

今回はロシアの歴史について、9世紀のキエフ・ルーシから現在のロシア連邦まで、一気にわかりやすく解説していくよ! 名前がコロコロ変わってややこしいところは、そのつど整理しながら進めるから安心してね。
📚 この記事のレベル:高校世界史
📖 山川出版社『詳説世界史』準拠
世界地図を開くと、ユーラシア大陸の北半分をひとつの国が塗りつぶしています。ロシアの国土は約1,710万平方キロメートル。日本の国土(約38万平方キロメートル)のおよそ45倍にあたり、世界で最も広い国です。
ところが実は、この国も14〜15世紀ごろまでは、モスクワの周辺を治めるだけの小さな公国にすぎませんでした。しかもその間をふくむ1240年から1480年までの240年ほどは、モンゴル系の勢力に支配され続けた時代でもあったのです。
小さな公国が、どうやって世界最大の国土を手に入れたのか。そしてなぜ、その国は帝国から社会主義国家へ、さらに現在のロシア連邦へと姿を変えていったのか。この記事では、その約1,100年の歩みを時代順に整理していきます。
ロシアの歴史とは?
- ロシアの原点は、9世紀ごろに東ヨーロッパで生まれたキエフ・ルーシとされています
- モンゴル支配(タタールのくびき)を脱したモスクワが拡大し、ロマノフ朝のロシア帝国へ成長しました
- 1917年の革命で帝政が倒れてソビエト連邦となり、1991年の崩壊を経て現在のロシア連邦になりました
ロシアの歴史とは、9世紀ごろに東ヨーロッパで成立したキエフ・ルーシから、モンゴル支配、モスクワの台頭、ロマノフ朝による帝国の拡大、ソビエト連邦の成立と崩壊を経て、現在のロシア連邦にいたるまでの歩みのことです。
起源とされる862年から数えると、その歩みは1,100年以上に及びます。長いうえに国の名前が何度も変わるため、世界史のなかでもとりわけ混乱しやすい分野です。
そこで最初に、大きな流れだけを頭に入れてしまいましょう。ロシア史は次の5つの時代に分けると一気に見通しがよくなります。
- ①キエフ・ルーシ(9〜13世紀)……東ヨーロッパに生まれた国の原点
- ②タタールのくびき(13〜15世紀)……モンゴル系勢力の支配下に置かれた時代
- ③ツァーリ国〜ロシア帝国(16〜20世紀初め)……皇帝が支配を広げた拡大の時代
- ④ソビエト連邦(1922〜1991年)……世界初の社会主義国家として超大国になった時代
- ⑤ロシア連邦(1991年〜)……ソ連崩壊後の現在のロシア
このうち③の入口にあたるのが、モンゴル支配のなかで力をつけたモスクワ大公国です。小さな一都市の勢力が支配者の座を奪い、やがて帝国へ膨れ上がっていく——ここがロシア史の大きな転換点になります。

先生、待って。ロシアって「ロシア帝国」も「ソ連」も「ロシア連邦」も出てくるけど、全部同じ国のこと? いつも頭のなかでごちゃごちゃになるんだよね…。

そこは本当に混乱しやすいところだね。ざっくり言うと、同じ土地にできた別の国だと思っておけばいいよ。ロシア帝国は皇帝が治めた国、ソ連はその後にできた社会主義の連邦国家、ロシア連邦はソ連が解散したあとに残った国。名前が変わるたびに政治のしくみもガラッと変わってるんだ。
それでは、いちばん古いところから順に見ていきましょう。
キエフ・ルーシの成立とタタールのくびき(9〜15世紀)
9世紀ごろ、現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシにあたる地域には、農耕をいとなむ東スラヴ人が広く住んでいました。森と川ばかりのこの土地に目をつけたのが、北欧からやってきた人々です。


彼らはスラヴ人からヴァリャーグ、あるいはルーシと呼ばれた人々で、北欧のヴァイキングと同じ系統だったと考えられています。バルト海から川をさかのぼり、黒海を経てビザンツ帝国まで抜ける交易路をつくりあげました。
『原初年代記』という年代記によれば、862年、争いに疲れたスラヴ人たちがヴァリャーグの首長リューリクを招き、ノヴゴロドの支配者にしたとされています。ただしこの招請の物語がどこまで史実かについては諸説あり、後世に整えられた建国伝承とみる見方も有力です。
その後、リューリクの一族は南のキエフ(現在のウクライナの首都キーウ)を押さえます。こうして生まれた国がキエフ・ルーシ(キエフ公国)で、ロシア・ウクライナ・ベラルーシに共通する国の原点とされています。
さらに988年ごろ、大公ウラジーミル1世がビザンツ帝国からギリシア正教を受け入れました。この決断が、のちのロシア正教の出発点になります。
ロシアがカトリックでもイスラームでもなく正教の国になったのは、この選択が出発点です。文字もまた、正教とともに伝わったキリル文字がもとになりました。宗教・文字・美術と、ロシア文化の土台の多くはビザンツ帝国から受け継がれたものだったのです。
しかしキエフ・ルーシは、やがて多くの公国に分かれて争うようになります。そこへ東から現れたのが、ユーラシアを席巻したモンゴル帝国でした。
1240年、バトゥ率いるモンゴル軍がキエフを攻め落とします。以後、ルーシの諸公はモンゴル系のキプチャク=ハン国に貢納をおさめ、支配者の承認を受けなければ領地を治められなくなりました。この時代をロシア史ではタタールのくびきと呼びます。
「くびき」とは牛や馬の首にかける横木のことで、支配のくびきをはめられた状態、という意味です。
📌 「タタール」ってだれのこと? もともとはモンゴル高原にいた部族の名前ですが、ヨーロッパやロシアでは、この時代に攻め込んできた騎馬勢力の総称として使われました。実際のキプチャク=ハン国はモンゴル人とテュルク系の人々が混ざった国だったとされています。

でもさ、支配されてた側からどうやってロシアが生まれるの? ふつう滅びちゃいそうだけど…。

いい質問! カギは「税の取り立て役」なんだ。ハン国は自分で細かく税を集めるかわりに、ルーシの公の一人に代行させた。その役を長く任されたのがモスクワの公で、集めた税の一部を手元に残して力をたくわえていったんだよ。支配される側の中で、いちばん支配者に近い立場を取ったわけだね。
こうして力をつけたモスクワは、15世紀にはハン国と対等に渡り合えるまでになります。そして1480年、モスクワ大公イヴァン3世がウグラ川で対峙したのち、貢納をやめて事実上の独立を果たしました。1240年から数えると、およそ240年にわたる支配の終わりでした。
支配者が交代したのではなく、支配された側の一都市が支配者にのしあがった——この逆転劇こそが、ロシアという国の始まりだったのです。
ツァーリ国からロシア帝国へ——拡大の時代(16〜18世紀)
モンゴルの支配を脱したモスクワは、次に「自分たちは何者か」を打ち出します。ちょうどこのころ、正教世界の中心だったビザンツ帝国が1453年に滅んでいました。


そこでモスクワは「ローマ、コンスタンティノープルに続く第三のローマこそモスクワである」と主張するようになったとされます。そして1547年、イヴァン雷帝(イヴァン4世)が正式にツァーリの称号を名乗り、ロシア・ツァーリ国が始まりました。
ツァーリは、ロシアの君主が名乗った称号です。語源は古代ローマの「カエサル」だとされ、日本語では「皇帝」と訳されます。
つまりツァーリを名乗るということは、「自分はローマ皇帝の後継者であり、正教世界の守護者だ」と宣言することでもありました。単なる呼び名ではなく、ロシアが大国を目指す旗印だったわけです。
イヴァン雷帝は貴族を容赦なく弾圧した恐怖政治で知られますが、同時に東方への進出を始めた人物でもあります。彼の時代にコサックのイェルマークがシビル=ハン国を攻撃し、ロシアはウラル山脈を越えてシベリアへ踏み出しました。
ところが雷帝の死後、後継者が絶えて国は大混乱におちいります。1598年から1613年まで続いたこの内乱期は、動乱時代(スムータ)と呼ばれます。
混乱を収拾するため、1613年にミハイル=ロマノフが新しいツァーリに選ばれました。ここから始まるロマノフ朝は、1917年の革命まで約300年にわたってロシアを治めることになります。
そのロマノフ朝を一気に大国へ押し上げたのが、ピョートル1世(大帝、在位1682〜1725年)でした。彼は自ら西ヨーロッパへ出向いて造船や技術を学び、帰国後は軍制・行政・服装にいたるまで西欧化を進めます。
さらに北方戦争(1700〜1721年)でスウェーデンを破り、バルト海への出口を確保しました。1703年には湿地を埋め立てて新首都サンクトペテルブルクを建設し、「ヨーロッパへの窓」としています。
18世紀後半に登場したエカチェリーナ2世(在位1762〜1796年)は、さらに南と西へ手を伸ばしました。オスマン帝国との戦いを重ねて1783年にクリミア半島を併合し、黒海への出口を得ます。西ではポーランド分割に加わり、領土を大きく広げました。


それにしても、どうしてそこまで領土を広げようとしたのかしら。ただの領土欲?

もちろん野心もあるけど、地理の事情がかなり大きいんだ。ロシアの港は冬になると凍ってしまう。だから一年中使える凍らない港を求めて、バルト海へ、黒海へ、そして太平洋へと出口を探し続けたんだよ。東へ伸びたのは毛皮などの資源が目当てで、こっちは遮る強国がいなかったから一気に進めたんだ。
こうしてロシアは、18世紀のうちにヨーロッパの一大強国の座を手に入れます。しかしその強さは、農民を土地に縛りつける農奴制の上に成り立つものでもありました。
19世紀の改革と混乱
19世紀のロシアは、外に向かっては輝かしい勝利を収めながら、内側では矛盾を抱え込んでいく時代でした。その象徴が、1812年のナポレオン戦争です。
フランス皇帝ナポレオンの大軍がモスクワまで攻め込みましたが、ロシア側は焦土戦術と厳しい冬で消耗させ、撤退に追い込みました。ロシアではこの戦いを祖国戦争と呼びます。
勝利によって、ロシアはヨーロッパの秩序を守る「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれる存在になりました。ところが、この遠征が思わぬ副作用を生みます。
ナポレオン軍を追ってパリまで進んだ青年将校たちが、西ヨーロッパの自由な社会を目の当たりにしてしまったのです。帰国した彼らは、皇帝の専制と農奴制が続くロシアの遅れを痛感しました。
1825年、その一部が立憲政治を求めて蜂起します。12月に起きたことからデカブリストの乱(十二月党員の乱)と呼ばれるこの反乱は、すぐに鎮圧されました。以後、政府は言論や思想の統制をいっそう強めていきます。

勝ったのに、かえって政治が窮屈になっちゃったのね。

そうなんだ。「外では勝つのに、中身は変えられない」——19世紀のロシアはずっとこのジレンマを抱えていたんだよ。そして、そのごまかしが効かなくなる敗戦がやってくるんだ。
その敗戦がクリミア戦争(1853〜1856年)でした。ロシアはオスマン帝国領の正教徒保護を口実に南下をはかりますが、地中海への進出を警戒したイギリス・フランスがオスマン帝国側について参戦します。

ロシアはセヴァストーポリ要塞での長い攻防のすえに敗れ、1856年のパリ条約で黒海の中立化を認めさせられました。南下政策はここで大きく挫折します。詳しい経緯はクリミア戦争の記事で解説しています。
敗北がロシアに突きつけたのは、「農奴制のままでは近代戦を戦えない」という現実でした。兵も工業力も、農民を土地に縛りつけた体制からは十分に出てこなかったのです。
そこで新しい皇帝アレクサンドル2世は、1861年に農奴解放令を出します。農奴の身分は法的に自由になりました。
ただし土地は無償では与えられず、農民は長期の分割払いで買い戻さなければなりませんでした。そのため生活はすぐには楽にならず、農村の不満はくすぶり続けたとされています。
📌 このころ日本では クリミア戦争が終わった前後の日本は、1853年のペリー来航から開国、そして1868年の明治維新へと向かう時期にあたります。ロシアが「敗戦をきっかけに上からの改革を進めた国」だとすれば、日本は「外圧をきっかけに体制ごと作り替えた国」。同じ時期に、似た課題へ別の答えを出していたわけです。
解放されたはずの農民の不満、統制された知識人の不満、そして工業化とともに生まれた労働者の不満。19世紀に積み上がったこれらの不満が、20世紀初めについに噴き出すことになります。
1905年・1917年、二つの革命
20世紀に入ったロシアで、体制を揺るがす引き金を引いたのは戦争でした。1904年に始まった日露戦争です。

戦況は思うように進まず、国内では物価が上がって生活が苦しくなります。日本との戦いそのものについては、この記事の後半であらためて取り上げます。
そして1905年1月、生活の改善を皇帝に直訴しようと首都の宮殿へ向かった民衆の行進に、軍隊が発砲しました。これが血の日曜日事件です。
「皇帝は自分たちを守ってくれる」という素朴な信頼が、この一日で崩れました。ストライキと反乱が全国へ広がり、第一次ロシア革命と呼ばれる事態に発展します。
追い込まれた皇帝ニコライ2世は十月宣言を出し、国会(ドゥーマ)の開設を約束しました。しかし、その権限は限られたものにとどまり、専制の枠組みは残されたままでした。

それって、根っこの問題は何も解決してないってこと…?

そういうこと。だから火種は消えずに残ったんだ。そこへ第一次世界大戦が始まって、その火種に一気に燃料が注ぎ込まれることになる。前線では兵士が倒れ、都市ではパンが手に入らない。人々の我慢が限界を超えたんだよ。
1917年3月、首都ペトログラードで食料を求める人々のデモが起こり、鎮圧に向かった兵士たちがこれに合流しました。事態を抑えられなくなったニコライ2世は退位し、ロマノフ朝は300年余りの歴史を閉じます。
これが二月革命です。あとを継いだ臨時政府は、しかし戦争を続ける道を選びました。
戦争の継続に人々の失望が広がるなか、同じ年の11月、レーニンが率いるボリシェヴィキが武装蜂起して臨時政府を倒します。これが十月革命です。
この二つの革命をあわせてロシア革命と呼びます。1905年の第一次革命から数えれば、わずか12年で帝政が消えたことになります。革命そのものの詳しい展開はロシア革命の記事にゆずります。
📌 「二月革命」なのに3月? 「十月革命」なのに11月? 当時のロシアは、西ヨーロッパより13日遅れるユリウス暦を使っていました。ロシア暦の2月・10月が、現在の暦では3月・11月にあたるため、名前と月がずれています。教科書で日付が2種類出てくるのはこのためです。
ソビエト連邦の成立とレーニン
政権を握ったレーニンは、すぐに二つの布告を出しました。無併合・無償金の講和を呼びかける「平和に関する布告」と、地主の土地を没収して農民に分ける「土地に関する布告」です。

戦争と土地——民衆がもっとも切実に求めていた二つに、まっさきに答えを示したことになります。彼の歩みはレーニンの記事で詳しく解説しています。

我々にまず必要なのは、理屈ではなくパンと平和と土地だ。それを約束できない政府に、民衆がついてくるはずがない。
1918年、新政権はドイツとブレスト=リトフスク条約を結び、大きな領土を手放してでも第一次世界大戦から離脱します。しかし平和は訪れませんでした。
革命に反対する勢力(白軍)が各地で立ち上がり、日本を含む諸外国も干渉のため軍を送ります。1922年ごろまで続いたこの内戦で、国土は荒廃しました。
内戦を戦い抜くため、政府は農民から穀物を強制的に取り立てる戦時共産主義をとります。生産意欲は落ち込み、深刻な食料不足を招いたとされています。
そこでレーニンは方針を転換し、1921年にネップ(新経済政策)を導入しました。小規模な私的商売や余剰農産物の販売を認めるという、社会主義としては異例の譲歩です。

社会主義の国なのに、商売を認めちゃっていいの?

矛盾しているようだけど、レーニンは「一歩下がって二歩進むための後退だ」と説明したんだ。理想を掲げるだけでは国が持たない、まず食べられるようにしないと——という現実的な判断だね。実際、この転換で農業生産はかなり回復したよ。
そして1922年12月、ロシア・ウクライナ・ベロルシア・ザカフカースの4つの共和国が集まり、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が正式に成立します。世界初の社会主義国家の誕生でした。
ただしレーニン自身は、この新しい国を長く導くことはできませんでした。病に倒れ、1924年に世を去ります。彼が残した空席をめぐって、次の時代の主役が現れることになります。
スターリン体制——五カ年計画と大粛清
レーニンの死後、後継者の座を争ったのがスターリンとトロツキーでした。
トロツキーは「革命を世界へ広げなければソ連は生き残れない」と説き、スターリンは「まずソ連一国で社会主義を完成させる」と主張します。地味な書記長の職にあったスターリンは、人事権を握って支持者を要職に配置し、争いを制しました。

誰が後継者になるかを決めるのは、投票する者ではない。票を数える者だ……。
※スターリンの言葉として伝えられている一節ですが、確実な出典があるわけではなく、真偽には諸説あります。彼の実像はスターリンの記事で詳しく扱っています。
権力を固めたスターリンは、1928年から五カ年計画を始めます。農業国だったソ連を、短期間で工業国に作り変えようという計画でした。
製鉄所や発電所が次々に建設され、工業生産は急速に伸びます。世界恐慌で欧米が苦しむなか、ソ連だけが成長を続けたことは各国に強い印象を与えました。
しかし、その原資は農村から取り立てた穀物でした。農民はコルホーズ(集団農場)やソフホーズ(国営農場)にまとめられ、抵抗した富農(クラーク)は徹底的に弾圧されます。
1932年から翌年にかけては、ウクライナやカザフスタンなどで大規模な飢饉が起こりました。犠牲者の数は資料によって大きく異なり、確定していません。

計画は成功したの? それとも失敗?

数字の上では大成功なんだ。重工業の生産は何倍にも伸びたし、この工業力があったからこそ後の戦争を戦い抜けた。でも、その裏で膨大な犠牲が出ている。「成果」と「代償」を切り離さずに覚えるのが、この単元のポイントだよ。
さらに1930年代後半、スターリンは大粛清と呼ばれる大規模な弾圧を行います。古参の革命家、軍の幹部、一般市民までが逮捕され、処刑や強制収容所送りとなりました。
📌 犠牲者の数は「確定していない」 大粛清や飢饉の犠牲者数は、ソ連時代に資料が公開されなかったこともあり、研究者によって推計が大きく分かれています。教科書や資料集で異なる数字を見かけたら、どちらかが誤りなのではなく、推計の前提が違うと理解しておきましょう。
こうして強大な工業力と、逆らう者を許さない体制がそろったところへ、国家の存亡をかけた戦争が迫ってきます。
独ソ戦(大祖国戦争)
1939年8月、世界を驚かせるニュースが流れます。激しく対立していたはずのナチス・ドイツとソ連が、独ソ不可侵条約を結んだのです。

互いに攻め合わないというこの約束の裏には、東ヨーロッパの勢力範囲を分け合う秘密の取り決めがあったとされています。条約締結の直後、ドイツはポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が始まりました。

ソ連は東からポーランドへ進み、バルト三国も勢力下に置きます。しかし、この協調関係は長くは続きませんでした。
1941年6月22日、ドイツは不可侵条約を破ってソ連へ攻め込みます。バルバロッサ作戦と呼ばれるこの侵攻から始まった戦いが独ソ戦で、ロシアでは大祖国戦争と呼ばれています。
開戦当初、ドイツ軍は電撃的に進撃しました。ソ連軍は大粛清で多くの指揮官を失っていたこともあり、初期の損害はきわめて大きかったと言われます。
冬の到来とともにモスクワ前面でドイツ軍の進撃はようやく止まりましたが、北の要衝レニングラードは1941年9月から1944年1月まで、2年4か月以上にわたって包囲され、飢えによって多数の市民が亡くなったと伝えられています。

そんな状況から、よく立て直せたわね…。

大きかったのは、工場ごとウラル山脈の東へ疎開させたことなんだ。五カ年計画で作った工業力を戦場から遠い場所へ移して、戦車や砲を作り続けた。国土が広いことが、このときばかりは最大の武器になったんだよ。
転換点となったのが、1942年夏から翌1943年2月まで続いたスターリングラード攻防戦です。市街地での激しい消耗戦のすえ、ソ連軍は包囲したドイツ軍を降伏させました。
ここから戦局は逆転し、ソ連軍は西へ押し返していきます。そして1945年5月、ベルリンを陥落させてドイツを降伏に追い込みました。戦いの詳細は独ソ戦の記事で解説しています。
勝利の代償は、あまりに大きなものでした。ソ連側の死者は軍民あわせて2,000万人を超えるとされ、推計には幅がありますが、第二次世界大戦で最大級の犠牲を出した国であることは確かです。
その一方で、ドイツを打ち破りながら東ヨーロッパへ進んだソ連軍は、そのまま各地に影響力を残しました。戦争に勝ったソ連は、こうして超大国として次の時代——アメリカとの長い対立の時代へ踏み出していきます。
冷戦の超大国からソ連崩壊まで
■冷戦の始まりとヤルタ会談
ドイツの敗北が見えてきた1945年2月、クリミア半島のヤルタに3人の指導者が集まりました。アメリカのローズヴェルト、イギリスのチャーチル、そしてソ連のスターリンです。
このヤルタ会談では、ドイツの戦後処理、国際連合の設立、そしてソ連の対日参戦などが話し合われました。戦後の世界の骨組みが、このとき大枠で決まったのです。
ところが、共通の敵だったドイツがいなくなると、アメリカとソ連の間に残ったのは「資本主義か、社会主義か」という体制の違いだけでした。
ソ連は自国軍が進駐した東ヨーロッパ各国に社会主義政権を次々と成立させ、アメリカはこれに強く反発します。こうして始まった対立が冷戦です。
1949年、アメリカと西ヨーロッパ諸国は軍事同盟であるNATO(北大西洋条約機構)を結成しました。ソ連側も1955年にワルシャワ条約機構をつくり、ヨーロッパは東西に真っ二つに分かれます。

米ソが直接に撃ち合う戦争は、ついに起こりませんでした。それでも世界中で緊張が続いたこの時代の全体像は、冷戦の記事で整理しています。
■ベルリンの壁とキューバ危機
東西対立をもっとも分かりやすく形にしたのが、ドイツの首都ベルリンでした。

東ドイツの中にありながら、西ベルリンだけは西側が管理していました。豊かな西側を目がけて東から人が流れ出し、東ドイツは働き手を失っていきます。

そこで1961年8月、東ドイツは一夜のうちに有刺鉄線を張りめぐらせ、やがてコンクリートの壁へ作り替えました。これがベルリンの壁です。壁は1989年11月に開放されるまで、28年間にわたって街を分断し続けました。
そして1962年10月、冷戦は最大の危機を迎えます。ソ連がアメリカの目と鼻の先にあるキューバでミサイル基地を建設していることが発覚したのです。
アメリカのケネディ大統領は海上封鎖に踏み切り、世界は核戦争の一歩手前まで近づきました。この13日間の緊張がキューバ危機です。

📌 なぜ核戦争にならなかったのか 最後はソ連のフルシチョフ第一書記がミサイル撤去に応じ、アメリカもキューバへ侵攻しないと約束することで決着しました。撃てば自分も滅びるという状況が、かえって双方を踏みとどまらせたのです。翌1963年には米ソ首脳を直接つなぐホットラインが設けられ、部分的核実験禁止条約も結ばれました。
■ペレストロイカとソ連崩壊
強大に見えたソ連ですが、内側では行きづまりが進んでいました。国が生産量を決める計画経済は、生活に必要な物資を十分に行きわたらせることができず、軍事費の重さも経済を圧迫していきます。
1985年、この状況を立て直すために書記長となったのがゴルバチョフでした。彼が掲げた改革がペレストロイカです。
ペレストロイカはロシア語で「立て直し」という意味で、経済のしくみや政治の制度を作り替えようとした改革全体を指します。
もう一つのグラスノスチは「情報公開」を意味します。1986年のチェルノブイリ原子力発電所の事故で情報を隠す体質が批判されたこともあり、報道や議論の自由が広げられました。
ところが自由に語れるようになると、共産党への不満や各民族の独立を求める声まで一気に噴き出します。立て直すはずの改革が、体制そのものを揺るがす結果になっていきました。
ゴルバチョフは外交でも大きく方向を変え、1989年12月のマルタ会談でアメリカのブッシュ大統領とともに冷戦の終結を宣言します。同じ年、東ヨーロッパでは次々と社会主義政権が倒れていきました(東欧革命)。
流れは止まりませんでした。1991年8月には改革に反対する保守派がクーデタを起こしますが失敗し、かえって共産党の権威は地に落ちます。
そして1991年12月、ソビエト連邦は解体しました。1922年の成立から数えて69年で、世界初の社会主義国家は幕を閉じたことになります。
あとに残ったのは、ロシア連邦・ウクライナ・ベラルーシ・カザフスタンなど15の独立国でした。そのうち最大の面積と人口を引き継いだのがロシア連邦で、初代大統領にはエリツィンが就いています。

ここまでが世界史の中のロシアです。では、この長い歴史のなかで日本とはどう関わってきたのでしょうか。次の章では、日本との関係だけを取り出して一本の線で追いかけます。
ロシアと日本の関係
ロシアと日本は、ユーラシア大陸の東の端で隣り合う国どうしです。江戸時代の出会いから今日の北方領土問題まで、両国の関係は驚くほど長い糸でつながっています。
■江戸時代の出会い——ラクスマン来航
シベリアを東へ東へと広げてきたロシアは、18世紀には太平洋岸に達していました。日本との最初の本格的な接触は、一人の漂流民がきっかけになります。
伊勢の船頭大黒屋光太夫は、1782年(天明2年)の暮れに嵐で流され、翌年アリューシャン列島のアムチトカ島へ漂着し、はるばるロシアの首都まで送られました。エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願い出た彼は、1792年に日本へ戻ります。漂流から数えて約10年ぶりの帰国でした。
その光太夫を送り届けるという形で根室にやってきたのが、ロシア使節のラクスマンです。彼は同時に通商も求めましたが、鎖国政策をとる幕府は長崎への入港許可証を渡すだけにとどめました。
1804年にはレザノフが長崎へ来航して改めて通商を求めますが、これも認められていません。ロシアの接近は、幕府にとって北からの新しい脅威として意識されるようになりました。
■樺太千島交換条約と日露戦争
開国後の1855年、両国は日露和親条約を結び、択捉島と得撫島の間を国境と定めます。ただし樺太については国境を決めず、両国民が入りまじって住む土地とされました。

この曖昧さを解消したのが、1875年の樺太千島交換条約でした。日本が樺太全島の権利を手放すかわりに、千島列島の全島を得るという取り決めです。
19世紀の終わりになると、両国は朝鮮半島と満洲をめぐって正面からぶつかります。そして1904年、日露戦争が始まりました。
この戦争が長引いてロシア国内の生活を苦しくし、血の日曜日事件から第一次ロシア革命へつながったことは、すでに前の章で見たとおりです。日本にとっての勝利は、ロシアにとっては革命の引き金でもありました。
1905年のポーツマス条約で、日本は北緯50度以南の樺太(南樺太)を得ます。こうして両国の国境は、1855年・1875年・1905年と、幕末から明治にかけて三度も引き直されたことになります。
■シベリア出兵とソ連対日参戦
1917年にロシア革命が起きると、日本は他の列強とともに軍隊を送り込みます。革命政権を倒す狙いを含んだこの派兵がシベリア出兵でした。
日本は各国が引きあげたあとも駐留を続け、多額の戦費と多くの犠牲を出したまま、得るものなく1922年に撤兵します。ソ連との国交が開かれるのは1925年の日ソ基本条約まで待つことになりました。
その後、1941年に両国は日ソ中立条約を結びます。ところが第二次世界大戦の終盤、ヤルタ会談でソ連の対日参戦が取り決められていたことは先に述べたとおりです。
1945年8月8日、ソ連は日本へ宣戦を布告し、翌9日に満洲・朝鮮北部へ攻め込みました。このソ連対日参戦により、南樺太と千島列島もソ連軍に占領されます。
降伏後には多数の日本人がシベリアなどへ連行され、厳しい環境での労働に従事させられました(シベリア抑留)。抑留された人数や亡くなった人数は資料によって幅があり、今も確定していません。
■今も続く北方領土問題
1945年に占領された島々のうち、択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島の返還を日本が求め続けているのが、北方領土問題です。
混同しやすいところなので、地図をイメージしながら整理しておきましょう。
千島列島は、北海道の東からカムチャツカ半島へ向かって連なる島々全体を指す地理的な呼び名です。1875年の条約でロシアから譲られたのは、このうち得撫島から北の島々で、択捉島から南は1855年の時点ですでに日本領でした。この条約によって、千島列島の全体が日本領にそろったことになります。
これに対し北方領土は、そのうち日本が返還を求めている択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島の4つを指す政治的な呼び名です。日本政府は、この4島は千島列島に含まれず、一度も他国の領土になったことのない固有の領土だという立場をとっています。
1956年の日ソ共同宣言で国交は回復し、平和条約を結んだあとに歯舞群島と色丹島を日本へ引き渡すことが記されました。しかし残る2島の扱いで折り合いがつかず、平和条約は結ばれないまま今日に至っています。

1945年からもう80年以上でしょ? なんでこんなに長引いてるの?

大もとは、4島が「どの条約の、どの範囲に入るのか」で両国の解釈が食い違っていることなんだ。1875年の条約や1945年の占領をどう読むかで結論が変わる。だからこの問題は、江戸時代からの国境の引き直しを全部ふまえないと理解できないんだよ。
江戸時代の出会いから数えれば、日ロ関係はすでに200年をこえます。その最後の宿題が、いまも残されているというわけです。
現代ロシア——プーチン政権とウクライナ侵攻
■ソ連崩壊後の混乱からプーチン政権へ
1991年に生まれたロシア連邦を待っていたのは、深刻な経済の混乱でした。計画経済から市場経済へ一気に切り替えたことで物価は跳ね上がり、多くの人が蓄えを失います。

国有企業の払い下げで一部の実業家が巨額の富を握る一方、年金や給料が滞る家庭も少なくありませんでした。1998年には通貨危機も起こり、大国だったはずの自国の弱さに人々は自信を失っていきます。
そんななか、1999年末にエリツィンから後を託されたのがプーチンでした。翌2000年に大統領へ就任します。
彼の時代に原油や天然ガスの価格が上がったこともあり、経済は落ち着きを取り戻しました。首相をはさみながら2012年に大統領へ復帰し、2020年の憲法改正で続投の道も開かれて、その体制は長期にわたって続いています。
■ロシアのウクライナ侵攻
ソ連が解体したあと、かつて東側陣営に属していた東ヨーロッパの国々や、ソ連の構成共和国だったバルト三国は、次々とNATOに加わっていきました。ロシアはこれを、自国の玄関先まで軍事同盟が迫ってくる動きだと受け止めます。
とりわけ大きな意味を持ったのがウクライナでした。キエフ・ルーシの都が置かれた土地であり、ソ連時代には最大級の工業地帯でもあった隣国です。
2014年、ウクライナで親ロシア派の政権が倒れると、ロシアはクリミア半島を自国に編入したと宣言しました。多くの国はこれを認めておらず、同じころ東部でも戦闘が続くようになります。
そして2022年2月24日、ロシアはウクライナへの大規模な侵攻に踏み切りました。欧米諸国は厳しい経済制裁でこれに応じ、中立を保ってきたフィンランドとスウェーデンもNATOへ加盟しています。


ニュースを見ていても、どうしてここまでこじれたのか分からなくて…。

この記事で追いかけてきた流れが、そのまま背景になっているんだ。国の始まりの地がウクライナにあること、ソ連時代は一つの国だったこと、広い緩衝地帯を安全の条件だと考えてきたこと。もちろんそれで侵攻が説明しつくせるわけじゃないし、ウクライナ側にも自分たちの歩みがある。だから両方の主張を並べて見るのが大事だよ。
📌 進行中のできごとを扱うときの注意 戦況や犠牲者数は発表する側によって数字が大きく異なり、確定した数値は明らかになっていないとされています。また、この対立にはロシア・ウクライナ双方の主張があります。この記事では歴史的な経緯の整理にとどめていますので、最新の状況は報道や公的機関の発表をあわせて確認してください(2026年9月時点)。
侵攻に至る経緯や国際社会の対応については、ロシアのウクライナ侵攻の記事で詳しく解説しています。
■ロシアの文化・民族・宗教
最後に、政治から少し離れてロシアという国の中身を見ておきましょう。
ロシアは100以上の民族が暮らす多民族国家です。人口の約8割をロシア人が占めますが、ヴォルガ川流域のタタール人をはじめ、イスラームを信じる人々やシベリアの少数民族も暮らしています。
宗教の中心は、10世紀にビザンツ帝国から受け継いだ流れをくむロシア正教です。ソ連時代には宗教が厳しく抑えられ、教会が壊されることもありましたが、ソ連崩壊後は信仰が公に戻り、修復された聖堂が各地でよみがえりました。
そして世界に知られているのが、19世紀に花開いた文学です。大黒屋光太夫の帰国から7年後の1799年に生まれたプーシキンに始まり、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフらが人間の内面を深くえぐる作品を残しました。
音楽ではチャイコフスキーの『白鳥の湖』、舞台ではロシア・バレエが世界の水準をつくりました。厳しい歴史のなかで積み上げられた文化は、いまも国境をこえて親しまれています。
押さえておきたいポイント
ここまでの流れのなかで、とくに押さえておきたいポイントをまとめます。読み終えたあとの振り返りにも使ってください。
📌 整理のコツ:ロシア史は「国の名前」で時代を区切ると一気に整理できます。キエフ・ルーシ → モスクワ大公国 → ロシア・ツァーリ国 → ロシア帝国 → ソビエト連邦 → ロシア連邦、の6段階です。文中に「ソ連」とあれば1922〜1991年の話、「ロシア帝国」なら1721〜1917年の話、と時代を即座に絞り込めます。

ロシア史って範囲が広すぎて混乱する…。どこから手をつければいい?

年号を先に覚えようとすると絶対に沈むよ。まずは国名の6段階だけ順番に言えるようにするのが先。骨組みができてから、各時代に人物と事件をぶら下げていけばいい。ロシア史はテーマで追いかけると見通しがよくなるから、「南下政策」と「日本との国境」の2本は流れでまとめておくとおトクだよ!
ロシアの歴史についてもっと深く知りたい人へ

ロシアの歴史をもっと深く知りたい人に、おすすめの本を3冊紹介するよ!
キエフ・ルーシからモスクワ大公国、ロマノフ朝、ソ連、現代ロシアまでを一冊で通して解説した入門書です。図やイラストを交えながら流れを追える構成になっており、「そのころ、日本では?」といったコラムで時代の位置づけもつかみやすくなっています。
初めてロシア史に触れる人、キエフ・ルーシから現代までの流れを短時間でつかみたい人に向いています。
特定の事件や人物をとことん深掘りしたい人には、記述がやや駆け足に感じられるかもしれません。
古代の国家形成から21世紀初頭までを、豊富な図版・写真とともに解説した一冊です。政治・外交や支配者の移り変わりを軸に、教科書的な文章とコラムを織り交ぜながらロシアの通史を体系的にたどれます。
写真や図版を見ながら政治・外交の変遷を体系的に理解したい人、資料集感覚で手元に置きたい人に向いています。
文章だけでスピーディに読み進めたい人には、ボリュームがやや重く感じられるかもしれません。
ロシア革命の中心である1917年の8か月間に焦点をしぼった新書です。皇帝退位の二月革命からボリシェヴィキが政権を握る十月革命まで、なぜ・どのようにロシアが体制転換に至ったのかを丁寧に描いています。
1917年のロシア革命がなぜ、どのように起きたのかをじっくり知りたい人、二月革命と十月革命の違いを詳しく理解したい人におすすめです。
ロシア史全体を広く通しで学びたい人には、扱う範囲が革命期に絞られているため物足りない可能性があります。
よくある質問(FAQ)
ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)は、1922年にロシアなど4つの共和国が集まって成立し、のちに15の共和国からなった社会主義国家で、1991年まで存在しました。ロシアはその中の一つの共和国という位置づけです。
1991年にソ連が解体すると、各共和国が独立し、そのうち最大の領土と人口を引き継いだのが現在のロシア連邦です。つまり「ソ連=ロシアを含む連合体」「ロシア=その中心にいた国であり、現在の国家」と整理できます。
もっとも大きいのは、16世紀以降のシベリア進出です。毛皮を求めた商人やコサックが東へ進み、人口の少ない広大な森林・凍土地帯を短期間で勢力下に置きました。
加えて、平地が続いて外敵を防ぐ地形に乏しかったことから、「広い土地そのものを守りの厚みにする」という発想が繰り返し働いたと説明されます。西や南への拡大が戦争や条約をともなったのに対し、東への拡大は抵抗が小さかった点も違いです。
1613年にミハイル・ロマノフが皇帝に選ばれて始まり、1917年の革命で倒れるまで約300年続いたロシアの王朝です。
この間にピョートル1世が西欧化改革とバルト海進出を進め、エカチェリーナ2世が黒海方面へ領土を広げました。ロシアが「帝国」として大国の地位を築いた時期にあたります。
1917年に起きた二つの革命をまとめてこう呼びます。三月革命(二月革命)で皇帝ニコライ2世が退位してロマノフ朝が終わり、十一月革命(十月革命)でレーニン率いるボリシェヴィキが政権を握りました。
これによって世界初の社会主義政権が誕生し、のちのソ連へとつながります。革命の細かい経過は「ロシア革命」の記事で解説しています。
直接のきっかけは1945年、第二次世界大戦の終盤にソ連軍が択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島を占領したことです。1945年から2026年で81年が経ちました。
ただし争点そのものは、1855年の日露和親条約や1875年の樺太千島交換条約で国境をどう引いたかという解釈にさかのぼります。1956年の日ソ共同宣言で国交は回復しましたが、平和条約は結ばれていません。
両国はキエフ・ルーシという共通の起源を持ち、ソ連時代には同じ国の構成共和国でした。1991年の独立後、ウクライナがEUやNATOへ接近したことにロシアが強く反発し、2014年のクリミア編入宣言を経て、2022年の侵攻に至ったと説明されます。
ただし、この対立には双方の主張があり、評価も定まっていません。経緯の詳細は「ロシアのウクライナ侵攻」の記事をあわせてご覧ください。
まとめ
森と川しかない土地に生まれた小さな国が、モンゴルの支配を耐え、皇帝を戴き、革命を経て超大国となり、そして解体してもう一度やり直す——9世紀に始まり、1,100年をこえて続いてきたロシアの歩みでした。
広い国土は、征服の成果であると同時に、外から攻められ続けた歴史の裏返しでもあります。この見方を持っておくと、ニュースで見る現在のロシアの動きも少し違って見えてくるはずです。

以上、ロシアの歴史のまとめでした。1本の線でつかめたら、あとは気になる時代を深掘りするだけだよ。下の記事もあわせて読んでみてね!
📅 最終確認:2026年9月 / 参照:山川出版社『詳説世界史』
山川出版社『詳説世界史』
コトバンク「ロシア」「ソビエト連邦」「北方領土問題」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年9月確認)
Wikipedia日本語版「ロシアの歴史」「キエフ大公国」「ロマノフ朝」「ソビエト連邦の歴史」「北方領土問題」(2026年9月確認)
外務省「北方領土問題の経緯」(2026年9月確認)
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