高倉天皇をわかりやすく紹介!【平清盛との関係や系図など】

今回は、激動の平安時代末期に活躍した高倉天皇という天皇について紹介しようと思います。

高倉天皇の在位期間は、ちょうど栄華の頂点に達した平清盛が活躍していた時期と被っていることもあり、どうも影が薄いです。今回は、そんな高倉天皇に焦点を当ててみます。

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高倉天皇の即位

高倉天皇は、後白河上皇と平滋子との間に生まれた子。平家の血が流れる初めての天皇でした。即位は1168年、わずか7歳での即位です。

1168年、権力者の平清盛が突如として病に倒れます。当時の天皇は六条天皇でまだ幼児。朝廷内で唯一武力を有する平家の権力者、平清盛が亡くなれば、皇位を巡り争いが勃発するのは必須。そこで後白河上皇は、先手を打ち平清盛が死ぬ前に自らの息子を早期に天皇即位させようと図ります。

こんな経過もあり、六条天皇は後白河上皇の圧力により譲位。高倉天皇が即位しました。

幼い高倉天皇に統治能力があるわけもなく、父の後白河上皇や時の権力者だった平清盛が政治を支配していました。

若き高倉天皇の憂鬱

当時、朝廷内の権力者は2人いました後白河上皇平清盛です。

これまでの朝廷は、上皇・天皇・貴族(主に藤原氏)・武士(平氏と源氏)と実に複雑な権力構成の中、様々な勢力が離合集散することで権力闘争が繰り広げられていました。しかし、保元・平治の乱やその後の政争を通じ、残った勢力は平氏と上皇のみ。2つの勢力しか残っていない以上、平清盛と後白河上皇が対立するのはある意味必然でした。

両者は特に人事の面で大きく対立します。平清盛は平家一門を要職に就けようとしますが、後白河上皇は重用する院近臣らを要職に就けようとします。こうして要職をめぐり、椅子取り合戦的な争いが起こるわけです。

いくら若き高倉天皇と言っても、両者の微妙な空気には感づいていたはず。高倉天皇は、父(後白河上皇)と母(平滋子)の義理の兄である平清盛との間で板挟み状態になっており、その立ち振る舞いには非常に気を遣ったことでしょう。

しかしながら、愛する高倉天皇のため・・・なのかはわかりませんが母の平滋子だけは、平清盛と後白河上皇の間を巧みに仲介し、両者の対立の緩衝材としての役割を果たしていました。

平清盛・後白河上皇・高倉天皇の3人の均衡は、平滋子という1人の女性によって絶妙なバランスで保たれていたと言っても過言ではないかもしれません。

1176年、そんな重大な役割を担っていた平滋子が亡くなります。平滋子が亡くなったことで、もはや平清盛と後白河上皇の対立は不可避となり、その翌年の1177年、両者の関係を修復不可能にするとある事件が起こります。

鹿ケ谷の陰謀(鹿ケ谷事件)

それが「鹿ケ谷の陰謀」と呼ばれる事件です。鹿ケ谷と言う場所で後白河上皇らが平氏を倒さんと企んでいるのを平清盛が暴き、後白河上皇勢力を一掃した事件です。

実はこの事件、後白河上皇を追い詰めたい平清盛が逆に仕組んだ説もあったりして、その背景も含め非常に複雑怪奇な事件です。ここでは本論ではないので詳細は省略します。

後白河上皇はこの陰謀について、平清盛に問い詰められますが全てを部下のせいにしてなんとか苦境を切り抜けます・・・。(ひどい!)

治承三年の政変

さらに1179年、後白河上皇は再び平清盛に攻勢を仕掛けます。またまた詳しい話は省略しますが、後白河上皇は、平清盛の意向とは真っ向から反対する人事を繰り返すようになります。院政の邪魔をする清盛勢力を排除しようとしたのです。

これに怒った平清盛の軍事介入により後白河上皇の策略は失敗。清盛の逆鱗に触れた後白河上皇は幽閉されてしまいます。これらの一連の事件を治承三年の政変と言います。

この事件により後白河上皇が幽閉されたことで、高倉天皇にも遂に政治に携わる機会がやってきました。すでに高倉天皇はすでに20歳近くになっており、親政を行っても不思議ではない年齢になっていたのです。

高倉天皇の治世

高倉天皇は、容姿端麗で人柄も良く、多くの人に好かれたと言われています。いわゆるイケメン好青年だったらしいです。鹿ケ谷の陰謀以降、後白河上皇の院政の影響力が弱まったことを背景に、自ら親政を行うことを望むようになっていたので、1179年の後白河上皇幽閉は、高倉天皇にとっては一つのターニングポイントでした。

しかし、高倉天皇が親政を行えたのは一瞬だけ。1180年になると安徳天皇が即位し、高倉天皇は上皇になってしまいます。上皇になった後も高倉上皇は院政を行いますが、安徳天皇の外祖父となった平清盛が実質的に政治を支配しており、高倉上皇はもはや清盛の傀儡でしかありませんでした。

息子(安徳天皇)が即位することで自らの政治権力を失ってしまった高倉天皇の心境は相当に複雑なものだったことでしょう。高倉天皇にとって、平清盛が安徳天皇の外祖父だったという事実は超えられない壁として立ちはだかったのです・・・。

さて、この1180年というのは歴史的にも高倉天皇にとっても実に激動の1年間でした。

安徳天皇と高倉上皇

安徳天皇は1178年、高倉天皇と平時子との間に生まれた子。平時子は平清盛の娘なので、安徳天皇にとって平清盛は外祖父に当たります。

安徳天皇の天皇即位は1180年。正統な皇位継承の決定権は、天皇家の家督を継いだ人物が有すると当時の人々は考えていました。ところが、その家督たる後白河上皇は1179年のトラブルで幽閉されており、さらには高倉天皇にも力はなかったこともあり、安徳天皇の即位は実質的に平清盛の独断で行われました。

後白河上皇不在の安徳天皇即位には多くの不満があり、幼少の安徳天皇の正当性を認めない者もいるほどで、平安京内は皇位継承をめぐり緊張感が高まります。

以仁王の挙兵

後白河上皇の幽閉や安徳天皇擁立など、天皇や上皇を超越した平清盛の振る舞いに遂に反旗を翻す者が現れました。後白河上皇の息子である以仁王(もちひとおう)という人物です。

またまた詳細は省略しますが以仁王は、平治の乱で没落し各地に散らばってしまった源氏に打倒平氏を呼びかけます。以仁王は後白河上皇の子であり、正式な血統の持ち主。この呼びかけに応じ、あの有名な源頼朝をはじめ各地の源氏たちが立ち上がり、平安京へ攻め上がります。

1185年の壇ノ浦の戦いで平氏が滅んだ、いわゆる源平合戦(治承・寿永の乱)の始まりです。

福原京遷都

反乱を起こそうとした以仁王は平氏軍によって討ち取られますが、依然として源氏は不穏な動き続けています。そんな中、平清盛は福原(今の兵庫県神戸市)への遷都を決行します。

平清盛は前々から福原への遷都を計画しており、大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれる都を近くに配置し、宋との貿易により国を豊かにしようと考えていたのです。また、平氏に唯一対抗しうる寺院勢力から距離を置きたいという平清盛の思惑もありました。

そんなこんなで平清盛は福原京への遷都を決行しますが、これには非常に多くの反対意見がありました。現代で言えば、総理大臣がいきなり「ちょっと東京から静岡に遷都するかな!」と言い出すようなもの。批判が出るのは当然でしょう。

福原京遷都のポイントは、高倉上皇ですら頑なに遷都に反対したことです。高倉上皇がなぜ遷都に反対したかはわかりませんが、おおむね次のような理由だろうと思います。遷都には多大な労力が必要な上、794年以来数百年に続いた首都を廃止するなど平安京に住む人々の心情的にも強い反発がありました。

生まれてからずーっと後白河上皇と平清盛に抑圧され続けた高倉上皇ですが、福原京の件については、真っ向から平清盛に反対の姿勢を示します。遷都による民の疲弊や精神的ショックのことを考えるとさすがの高倉上皇も平清盛の行動に我慢ならなかったのでしょう。

結局、1180年の秋になると源氏が本格的に平安京に攻め入ってくるようになり、遷都などしている場合ではなくなります。こうして遷都は断念。平清盛は、平安京に戻り、源氏との戦いに備えることになります。

高倉上皇の願いは叶ったわけですが、源氏が攻め入ってくるという情勢の中、高倉上皇の気持ちは複雑だったことでしょう。

高倉天皇が政治の表舞台で活躍した期間はほんのわずかですが、激動の時代の真っ只中において天皇・上皇として君臨したことになります。

高倉天皇(まとめ)

後白河上皇の幽閉・源氏の挙兵・福原京遷都など激動の2年間を経た1181年の1月、高倉上皇は病に倒れ、亡くなります。高倉上皇19歳の時でした。

高倉天皇はその生い立ちから、平清盛と後白河上皇という2大勢力に挟まれ、実にストレスの溜まるポジションに立たざるを得ない運命にありました。19歳という若くしての死も、その心労が祟(たた)ったせいかもしれません。

しかし高倉上皇はある意味運が良かったとも言えます。仮に高倉上皇が生きていたとしても、息子の安徳天皇と共に源平合戦で命を落とす運命にあったかもしれないからです。
抗えない運命の中で懸命に政治に向き合った天皇こそが高倉天皇であった・・・と個人的に思います。不遇の運命にありながらも民を疲弊させる遷都にだけは真っ向から反対した高倉上皇の態度には、高倉上皇の人柄というかその政治理念のようなものを感じざるを得ません。

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