空海ってどんな人?簡単にわかりやすく徹底解説【密教マスターとなり真言宗開いた多才な男】

この記事は約10分で読めます。
空海(弘法大師)

今回は、真言宗の開祖である空海くうかいについて、わかりやすく丁寧に解説していきます。

この記事を読んでわかること
  • 空海はどんな生涯を生きたの?
  • 空海はなぜ真言宗を開いたの?
  • 真言宗ってどんな宗派なの?
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幼少期の伝説 〜捨身請願〜

空海は、774年6月15日に、讃岐国の多度郡(現在の香川県善通寺市)で誕生しました。父は佐伯直田公さえきのあたいたぎみ、母は玉依御前たまよりごぜんと言いました。

空海はスクスクと育ち、7歳の時、とある伝説を残しています。

ある日、優しい空海は、捨身ヶ嶽という山(香川県に実在する山)に登って、次のように願いながら、突如として崖から飛び降りたと言われています。

空海
空海

将来、私は困っている人を救いたいです。

もし、この願いが叶うならどうか我が命を救ってください。

人々を救うという夢を叶えるため、自らの運命を命を賭けて試そうとしたのですね。

すると、飛び降りたところを舞い降りた天女てんにょが受け止めてくれて、空海は一命を取り留めました。この空海の優しさ溢れるエピソードのことを捨身請願しゃしんせいがんと言います。

空海の持つ優しさ心は、後に空海が仏教に目覚め、真言宗を開く大きな大きな原動力となります。

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勉学に励む日々

778年、15歳(数え歳)になった空海は、叔父の勧めで、京(当時は長岡京)に出て学問の道を志します。

そして、791年、空海は官僚になることを目指して大学に入りました。空海は、優しいだけでなくとても頭の良い青年でもありました。

・・・ところが同年、空海はある僧侶から「仏門に入らない?」と勧められ、学業をなげうって、修道の旅に出てしまいます。

幼い頃から「困っている人たちを救いたい」と志していた空海にとって、仏教の教えはとても魅力的だったのでしょう。

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仏門に入り、修行の日々

仏門に入った空海は、奈良や四国の山岳などでの修行に励み、20歳(793年)の時に出家しました。(出家の時期は25歳説もあるようです。)

797年、空海は三教指帰さんごうしきという書を書きます。これは、仏教は道教や儒教よりも優れた教えであるということを書いた本です。

空海は、修行を重ねるうちに、「仏教をマスターすれば、困っている人たちを必ず救える!」という強い確信を持ち、その気持ちを表明したのが三教指帰でした。

さらに798年頃、空海は大和国の久米寺くめでら大日経だいにちきょうと呼ばれるお経を手に入れます。

大日経は、大乗仏教密教の教えが書かれた経典で、当時の日本にはあまり広まっていない教えが書かれていました。

大乗仏教って何?

「全ての人が悟りを開ける(苦のない浄土の世界へ行ける)」と考える仏教思想のことを大乗仏教だいじょうぶっきょうと言います。

当時の日本では、「お釈迦様のように厳しい修行を重ねた者だけが悟りを開ける」という考え方が主流で、大乗仏教の思想はマイノリティでした。

大乗仏教の「みんなきっと救われるよ!」っていう思想は、困っている人たちを救いたいと願い空海にとって、とても魅力的な教えでした。

密教って何?

密教とは、「仏教の教えは人間の理解を超えたものだから、理解するのではなく感じるものだ」と考えて、呪文を唱えたり厳しい修行で精神を鍛える教えのことを言います。

仏法に関する知識よりも、精神や五感に重きを置いているのが大きな特徴であり、大乗仏教の思想とセットで「仏様を心と五感で感じれば、誰でも悟りを開ける」というなかなか壮大な思想を持つ教えでした。

後に空海が開く真言宗は、この密教の教えに特化した宗派です。

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空海、唐へ留学する

厳しい修行と仏法を学ぶ日々が続きますが、空海はこれだけでは満足しませんでした。

空海が関心を持った大日経に書かれた大乗仏教・密教の教えは、日本では流行っておらず、本格的に大乗仏教・密教を学ぶには不十分な環境だったからです。

空海
空海

大乗仏教・密教の真髄を会得するため、なんとかして本場の唐に留学したいものだ・・・。

この空海の想いは、804年(空海31歳の時)に無事叶い、唐へ留学するチャンスを得ました。(同じタイミングでもう一人の偉人、最澄も唐へ渡りました)

最澄が約8ヶ月で帰国したのに対して、空海は唐への留学に三年もの長い年月を費やしました。

空海が、留学の目標として掲げていたのは密教マスターになることです。空海は、唐の都長安ちょうあんに向かった後、各地の寺院を渡り歩きました。

最終的に空海は、長安の青龍寺せいりゅうじ恵果けいかという人物の弟子となり、そこで密教の習得に励みます。

秀才だった空海は、すぐに恵果の一番弟子的な存在となり、恵果から灌頂かんじょうを授かります。

灌頂とは?

密教の正当な継承者として認める時に行う儀式のこと。

つまり、空海は恵果から正式な密教マスターの称号を得たことになります。

空海は、密教をマスターするだけではなく、サンスクリット語を学んだり、書道・詩などの腕を磨句など、多彩な才能を発揮し、おまけに密教に関連する大量の仏教グッズ・著書を集めて日本に持ち帰りました。

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空海、真言宗を開く

密教マスターとなった空海は、806年に帰国すると、密教の布教に向けた活動を始め、809年に嵯峨天皇が即位すると、これに接近し、少しずつ強い信任を得るようになります。

嵯峨天皇は、生粋きっすいの唐国マニアで、唐の文化や知識に強い興味を持っていました。

唐への留学経験を持ち、かつ、唐の最新の仏教思想をマスターした空海は、嵯峨天皇にとって非常に魅力的な人物でした。(空海という男そのものが、魅力的だったというのもあるでしょう。)

810年、平城太上天皇の乱(別名:薬子の乱)が起こります。平城太上天皇が「京を平城京に戻そうぜ!」と主張して嵯峨天皇と激しく対立し、軍隊が動員された事件です。

※「太上天皇」とは、前天皇を指す言葉です

平城太上天皇の乱は、嵯峨天皇の勝利で終わります。そして、都の情勢が落ち着いてきた810年10月、空海は国家安寧のため、密教流儀の大祈祷を行っています。

さらに同じ年、空海は東大寺の別当(代表者)に抜擢されました。

当時、東大寺を筆頭とする南都六宗なんとろくしゅうの勢力は、空海や最澄が唐で学んだ最新の仏教に強い警戒心を持っていました。

ところが、「密教の教えは、南都六宗の教えを包含するものだ」と考える空海は、南都六宗との対立をこのまず、旧仏教VS信仰仏教の対立の構図を和らげる役目を果たしました。

同じ頃、天台宗を開いた最澄は、南都六宗と激しく対立し、バチバチの論争を繰り広げていました。

最澄が著書を通じて激しく論争を交わした人物に法相宗の徳一という僧侶がいましたが、空海はこの徳一とも友好的な関係を築きました。

空海が東大寺別当に選ばれた理由はわかりませんが、平城太上天皇の乱の後、南都(平城京)と平安京の間で新たな火種を生まぬよう、嵯峨天皇が奈良に送りんだのかもしれませんね。

816年、空海は嵯峨天皇から高野山を与えられます。空海は、高野山を密教修行の本拠地とし、さらなる布教活動に邁進します。

さらに823年、空海は平安京にある東寺を与えられました。東寺は国営の寺院(官寺)であり、空海は朝廷との深い結びつきを手に入れることになります。

東寺は教王護国寺きょうおうごこくじとも呼ばれるようになり、平安京を密教の力で守る役割を持つ、重要な寺院となりました。

このようにして空海が広めていった空海流の密教の教えのことを、真言宗しんごんしゅうと言います。

真言宗が開かれた年は諸説ありますが、手元の日本史Bの教科書(山川出版社)では、空海が日本に戻って密教を広め始めた806年とされています。

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真言宗はどんな教え?

仏教の多くの宗派では、仏教とは「仏様がいる苦のない世界(浄土)へ行くための教え」だと考えます。

しかし、真言宗の教えは少し独特です。

真言宗では、浄土は自ら行くのではなく、人々が住む現世そのものが実は浄土である・・・と考えます。それなのに多くの人々が様々な苦しみを味わうのは、「この世界そのものが浄土である」という真理に気づいていないためです。

そして、この真理に到達するための教えが真言宗になります。

考え方はわかったけど・・・、なぜ空海は、この世界そのものが浄土だと考えたの?

仏教というのは、もともと「大昔にお釈迦様が見つけた苦のない世界へ行く方法(悟りを開く方法)を会得する」ための宗教です。

しかし、見方を変えるとこんな風に考えることもできます。

お釈迦様は、確かに悟りを開く方法を見つけた凄い人だけど、「悟りを開く方法」ってお釈迦様が創造したわけじゃなくて、昔から存在したわけだよね?

なら、さらに昔にお釈迦様以外にも悟りを開いた者もいただろうし、仏教の一番大事なところって実は「悟りを開く方法が存在するという事実(真理)そのもの」なんじゃないか?

真言宗ではこの考え方を採用して、万物の真理を象徴する仏様として大日如来だいにちにょらいという仏様を崇めます。

さらに、この世界が万物の真理(自然界のルール)によって構築されていることを考えれば、「大日如来」=「万物の真理」=「この世のすべて(宇宙)」と言えます。

つまり、大日如来は地球を含めた宇宙そのものということになります。

それなら、宇宙の一部である私たちにも当然、大日如来の素質が備わっているはずです。真言宗では、この素質を開花させることで大日如来と一体化すれば、誰もが悟りを開ける・・・と考えます。

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真言宗の特有の即身成仏の思想

仏教は基本的に、「現世は苦痛だらけ(四苦八苦)の世界だから、現世が終わったら浄土へ向かうぞ!」と考えます。

しかし、真言宗では悟りを開くのに現世から離れる必要はありません。

真言宗では、宇宙そのものが大日如来であり、万物の真理を会得すれば、現世にいた状態でも悟りを開けると考えます。

この生きたまま(現世にいるまま)でも悟りを開けるという思想のことを、即身成仏そくしんじょうぶつと言います。

ここまでの話を全てまとめると、「真言宗とは密教パワーで即身成仏を目指す宗派である」という感じでしょうか。

では、具体的にどうすれば即身成仏できるのかというと、修行と大日如来のパワーを組み合わせることで即身成仏を目指します。

修行とは、具体的に以下3つの修行を重んじます。この3つは合わせて「三密」と呼ばれています。

  • 身密(印を結ぶ)
  • 口密(真言を唱える)
  • 意密(心を仏の境地とする)

この3密の修行に大日如来のパワーを組み合わせること(加持)で、即身成仏が可能となります。(三密と加持を組み合わせることを三密加持と言います。)

真言宗・密教の入門書として、よく般若心経が取り上げられます。短い経典で解説があれば、初心者でも読めるので興味のある方はオススメですよ。

真言宗・密教の入門には般若心経がオススメ!
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空海の最期

真言宗を開いた空海は、多岐にわたる活動を行っています。

815年、42歳の時には、四国を遍歴して今の四国88ヵ所霊場を開きました。

828年には、東寺から徒歩数分の地に、最初の庶民に開かれた学校である綜芸種智院しゅげいしゅちいんを開校しています。

821年には、唐で学んだ土木技術を用いて、堤防決壊に悩まされていた讃岐国の満濃池まんのういけの改修工事を行っています。

そして835年、空海は62歳で亡くなりました。

即身成仏を実践した空海

真言宗では、835年に空海は「亡くなった」のではなく、「即身成仏した」と考えます。

厳密には今も魂は生き続けており、空海は、弥勒菩薩がこの世に現れるとされる56憶7千万年後に、人々を救済するために再びこの世に現れるとの遺言も残したとされています。

空海は高野山の霊廟れいびょうで生きていますので、今もなお、真言宗の宗徒によって毎日2回の食事が給仕されています。(その様子は極秘中の極秘とされています・・・!)

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空海の年表まとめ

空海の生涯年表まとめ
  • 774年
    空海、讃岐国(今の香川県)で生まれる
  • 780年
    捨身請願の伝説を残す
  • 788年
    都(長岡京)で勉学に励む
  • 791年
    大学に入学。官僚(官人)への道を目指す

    この頃から、仏教に強い興味を持ち始める。

  • 793年
    出家
  • 804年
    空海、唐へ留学
  • 805年
    唐で密教を学び、正統な密教マスターになる。
  • 806年
    帰国。真言宗の開宗

    真言宗の開宗時期は諸説あり。

  • 816年
    空海、嵯峨天皇から高野山をもらう
  • 823年
    空海、嵯峨天皇から東寺をもらう
  • 828年
    綜芸種智院を開校
  • 835年
    空海、亡くなる(即身成仏する)
  • 921年
    醍醐天皇から「弘法大師」号を賜る
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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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コメント

  1. ともぞう より:

    超おもしろい空海さん解説、ほんとにありがとうございます。
    拙ブログでも紹介させていただきました。

    高野山行ったのに空海さんがどういう人かよくわかってなかった…(;´д`)トホホ…
    次に日本でどこか行くときにはこのサイトを参考にさせていただきます。

    • もぐたろう mogutaro より:

      ブログを読んでいただきありがとうございますm(_ _)m
      読んでいただいた方にそう言って頂けると本当に嬉しいです!
      日本の歴史って日本人でも知らないことが意外と多いな!と個人的に実感しています。
      仕事もあるので更新は不定期ですが、日本の歴史のことを少しでも知ってもらえる・楽しんでもらえるよう記事を書いていくつもりなので、何かの機会がありましたらまたこのブログを見てもらえると嬉しいです。

  2. あーろん より:

    どのサイトより読みやすくて 詳しく説明してくださって
    今 歴史に夢中です。
    子供のころにこんなサイトがあったら 歴史好きになっていただろうと思います。
    今までつながらなかったものが 線になり 自分の子供にも教えてあげれる
    ようになりましたし ゆかりのある建物なんかはワクワクしながら
    見るようになりました。
    特に天武天皇が好きになりましたね^^琵琶湖一周してきましたw
    一つ作るだけでもものすごい苦労だと読めば読むほどわかります
    お仕事の合間に大変だとは思いますが これからも続けていってくれたら
    うれしいです ではノシ

    • もぐたろう mogutaro より:

      返信遅くなりました(汗
      そういっていただけるととても嬉しいです。実は、私も昔に歴史に興味を持ちいろんなサイトを見て回りました。
      しかし、あまりわかりやすいサイトはありませんでした。多分、個別の出来事・人物にピックアップした内容が多く時代背景や歴史の流れがわからないのと詳しく書いてあるサイトは、内容が難しすぎて理解できないためだと思います。個人的に一番わかりやすいサイトはwikipediaという結論に至りました(笑)。
      そこで、wikipediaよりも精度が落ちても構わないので、もう少しわかりやすいサイトが欲しいと思ったので自分で作ることしたのがこのサイトです。
      そして、そのわかりやすさの目安として漠然と思っていたのが「大人がこのサイトを見て、他人にそれを教えれるような内容」だったので、あーろん様が子供に教えているというお話を聞いてとても嬉しいです!
      このようなコメントは本当に励みになります。ありがとうございます!
      亀の歩みとなりそうですが、室町時代(戦国時代前)までは続けていく予定ですので、今後も引き続きご覧いただければ幸いです。

  3. Corvallis より:

    アメリカの大学で日本文化を教えています。
    仏教についても少し触れることになり、最澄と空海の資料を探していてこのブログに辿り着きました。今風のタイトルで面白かったですし、内容もとても分かりやすかったです。

    ありがとうございました。

    • もぐたろう mogutaro より:

      ブログを読んでいただき本当にありがとうございます。そして、コメントありがとうございます!
      アメリカの大学でも日本文化について教わる場がちゃんとあるんですね。初耳でした。
      日本の歴史でいえば外国だと「BUSHI」が有名なんでしょうけど、それ以外にも日本の歴史についてもっと知ってもらえたらなぁと漠然と思っています。
      至らぬ点も多々あるブログですが、今後もチマチマと更新していきますので、何かありましたらまたご覧いただければと思います。

  4. まちも より:

    勉強も歴史も全く興味のなかった私ですが、一気に読むことが出来ました。
    お話もぐんぐん入ってきて、小学生の娘と近いうちに高野山に足を運んでみようと思いました。
    今の時代だからこそ学びたい歴史だなと感じます。