬猿の仲でした。
これには、天皇をトップにした国づくりを推進するにつれ、次第に蘇我氏の立場が危うくなり、蘇我蝦夷と山背大兄皇子が対立するようになったという説があります。
そのため、蘇我蝦夷としては、田村皇子を天皇に擁立したかったわけですが、世間では山背大兄皇子派が多かったため、なかなか田村皇子の擁立を行うことができませんでした。そこで推古天皇の遺言を利用したのです。
こうして、田村派vs山背派の間で武力闘争が勃発しましたが、蘇我蝦夷が擁立する田村派の勝利に終わり、邪魔者を排除した蘇我蝦夷が擁立した田村皇子が舒明天皇として即位することとなったのです。
敗北した山背大兄皇子の運命
蘇我蝦夷は、馬子に続き再び蘇我氏の隆盛の時代を築き上げます。豪華絢爛な建物や催し物が蘇我氏の館では行われていました。
そんな中、643年、勢いに乗った蝦夷の息子の蘇我入鹿(いるか)が山背大兄皇子を排除しました。これは崇峻天皇に次ぐ2度目の皇族排除となりました。
これをもって、聖徳太子の血統は断絶することとなります。
さすがに、これにはかなりの反発があったようで、蝦夷は入鹿に対して「お前はなんて愚かなことをしたんだ。このままでは自分の命も危ないぞ」と入鹿を非難したほど。
こうして、蘇我氏の横暴な振る舞いに対する非難が強まっていき、この事件の2年後、645年に蘇我蝦夷・入鹿は乙巳(いっし)の変により討たれることとなるのです。
聖徳太子はなぜ愛されたのか
聖徳太子の本名は「厩戸皇子」と言いましたが、700年代には既に聖徳太子という名が使われていました。
聖徳とは、優れた徳を意味する言葉なので、700年代には厩戸皇子は聖徳太子という尊称で当時の人々の信仰の対象となっていたといえます。
なぜ愛されたのか、私は3つの理由があると考えています。
1.儒教を重んじ、皆に親しまれた聖徳太子
聖徳太子はなぜ有名?わかりやすい聖徳太子物語第3話で紹介した、17条憲法と冠位十二階制度。なんとなくわかるかもしれませんが、隋から伝来した儒教の教えが色濃く反映されています。
聖徳太子は儒教の教えを重んじていました。そんな聖徳太子、徳のある人物だと多くの人から親しまれていたのだと思います。山背大兄皇子が天皇候補として圧倒的人気を誇っていたことや、蘇我入鹿が山背大兄皇子を討ったことは、裏の返せばそれだけ聖徳太子の血筋が重要視されていたということです。
また、皮肉ですが、聖徳太子は天皇になれなかったからこそ後世までアイドル的存在として愛されていたのだと思います。
聖徳太子は、天皇候補(皇太子)として推古天皇の側近として働いていました。天皇よりも民衆との距離が近かったのです。
2.日本の仏教振興に多大な貢献をした聖徳太子
聖徳太子は、仏教に深く帰依していました。聖徳太子は、民衆に近い存在として人々に仏教の教えを広めました。
そして奈良時代になり、仏教の教えが広まっていくにつれ、聖徳太子は仏教信仰の祖のような存在として民衆から崇められるようになります。
聖徳太子が建立した法隆寺。法隆寺は、聖徳太子の聖地として当時の人々の深い聖徳太子信仰の中心地となっていました。
法隆寺について知りたい方は、こちら!
国宝多すぎ!魅力ある法隆寺を楽しむ豆知識教えます【聖徳太子】その1
国宝多すぎ!法隆寺の魅力を楽しむ豆知識を紹介!【聖徳太子】その2
3.悲劇のヒーローになった聖徳太子
聖徳太子は、天皇候補だったにもかかわらず早くに逝去し、その息子も蘇我氏に滅ぼされ血筋が途絶えてしまいます。
聖徳太子は悲願を達成できず、息子に後を託すも蘇我氏の陰謀により滅ぼされた悲劇のヒーローとして人々の心の中に残る存在となっていきました。
逆に、蘇我氏は崇峻天皇暗殺と聖徳太子の息子の討伐の2つの悪行により、現在でも多くの非難を受けています。
この中で一番重要だったのは、たぶん悲劇のヒーローという点です。これは聖徳太子に限った話でなく、日本史だけを取り上げても菅原道真、源義経、浅井長政などなど、有名な話には悲劇が付きものです。
聖徳太子は10つの話を同時には聞けなかった
聖徳太子は、別名で豊聡耳(とよとみみ)とも呼ばれていました。豊聡耳とは、「人の言うことを良く理解できる聡明な人物」というほめ言葉なのですが、これがみんなの愛で誇張され、「10人の言うことを同時に聞き取って、10人に的確なアドバイスをした」という伝説となっていったのです。
本当に同時に聞き取れたわけではありません。みんなの愛が眩しすぎただけです。
聖徳太子は、厩(馬小屋)の戸の前で生まれたのは本当?
これには、諸説あるようです。
説1:本当に馬小屋で生まれた。
説2:蘇我馬子の屋敷で生まれたので、馬子屋敷にちなんで厩戸(うまやと)になった。
説3:厩戸という地名があった。
みなさんはどれが正解だと思いますか?個人的には説2かなぁ・・・と思ってます!と言っても、意外とこの3つどれも正解ではないかもしれませんね(汗)
今回の記事で5話に渡る聖徳太子物語は終了です。聖徳太子のことを少しでも多くの方に知っていただけたら嬉しいです。このブログに載せた聖徳太子物語を読み終えた読者様なら、ほかの聖徳太子に関する詳しいブログや書籍もおそらく、すんなりと読めるはずですよ!
次回は、あの有名な大化の改新の話をします。
次:なぜ大化の改新(乙巳の変)は起こったのか。わかりやすく解説するよ~その1
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