瀬田の唐橋を観光する!見所や豆知識を紹介【唐橋を制する者は天下を制す!】

今回は、日本の歴史にとてつもなく大きな影響を与えている瀬田の唐橋(せたのからはし)について紹介してみます。

 

 

日本の歴史上では大小様々な戦いが繰り広げられてきました。有名どころだと壇ノ浦の戦い、湊川の戦い、関ヶ原の戦い、戊辰戦争などなど・・・。

 

 

そんな中で、歴史を変えた戦いの多くが、この瀬田の唐橋を舞台にしているのです。

 

 

これは決して偶然ではありません。地勢的に瀬田川を抑えることが政治・戦争において非常に重要だったんです。

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瀬田橋は東国から京への最短ルート

瀬田の唐橋がたびたび重要な戦いの舞台になった理由は、瀬田の唐橋は東国と京を結ぶ最も安全で近いルートだったからなんです。

 

 

東国から京へ向かうルートは大雑把に3つありました。

 

北陸方面から琵琶湖を大きく迂回するルート
関ヶ原を抜けて瀬田橋を渡るルート
少し南下し、鈴鹿辺りから瀬田橋を目指すルート

 

 

の3つです。おまけで裏ルートで琵琶湖を船で東西に横断!ってのもありますが、比叡山から吹き降ろされる強風のため、かなり危険なルートでした。

 

 

以下がその概略図。

(出典:wikipedia「三関」)

 

飛鳥時代末期の天武天皇の頃、これらの三つのルートは最重要であるとして

 

北陸ルートには愛発関(あらちのせき)
関ヶ原ルートには不破関(ふわのせき)
鈴鹿ルートには鈴鹿関(すずかのせき)

 

 

が設けられ、これら3つ関を合わせて「三関」と読んでいました。ちなみに、昔はこの3つの関より東側の国を「東国」と読んでいて、これが「関東」の語源になっています。そして、「関西」はこの3つの関より西側の国のことを指します。

 

 

この重要な3つの道のうち、関ヶ原・鈴鹿ルートは瀬田の唐橋を通らなければなりません。これこそが、瀬田の唐橋が日本の歴史に大きな影響を与えた大きな理由の1つとなります。

 

 

瀬田の唐橋さえ抑えてしまえば、相手は北陸ルートへ迂回するか、危険を覚悟で琵琶湖を渡るか、吉野方面の険しい山越えをするか・・・しかないのです。

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瀬田橋を舞台とした戦い一覧

というわけで、いくつか瀬田橋が舞台となった戦いを紹介してみます。

壬申の乱(672年、飛鳥時代末期)

次の皇位継承を巡って大友皇子と大海人皇子が争った戦いです。

 

 

勝者は大海人皇子。大海人皇子は不破と鈴鹿を抑え、東国を味方につけた上で、大友皇子がいる近江宮に攻め込みました。

 

 

そこで近江宮の最終防衛線となり、激戦が繰り広げられたのが瀬田橋。

 

 

大海人皇子軍は、兵力的には劣勢だったと言われていますが、知略と武勇で瀬田橋を突破。大友皇子軍は崩壊し、大友皇子はその後自害。

 

大海人皇子が勝利し、日本史上で唯一の武力による皇位簒奪が成し遂げられたのです。

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藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱(764年、奈良時代末期)

孝謙上皇に不満を持つ藤原仲麻呂が反乱を起こしたが鎮圧された事件です。

 

 

藤原仲麻呂は援軍を集めようと東国へ向かおうとしますが、上皇軍に瀬田橋を焼かれ断念。東国への遠回りルートである愛発関へ向かいますが、ここも上皇軍が先回りで抑えていたため、東国へ向かうことができません。

 

 

こうして援軍を得ることもできず藤原仲麻呂は上皇軍に討たれてしまいます。

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瀬田橋は、東国から京へ攻め入る際の要所というだけでなく、京から東国へ逃げ出す不埒者を機内に閉じ込める・・・という役割もあったわけです。

源平合戦(1180〜1185年、平安時代末期)

有名な源平合戦でも瀬田橋は登場します。

 

1184年1月の木曽義仲と源義経・範頼が戦った宇治川の戦い。

 

義経・範頼軍は瀬田川と宇治川を渡り、東と南から木曽義仲のいる京へ攻め入ろうとします。宇治川は突破され、木曽義仲は瀬田橋近くで討ち取られました。

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承久の乱(1221年、鎌倉時代)

後鳥羽上皇と鎌倉幕府が戦った承久の乱。ここでも瀬田橋は要所として登場します。

 

大きな流れは源平合戦の時と一緒。

 

 

後鳥羽上皇軍は、宇治橋と瀬田橋を東国からの最終防衛線とします。宇治橋と瀬田橋は、特に宇治橋方面は大激戦で、鎌倉幕府の北条泰時は死を覚悟したとまで言われています。

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本能寺の変(1582年、室町時代末期)

地味ながら瀬田橋は本能寺の変にも関係があります。

 

明智光秀は本能寺を焼き討ちした後、織田信長の本拠地だった安土城を襲撃しようとしますが、信長派に瀬田橋を落とされ、3日程度の進軍停止を余儀なくされます。

 

 

この3日のタイムロスはかなり致命的で、羽柴秀吉が中国地方から強行軍で引き返した俗に言う「中国大返し」のための時間を与えてしまいます。

 

 

中国大返しは、10日ほどで200kmもの距離を進んだ日本史上でも類を見ないほどの超絶ハイスピード行軍です。この10日間のうち、3日間を失ったことは明智光秀にとっては大きな誤算だったでしょうし、もし明智光秀がスムーズに瀬田橋を渡り、安土城に進行していれば、羽柴秀吉との戦いも優位に進められたかもしれず、その後の歴史の流れは大きく変わっていた可能性もあります。

 

 

江戸時代になると、幕府は瀬田川に瀬田の唐橋以外の橋を架けることを禁じます。瀬田橋を幕府の管理下に置き、他の橋を架けることを禁じることで交通の要所を抑える意図がこの幕府の政策から感じられます。

 

 

・・・、と言った感じ、歴史の転換期となる大きな戦いには瀬田橋が関係していることがとても多いのです。

 

瀬田橋で様々な戦いに思いを馳せるのもオツな楽しみ方ではないでしょうか。

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瀬田橋にまつわるいろんな話

このような歴史を多く持つ瀬田の唐橋ですが、これ以外にも様々な話があります。

 

 

1つが、夕日を背にした瀬田川と橋の風景がとても美しいこと。江戸時代には「近江八景」の1つにも選ばれ、風景画まで残されています。

 

 

もう1つは、藤原秀郷によるムカデ退治の伝説。説明は省略しますが、ムカデ退治の褒美に秀郷は瀬田川の下にある竜宮へ招かれ一生分の米俵を貰いました。このことから、藤原秀郷は俵藤太秀郷と呼ばれます。

ちなみに、藤原秀郷は平安時代中期の猛将。平将門の乱で将門の首を持って帰ってきたのが秀郷だったと言われています。

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瀬田橋の近くには、瀬田橋近くで散った木曽義仲や俵藤太秀郷にまつわる史跡なんかもありますので、瀬田橋と合わせて大津市を観光してみると面白いかもしれません。



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