源融の邸宅(河原院)跡地への行き方と観光を楽しむ豆知識【平安時代を感じるシリーズ】


京都へ旅行へ行った際にふらふら街中を歩いていたら、源融邸宅跡地(別名:河原院)を見つけたので簡単なレポートを残しておきます。

かなりマニアックな史跡ですが、京都に観光へ行かれる人の参考になれば!

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源融(みなもとのとおる)とはどんな人物?

この記事を読まれている方のほとんどはご存知だと思いますが、一応、源融(みなもとのとおる)について簡単に紹介しておきます。

 

 

活躍した時代は平安時代。年代でいうとだいたい850年〜900年になります。

 

 

嵯峨天皇(842年:崩御)の孫に当たり、天皇の血を引く高貴な血筋の人物でした。

 

 

当時は皇族が増えすぎてしまい財政を圧迫していたため、皇族のスリム化が問題に。そこで生まれたが臣籍降下(しんせきこうか)という制度。皇族の血筋を持っていても臣下の身分に落とされる仕組みで、言葉が悪いかもですが現代風にいうと「皇族のリストラ」です。

 

臣籍降下の対象になるのは、傍系だったり天皇になる見込みのない皇族たちがメインで、源融もその一人でした。ただ、リストラとは言っても裕福な生活はできますし、臣下になるとは言っても高い役職を与えられることも多いので、めちゃくちゃ高待遇です。

源融の人物像を簡単にまとめておくと

皇族の血筋を持つ高貴な家柄だけど、臣籍降下の対象になったので皇族ではない(天皇候補から外された)。

 

贅沢な生活が保障されていて、朝廷内でも要職に就いていた。

と言った感じです。

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藤原氏に敗北し、庭造りに情熱を注ぎ込む

源融は順調に出世を続けて、最も高い官位である左大臣という役職にまで登り詰めます。繰り返しますが、臣籍降下は皇族の身分を失う代わりに官位や財政面では厚い保障がありました。

 

 

・・・が、876年、藤原氏の母を持つ陽成天皇という天皇が即位することで事態は急展開。

 

 

陽成天皇との血縁関係を使って、左大臣の一つ下の官位に当たる右大臣だった藤原基経(ふじわらのもとつね)が左大臣の源融を飛び越えて、摂政(せっしょう)になります。

 

 

摂政は、天皇を補佐する特別職です。右大臣とか左大臣とか高い官位の人物が選ばれることが多くて、基本的には政争の勝者が選ばれます。ちなみに、右大臣から摂政になるんじゃなくて、右大臣「兼」摂政と兼任という形になります。

 

 

政争に負けた源融は政治意欲を喪失。あまり朝廷に顔を出さなくなり、政治の世界から次第にドロップアウトしてしまいます。

 

 

陽成天皇の前の天皇だった清和天皇の頃にも藤原良房(ふじわらのよしふさ)という人物が摂政になっており、もはや朝廷は藤原氏によって支配されていて、良房に続く基経の摂政就任に嫌気がさしたのかもしれません。当時、源融は55歳前後であり、年齢的にも引き際だと感じたのかも。

 

 

そして、朝廷に顔を出す機会が減るのに合わせて、自宅(河原院)の庭造りに情熱を注ぎ始めるようになります。話が繋がりましたね。

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源融「河原院に、前に見た陸奥国の美しい風景を再現するぞ!」

源融は、昔に陸奥国で仕事をしていたことがあり、陸奥国にある塩竈(しおがま)という場所の風景をたいそう気に入っていたらしく、その風景を自宅の庭で再現することにしました。(ちなみに、今の宮城県塩竈市です)

 

 

塩竈は海辺の町なのでまずは海水が必要・・・というわけで、河原院のとある池を全て大阪湾から持ってきた海水に変えてしまいます。めちゃくちゃ人を雇わないとできない大事業ですが、源融は富豪なのでノープロブレム。

 

 

そして、持ってきた海水を利用して藻塩(もしお)を作っていたと言われています。藻塩は、海水に海藻エキスを加えて作られる塩のこと。海藻を乾燥させて海水に浸す、また乾燥させて海水に浸す・・・を繰り返した後、塩水のついた海藻を焼いて作ります。

ちなみに、今でも売ってます。

平安京(京都市)は内地なので海を知らない人も多かったはずで、磯の匂いがする河原院、人々の注目の的だったはずです。

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河原院跡の場所

場所は上のマップのとおり。目印は近くにある五条大橋です。源平合戦時に源義経と弁慶が出会った場所としても有名で、弁慶と源義経の石像が立っています。

そして、そこから少し中道に入ったところに河原院跡地の看板が立っています。

こんな感じ。コンクリートからそびえ立つエノキの大木が目印です。この木は、昔々に河原院の敷地内にあった森林の名残なのでは?と言われています。さらに、この看板を読むと面白くて、河原院がめちゃくちゃ広かったことがわかります。

上の地図を見直していただきたいのですが、河原院の左下の方に渉成園ってのがあると思います。対角線でこの付近までが源融の邸宅だったのでは?と言われています。・・・広すぎぃ!!

 

 

ちなみに、上で紹介した海水を運ばせて作った池は渉成園の近くにあったのではないかと言われているらしいです。街の至る所でこのような話が転がっているのは古都である京都ならではです。

 

 

というわけで、看板はありますが河原院のほんの一部。実際は周辺の町全体が源融の敷地でした。町の名前にも源融の名残がたくさん残っていて、「河原町」とか「本塩竃町」とかは源融がその由来と言われています。その影響力、おそるべし・・・。今もなお、地名としてその名を残し続けています。

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源融の怨霊事件

政治を諦めた源融はとにかく、その邸宅に晩年を捧げました。

 

 

が、884年に陽成天皇が崩御するとまだ政治を諦められず、次期天皇を巡って源融はこんなことを言ったと言われています。(諸説あるようですが)

 

 

源融「私は臣籍降下をした身だが、天皇の血を引いている。私も次期天皇候補として当然入るべきです」

 

 

もちろんこれは却下されます。これがまかり通るなら、そもそも臣籍降下という制度の意味がありませんから当然です。

 

 

しかし887年、衝撃的な出来事が起こります。自分と同じ臣籍降下した身分だった宇多天皇が天皇即位したのです。史料に残っているかわかりませんが、この時の源融の心中は複雑だったことでしょう。ちなみに、宇多天皇が即位した理由は簡単に言うと、「藤原氏にとって有利だったから」です。

 

 

源融「私は臣籍降下を理由に天皇候補から除外された。でも、それは私を候補から外した本当の理由じゃない。全ては藤原氏が牛耳っている。藤原氏にとって都合が良いとなれば、臣籍降下した身でも宇多天皇のように即位できてしまう。結局、私は皇族の血を引く身でありながら、生涯、藤原氏に勝てなかったのだなぁ・・・」

 

 

みたいなことを思ったんじゃないでしょうかね。

 

 

その後895年に源融は他界。しばらくすると河原院は、宇田法皇に献上されることになりますが、宇田法皇はその地で源融の怨霊を見たと言われています。

 

 

なんとなくわかりますよね。「なんで俺(源融)はダメでお前(宇多法皇)はいいんだよぉ・・・」みたい嫉妬の気持ち。(なお、二人の仲が悪かったわけではない)

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まとめ

源融が政治に捧げていた情熱の全てを、邸宅に注いだ結果が河原院なのでした。

 

 

余談ですが、同年代に同じ臣籍降下の身で政治的に挫折し、邸宅ではなく恋愛に情熱を注いだ男がいます。在原業平(ありわらのなりひら)という人物です。この記事を書いているうちに、源融と在原業平の境遇が非常に似ているなと感じました。源融の生涯に何か思うところのある方にはぜひ合わせて読んでいただきたいです。

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