保元の乱の藤原頼長と藤原忠通の対立をわかりやすく紹介

【藤原頼長】

今回は、1156年に起きた有名な保元の乱の際に対立していた藤原頼長藤原忠通について紹介します。メインは色々と(男色で)有名な藤原頼長となります。

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藤原頼長と摂関家の内紛

まずは、藤原頼長が活躍した時代の時代背景を紹介します。藤原頼長は、実に複雑な情勢の時代に生まれました。

まずは、藤原頼長の父(養父)だった藤原忠実(ただざね)の話をしなければなりません。藤原忠実の話は以下の記事でも紹介していますので参考までにどうぞ。

後三条天皇が1073年に亡くなった後、1072年に即位した後三条天皇の息子の白河天皇が活躍することになります。...

頼長の父、藤原忠実

藤原忠実の生涯は、治天の君(院政を行う上皇)に翻弄され続けた生涯でした。当初、藤原忠実は堀河天皇の関白として活躍していましたが、若き堀河天皇では対応しきれない問題が山積していたことで、代わりに白河法皇が院政を行うようになると藤原忠実の力も弱体化してゆきます。

追い討ちをかけたのは、白河法皇が鳥羽天皇の妃として忠実の娘を入内させようと推薦したのを忠実が拒否したことでした。これだけなら良かったのですが、後日、忠実は白河法皇ではなく鳥羽上皇から同じ入内の話を持ちかけられると、これに快く承諾します。メンツを潰された白河法皇はこれに激怒し、1120年、忠実は一時政界から追放されてしまいます。忠実がこの縁談を拒否したのは、白河法皇の女癖の悪さが理由だったと考えられています。忠実は、娘が白河法皇と過ちを犯すことを恐れたのです。

そして同じく1120年、この記事の主人公である藤原頼長が生まれます。

こうして苦難の時代を過ごしていた藤原忠実ですが、1129年に白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇が院政を本格的に開始すると再び政治の表舞台へ登場します。鳥羽上皇は院政を開始すると白河法皇派だった院近臣を一層し、院政の刷新を図ります。藤原忠実の娘が鳥羽上皇に嫁いでいたこともあり、白河法皇に染まっていない人物として藤原忠真は鳥羽上皇に再び呼び戻されたわけです。

藤原頼長と藤原忠通

【藤原忠通】

藤原忠実には2人の息子がいました。藤原忠通と藤原頼長です。この父と2人息子は、実に複雑な親子関係を築き上げることになります。

藤原忠実が白河法皇によって政界追放された1120年の翌年(1121年)、長男だった藤原忠通は、追放された忠実に代わり摂関家の家督を継ぎ、氏長者となります。そして、当時天皇だった鳥羽天皇の関白に就任します。

1125年、藤原忠通に子が恵まれないことを憂いた父の忠実は、息子の頼長を忠通の養子とします。頼長と忠通は兄弟でしたが20歳ぐらい歳が離れていたので、そこを利用し藤原忠実は、頼長を忠通の養子としたのです。忠通の後を藤原頼通に引き継がせようと思ったわけですね。

ところが頼長を忠通の養子にした後、幸か不幸か藤原忠通には次々と子が生まれます。すると、忠通は次第に自分の息子を後継者にしたいと考えます。これは当然の親心でしょう。こうなると養子にした藤原頼長は忠通にとっては邪魔者にしかなりません。1125年以降、忠通と頼長の関係は次第に微妙なものになります。さらに藤原忠実は忠通よりも秀才だった藤原頼長を寵愛するようになり、摂関家内部に氏長者だった藤原忠通と頼長・忠実ペアとの対立関係が形成されました。

なんだか、とても複雑ですね・・・。

身内同士の争い ー忠実・頼長VS忠通ー

忠実・頼長と忠通の対立は次第に激化してゆきます。

1129年、白河法皇が亡くなり鳥羽上皇が院政を始めると、追放されていた藤原忠実は政界に復帰し、内覧宣旨を受けます。

内覧(ないらん)は摂政・関白が持つ強力な権限でした。詳しくは、以下の記事を参考にどうぞ。

【藤原道長】藤原道長は、平安時代中期に天皇の外戚という立場を利用し、最高権力者として権勢を振るった人物です。平安時代...

当時関白だった藤原忠通は、父の忠実により内覧の権限を剥奪され、実質的権限を失った形式的な関白に成り下がってしまいました。この件で、両者の対立は表面化し、決定的なものになります。

1143年、藤原忠通に念願の男子が生まれます。自らの息子を次期摂関職にしたいと願う忠通は、頼長との縁組を破棄してしまいます。

藤原忠実と藤原忠通の義絶

1150年、藤原頼長は近衛天皇に養女を入内させます。頼長は天皇の外戚となり、藤原忠通から摂関職の座を奪おうと考えます。藤原忠通も黙って見てるわけにはゆきません。同年、忠通もすぐに養女を近衛天皇へ入内させることで、頼長に対抗しようとします。

ここに及んで、一向に父の言うことに従おうとしない忠通を見て、遂に藤原忠実の堪忍袋の尾が切れてしまいます。強引に頼長を氏長者にし、なんと忠通との親子関係を義絶してしまいます。「もうお前など息子ではないわ!」とガチンコで忠通に突きつけたのです。

こうして、忠通は一時的に没落し、頼長が摂関家の氏長者として権勢を振るうようになります。摂関家の内紛はもはや収まるところを知りませんでした・・・。

「悪左府」藤原頼長

藤原頼長は1151年に内覧宣旨を受け、近衛天皇の下で政治を行うようになります。(忠通が形だけの摂関職になっていたの摂政・関白にはなっていない。)

藤原頼長は、読書を好んだ秀才と言われており、確かに頭は良いのですが、いかんせん融通の利かない男でした。藤原頼長は昔のような律令に基づく政治を厳格に行い、院政の登場による治外法権化しつつあった政治を刷新しようと考えていました。ところが、頼長の政治は融通の利かない厳格な方針ばかりであり、多くの人が頼長の政治を批判し、頼長は敵を増やし続けました。

ところが、それでも藤原頼長は自らの信念を曲げません。とにかく藤原頼長は自分にも他人にも厳しい性格で、融通も利かずに、何かと執念深い性格でもありました。そんな藤原頼長は様々なトラブルを起こしてゆきます。不手際のあった院近臣の家を燃やしたり、超強かった奥州藤原氏に「税金納めろや!」と喧嘩を売ってみたり、白河法皇すら手の焼いた寺院にも強硬な姿勢を示しました。

このような藤原頼長の滅茶苦茶な政治に、周囲の人々は次第に辟易してゆきます。そして、遂には近衛天皇までもが藤原頼長のことを嫌うようになります。こうして藤原頼長は孤立してゆくことになります。

左大臣だった藤原頼長は、その厳しく熾烈な政治の在り方から「悪左府」の異名を持つようになります。「悪」は悪いと意味ではなく、強いとか強烈とかいう意味です。

保元の乱へ

1155年、近衛天皇が逝去します。近衛天皇が厳格で執着心の強い頼長を嫌っていたことから、世間では「頼長が、近衛天皇を呪詛し殺した!」という噂が広まります。鳥羽上皇は愛息子の死を嘆き、その息子が嫌っていた頼長に強い憎しみを抱くようになっていました。おそらく呪詛の話は作り話だとは思いますが、鳥羽上皇の反感を買った頼長は内覧の権限を剥奪させ、政治の実権を奪われてしまいます。

藤原忠通と藤原得子

・・・実は、この話の裏には一度力を失っていた藤原忠通の存在がありました。藤原忠通は、頼長が近衛天皇に接近していることに対抗し、鳥羽上皇が寵愛する藤原得子に接近します。

鳥羽上皇・藤原得子・藤原忠通らは様々な思惑により、近衛天皇の次期天皇を崇徳天皇の同母弟である雅仁親王に決定します。1155年、後白河天皇が即位します。崇徳上皇は、弟の即位によって、密かに抱いていた院政の夢を完璧に打ち砕かれることになります。

さらに1156年に鳥羽法皇が亡くなると、遂に保元の乱が勃発します。鳥羽法皇が亡くなると、朝廷内ではこんな噂が流れます。「崇徳上皇と藤原頼長が国を傾けんと密かに企み事をしている」と。おそらくこれは、崇徳上皇が院政を行う芽を完全に摘みたい藤原得子と藤原頼長を失脚させたい藤原忠通とが意図的に流布した噂だと思われます。

この噂を利用し、忠通は頼長を追い詰めます。謀反人扱いされた頼長は荘園なども没収され、追い詰められた頼長は同じくあらぬ噂を流された崇徳上皇に接近する他ありませんでした。

ちなみに保元の乱当時の後白河天皇は政務能力に欠け、ほとんど傀儡に近い状態であり、藤原得子が強い影響力を持っていました。

藤原頼長の死

忠通と藤原得子は、平安京内に武士を配置し、崇徳上皇らが何か不穏な動きをすればすぐに捉えられるよう警戒を怠りません。

武力で追い詰められた崇徳上皇と藤原頼長は、もはや同じ武力で対抗する他に道は残されていません。こうして武士を集め、後白河天皇サイド(藤原得子や藤原忠通など)と武力衝突をしますが、結果、崇徳上皇側の惨敗。

藤原頼長は矢で体を射抜かれ負傷したものの、戦地から辛くも脱出し、衰弱した状態で父の忠実の元へ向かいました。忠実は息子の頼長を寵愛しており、頼長は父に保護してもらおうと考えたのでした。ところが忠実の家の前に着いても、忠実は一向に門を開こうとしません。崇徳上皇側の敗北はほぼ確定しており、ここで頼長に加担すれば自らの命が危うくなるからです。頼長を寵愛していた忠実にとっても、息子を見捨てるという洗濯は苦渋の選択であり、断腸の思いでの決断であったろうと思います。

こうして寵愛してくれた父にも見捨てられ、頼長は無念の中亡くなりました。

おまけ ー藤原頼長のもう1つの顔ー

なんだか、とても不幸な人生を歩んでいるような気がする藤原頼長ですが、実は一部の分野では藤原頼長はとても有名な人物です。何かと言うと、いわゆる「男色」というやつです。

藤原頼長はどうも男も好きだったようで、「台記」という日記にその様子が生々しく描かれています。藤原頼長は、いろんな意味で極端というかぶっ飛んでいる人物だったように思います。ただし、当時の朝廷内において男色は一般的な関係だったという可能性もあります。古代ギリシャでは、男であっても若い男は恋愛対象になり得ました。いわゆるプラトニックラブです。そんな事例もあるので、朝廷内で男色が一般的だったとしても不思議ではありません。

まとめ

複雑な摂関家の内紛に巻き込まれながらも、志を高く持ち政治の刷新を試みたものの、その苛烈な政治で多くの人に批判を浴び、最期は最愛の父に見捨てられてしまった藤原頼長の人生は、後世の我々にとっては、なんとも悲壮感漂うものです。

頼長の政治は正直あまり有名ではありませんが「男色」という分野においては、頼長は時代の先駆者として有名な人物・・・だと思います。志高く良き政治を志していた頼長ですが、頼長=「男色」という我々の価値観についてあの世でどのように思っているのでしょうか・・・。

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