日本人のほとんどが知らない古墳時代の偉人。雄略天皇

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雄略天皇は古事記に登場する天皇であり、大陸の史料で倭の5王と呼ばれていた讃、珍、斉、興、武のうち最後の武が雄略天皇と言われています。時期はおおむね500年前後になります。当時は天皇号は使われていませんでしたが、便宜上、雄略天皇と言うことにします。

雄略天皇は、大陸の最新文化・技術や宋の権威に依存していたそれまでの倭王権力の在り方を大きく変えました。雄略天皇は武力を背景に国内統治を進めていき、遂に宋の権威などに依存しない倭国独自の権力構造を作り出したのです。

これはとても重要なことです。外国に依存する倭王の権力は、国際情勢の変化に対して非常に弱い権力でした。それでも依存しなければならないのは、倭国が有力な豪族たちの連合国のような仕組みになっており、倭国を治める王としてそこから抜きんでた存在になるためには、どうしても大陸の最新技術や権威が必要だったからです。

この「連合国のような仕組み」を武力で解体し、新しい国の指針を示したのが雄略天皇でした。

難しい話ですが、雄略天皇は国の在り方の大転換を行ったすごい人!ということです。

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倭の5王、宋から冊封を受ける

冊封とは?

冊封とは、皇帝が他国の王に官爵を授け、君臣関係を結ぶことです。これは中国の天子思想に基づくものと言われています。卑弥呼が魏から「親魏倭王」という呼び名を授けられたのは、まさに冊封といえます。

卑弥呼の時代から100~200年の間を空け、再び倭の5王は中国との冊封体制に積極的に入り込んでいくことになります。

なぜ冊封を受けようと倭国は思ったのでしょうか。卑弥呼の時は、国内統治のため魏の権威を利用したと考えられてますが、この時はそれもあったでしょうが少し事情が違っていました。

打倒!高句麗!

混迷の朝鮮半島。百済・新羅・高句麗でも書いたように、倭国は百済からの援助要請を受け、高句麗と戦いましたが、大敗を喫してしまいます。

倭の5王の時代はその後の400年~480年頃の時代になります。当時、朝鮮3国(百済・新羅・高句麗)は、ともに中国の冊封体制に取り込まれており、それぞれ官爵をさずかっていました。

そこで、倭国は考えました。倭国も冊封を受けて、朝鮮半島の軍事権とそれなりの位を貰うことができれば大義名分を得て高句麗に対抗できるかもしれない・・・と。

さて、倭の5王による打倒高句麗作戦。成功するのでしょうか

倭王、挫折する

結論から言いますと、作戦は失敗しました。確かに倭国は宋の冊封を受けることができましたが、授けられた官爵はとてもとても低いもので、高句麗に対抗できるなど夢の又夢の話だったのです。

倭の5王の時代は、ざっくりと400年~500年の約100年です。その間必死に朝貢して、お願いしたにもかかわらず全然聞き入れてもらえなかったということになります。

宋は、他国との争いのため高句麗や百済とは比較的友好的な関係を結んでいたため、打倒高句麗を目指す倭国に対して朝鮮半島の軍事権を授けるなどできるはずもありませんでした。

当時の様子を探る。倭王武の上奏文

倭王武(雄略天皇)が、宋へ上奏した文が今でもわかっており、当時倭王がどんなお願いをしていたのか見ることができます。

簡単に見てみましょう。(時期は478年とされています。)
※注意:上奏文の解釈には様々な説があるので、参考程度に見てください。

第1:倭国は征服戦争に明け暮れ、多くの国を支配しています。このおかげで宋国皇帝は平和であり、また、多くの国を支配することで皇帝の徳を広めることができています。

第2:高句麗が百済を侵略しており、百済は酷い有様である。高句麗は酷い国だ。
※実際に、475年、高句麗は百済を攻め、百済の首都漢城を陥落している。

第3:父(斉)が高句麗を倒そうとしていたが、あと一歩のところで届かなかった。父の無念を晴らしたい。

第4:高句麗をなんとしても倒したい。高句麗を倒せば、今以上に皇帝に忠節を尽くせると思いますので、打倒高句麗のため、官爵を授けていただけないでしょうか。

とこんな感じになっています。この上奏文も宋に受け入れてもらえることはありませんでした。

ただ、なぜそこまで高句麗打倒に固執するのかがよくわかりません。これにもいろいろな説があるようですが、ここでは触れません(自分もよくわかっていないので・・・)。

強い雄略天皇

治天下大王だった雄略天皇

話は少し変わり、埼玉県の稲荷山古墳という古墳から当時の鉄剣が出土しました。その鉄剣には、「治天下大王 ワカタケル大王 うんぬん・・・」と文字が刻まれており、これが雄略天皇のことを指しているというのが定説とされています。

【下画像がその鉄剣です。錆びてますが、真ん中に字が刻まれているのがわかります】

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「治天下大王」とは「天下を治める大王」という意味。天下が何を指すかにはいろいろな説があります。倭国内なのか、日本列島なのか、朝鮮半島までを指すのか。また、実態としてその天下を本当に治めていたのかどうかも問題になります。

もし、朝鮮半島までを指す意味で使われていたならば、雄略天皇が打倒高句麗に固執したのは、「治天下大王」としての自負があったからだと憶測することもできます。

いずれにしても、「治天下大王」と呼ばれること自体から雄略天皇時代の倭王権力は相当に強いものだったと言えるでしょう。現に、雄略天皇は、吉備氏や葛城氏といわれる地方の巨大豪族たちを屈服させたと言われています。

ちょうどこの頃は、畿内に巨大な前方後円墳が集中し、地方では古墳の縮小傾向が見られる時期であす。

古墳は、当時の日本列島の勢力図を教えてくれます。大きい古墳が畿内に集中するということは、畿内に強大な権力を持った今までにない人物が登場したことを意味しているのです。

冊封を放棄する雄略天皇

先ほど倭王武(雄略天皇)の上奏文について触れましたが、倭王5代に渡り行われた冊封作戦。それが雄略天皇の頃になると行われなくなります。

いくら頑張っても宋が欲しい官爵をくれないため諦念の気持ちもあったのでしょうが、そもそも「治天下大王」と国内で呼ばれるほどの権力を持つようになったのだから、宋の権威を借りなくともいいのではないか?と思ったのかもしれません。

実際に、雄略天皇以降、倭国は冊封を受けることをやめ、宋との国交は途絶えてしまいました。次の国交の回復は600年頃の遣隋使の派遣まで待たなければなりません。

こうして、倭国は大陸の力に頼らない自立した国へと成長していくのです。

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