平等院を建てた道長の息子、藤原頼通をわかりやすく紹介するよ【その1】

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今回は、平安時代中期に栄華を誇った藤原道長の息子である藤原頼通(ふじわらのよりみち)のお話をしようと思います。

 

藤原頼通は、世間一般には、10円玉にも描かれている平等院鳳凰堂を建てた人物として有名ですが、頼通の人物像やその活躍について知っている方は多くありません。

 

この記事では、藤原頼通の人物像や政治の話を中心に頼通という人物について見ていきたいと思います。

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父、藤原道長のプレッシャー

【以下、記事の内容で人間関係がわからなくなったら、上図を参考にしてください】

 

藤原頼通の境遇はとても不幸なものでした。なぜなら、栄華を極めた藤原道長の後継者となってしまったからです。

 

藤原頼通には、自ら成し遂げるべきことはありませんでした。父の道長が全てを手に入れてしまったからです。頼通にできることは、道長が築き上げた権勢を維持することだけでした。

 

高みにのぼることほど、興奮的で刺激的なことはありませんが、それを維持するほど退屈で困難、加えて割りに合わない仕事はありません。いくら頑張っても道長と比べられ、何をするにしても一家三后を成し遂げた道長を超えなければ人々からの評価を得ることはできません。言い過ぎかもしれませんが、頼通のポジションはまさにババ抜きのババ状態でした。

邪魔な兄弟たち

頼通にとっての不幸は、偉大なる父親の存在だけではありません。頼通は何をするにしても常に兄弟たちの動向を気にする必要がありました。

 

藤原道長の場合、兄弟のことを気にする必要はありませんでした。なぜなら、道長が権力者となったとき、すでに兄弟たちが亡くなっていたからです。

 

道長の兄弟の話は以下の記事で紹介しています。(みんな亡くなっていきます。)

中関白藤原道隆・伊周の没落と七日関白の藤原道兼をわかりやすく解説する
前回の記事(寛和の変とは?花山天皇の出家と一条天皇即位【藤原兼家の大勝負】)では、藤原道長の父である藤原兼家が寛和の変(かんなのへん)により...

 

平安貴族たちにとって兄弟というのは、悲しいことに基本的にライバル関係にあります。道長はライバルのことを考える必要はありませんでしたが、頼通は常にライバルのことを気にしなければならず、行動の自由度が道長とはまるで違いました。

 

藤原頼通の話は、道長の話と比較すると明らかに暗い話が多いです。(通史的には頼通の時代は、摂関政治の衰退期に当たるのでしょうがないのですが・・・)なので、「頼通はダメなやつだった!」なんて感じることもありますが、頼通について知るには、頼通の抗うことのできない境遇についてもちゃんと理解しておく必要があります。

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子に恵まれない藤原頼通

これまで当たり前すぎてちゃんと説明してなかった気がしますが、摂関政治において最も重要なことは、「娘を産んで天皇に嫁がせ、男子を産んでもらう!」という一点に尽きます。

 

藤原道長は、この点も幸運に恵まれていました。一家三后を実現したことからもわかりますが、嫁がせる娘がたくさんいました。彰子・姸子・威子・嬉子という感じで。そして男の子もたくさん生まれました。頼通の話をすると道長という男は本当に豪運の持ち主だったのだ・・・と強く痛感します。(運も実力のうちですがね!)。

 

一方で、藤原頼通は子に恵まれず、養子を迎える有様でした。そしてこれを好機と捉え、頼通の兄弟たちも娘の嫁がせ合戦に参入していきます。(つまりは、兄弟同士の対立です。)

 

以下、この記事では、そんな娘嫁がせ合戦の様子を見ていきます。頼通が、道長の時のような圧倒的強者ではないことがわかると思います。

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後一条天皇の崩御

まずは、時系列の整理を。

 

1016年、三条天皇が譲位し、皇太子だった敦成親王が後一条天皇として即位します。後一条天皇は8歳で即位し、1036年に崩御するまでの間、約20年の間在位していました。そして、後一条天皇在位中の1028年、朝廷内に君臨していた藤原道長が亡くなります。道長は1017年には引退し、後を頼通に託しましたが、実質的に死ぬまで権力を持ち続けました。よって、藤原頼通の治世というのはある意味1028年からと言えるでしょう。

 

後朱雀天皇即位

後一条天皇の次期天皇候補(皇太子または東宮とも言う)は、最初は三条天皇の息子である敦明(あつあきら)親王でしたが、藤原道長の裏工作により敦明親王は皇太子を辞退。その後、皇太子には後一条天皇の弟である敦良(あつなが)親王が選ばれました。その後、後一条天皇は男子を産むことができなかったため、そのまま敦良親王が後朱雀天皇として即位したのです。

このあたりの経過は、以下の記事で少しだけ触れているので参考までに。

三条天皇の悲しき生涯を知ろう!【眼病と藤原道長との対立】
前回の記事では、三条天皇と藤原道長との対立の様子を紹介しました。この記事ではそのクライマックス、つまり三条天皇退位までの様子を紹介したいと思...

 

後朱雀天皇の即位までは、ある意味で道長によって決められた既定ルートでした。しかし、後朱雀天皇以後は、頼通の実力で外戚の地位を築き上げなければなりません。というわけで、頼通の実力とやらを見ていきましょう!

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兄弟たちの入内争い

後朱雀天皇には、道長の娘の藤原嬉子(きこ)という妃がおり、実は子どもも生まれていました。この子供が、後朱雀天皇そくと同時に皇太子となります。(後の後冷泉天皇です。)

 

頼通とその兄弟たちは、その後朱雀天皇へ娘の嫁がせ合戦を始めます。男子を産んでもらい、天皇として即位させようとしたのです。(ネタバレですがこれは失敗し、後冷泉天皇が即位します。)

 

ちなみに入内(じゅだい)とは、天皇の妃となるべき人が、正式に内裏(天皇の住処)へ入ることを言います。

藤原頼通の兄弟たち

ここで、藤原頼通の兄弟を紹介します。

同母弟の藤原教通(のりみち)

異母弟の藤原頼宗(よりむね)・藤原能信(よしのぶ)

 

の3人の兄弟が存在していました。このうち、教通・頼宗は頼通に負けじと娘を入内させました。

入内争いの勝ち条件

ここで一度整理ですが、頼通やその兄弟たちの目的は「娘を天皇に嫁がせ、男子を産んでもらう。その後、その男子を天皇にし自らはその外祖父(外戚)の立場から政治を掌握する!」というものでした。

 

なので、入内→男子産む→皇太子に指定される→天皇になると言う4プロセスを一番早く達成した者が勝者になります。

 

後朱雀天皇に関しては、頼通・教通・頼宗の3人がこの争いに参戦しましたが、この争いは意外な結末に終わることになります。

なぜか、男子が生まれない・・・

最初に娘を入内させたのは、当時の第一権力者だった藤原頼通でした。1037年の出来事です。この娘は藤原嫄子と言い、頼通の実の娘ではなく、養子で迎え入れた娘でした。頼通は娘に恵まれず、入内合戦に参戦するため、嫄子を養子に迎え入れたのです。

 

しかし、嫄子は、男子を産むことなく1039年に若くして亡くなります。これを好機と次に娘を入内させたのが、教通、頼宗でしたが、それでも男子が生まれることはありませんでした。藤原道長にたくさんの娘が生まれたのと比べるとんでもない違いです!

 

こうして、ことごとく頼通らの後宮政策は失敗。娘の入内までは成功しますが、誰も男子を産むことができなかったため、勝者なしという結果に終わります。1045年後朱雀天皇は崩御し、当初から皇太子になっていた後冷泉天皇が即位することになります。

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藤原頼通、背水の陣

後冷泉天皇の即位は、頼通にとってかなりの脅威でした。その理由は、即位と同時に決められた皇太子にあります。

頼通が恐れた尊仁(たかひと)親王の立太子

後冷泉天皇の即位と同時に、尊仁親王という人物が立太子しました。詳しくは、記事上に載せた系図で確認していただきたいのですが、尊仁親王は後朱雀天皇と禎子内親王の間に生まれた人物です。

 

尊仁親王が皇太子になると何がヤバいかというと、尊仁親王が天皇になると、藤原氏が外祖父になれないという点です。再び上の系図を見てください。尊仁親王の外祖父(母方の祖父)は後三条天皇になります。

 

つまり、この状態を放っておくと、長年の権力闘争でようやく得た外戚のポジションを失いかねないわけです(外戚は三条天皇となり、藤原氏ではなく皇族になる!)。頼通は心穏やかではいられなかったことでしょう。現に尊仁親王と頼通の関係は最悪でした。しかし、頼通にもまだチャンスは残されています。後冷泉天皇に娘を嫁がせ、男子を産んでもらえれば立場は一気に逆転するのです!

再び失敗する後宮政策

頼通は決定的に運のない男でした(道長が豪運すぎたとも言える!)。頼通・教通は後冷泉天皇に娘を嫁がせますが、やはり、後朱雀天皇の時と同様に男子に恵まれませんでした。ラストチャンスも活かすことができませんでした。

 

1068年、ついに後冷泉天皇は崩御し、尊仁親王が即位してしまいました。後三条天皇の登場です。後三条天皇の即位を持って、道長が築き上げた盤石な外戚政治体制はあっけなく崩壊してしまうのです。

 

それにしても頼通は本当に不幸な男です。もう少し子に恵まれ、娘を多く持っていれば歴史の流れは大きく変わっていたかもしれないのです。しかし、こればかりは運否天賦に委ねるしかないわけで、頼通を一方的に非難するのも考えものでしょう。とはいえ、頼通は当時としては珍しく1人の女を愛した男でもあったので、子供を増やそうとしなかった頼通自身にも問題があったことは否めません。

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まとめ

以上、藤原頼通の後宮政策について話をしてみました。ひたすら誰と誰が嫁いだ!とか子供が生まれた!とかそんな話ばかりで、私たちにとっては聞いてもつまらない話かもしれませんが、当時の貴族たちにとってはこのような話は自分の一生に関わる死活問題でした。(そんなことより民衆のために一生懸命頑張れよ!と思いますが、当時の常識では、そんなことは二の次だったのです)

 

摂関政治の致命的な欠点

今回の内容を踏まえると、摂関政治の致命的な欠点が浮き彫りになってきます。

 

繰り返しですが、摂関政治を保つには「娘を嫁がせ、男子を産む」ことが必要になりますが、娘を出産し、その娘が男子を産むというのは、人間の努力でどうなるものでもありません。つまり、望み通りに子が生まれるかどうかは運次第ということ。

 

摂関政治というのは、運の要素が非常に強い、かなり不安定な政治のあり方だったと言えます。摂関政治は800年代中期〜後期から始まったので、ざっくりと約200年続いたことになりますが、そもそもこんな長く続いたことの方が驚きです。

そんな長く続くわけもない摂関政治ですが、その摂関政治の衰退期に活躍せざるを得なかったのが藤原頼通でした。何度もなんども繰り返しますが、頼通は本当に不幸な男だと思います。

 

今回は、藤原頼通の後宮政策について話をしましたが、次は不遇の男、頼通自身の人柄について見てみようと思います。

【次回】

平等院を建てた道長の息子、藤原頼通をわかりやすく紹介するよ【その2】
前回の記事では、藤原頼通の後宮政策の話をしたので、この記事では、藤原頼通の人柄について迫ってみようと思います。 【前回の記事】 実は長期政権...

【前回】

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