平忠常の乱を超わかりやすく解説【平定・鎮圧と歴史的意義】

今回は1028年に起きた関東地方の大規模反乱、平忠常の乱について解説してみようと思います。

当時の関東地方は、朝廷の力が強く及ばない無法地帯。940年頃にも平将門という人物が大規模な反乱を起こしています(平将門の乱)。平忠常の乱は、平将門の乱の後、約100年ぶりに起こった大規模反乱でした。

この記事を読む前に、平将門の乱について以下の記事を読んでおくと平忠常の乱のことがより一層わかるかもしれません。

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平将門の乱の後の関東事情

平忠常の乱は平将門が乱を起こしてから約100年後の出来事です。まずは、平将門の乱の後の関東がどんなだったかを簡単に紹介します。

【平氏の系図です。登場人物がわからなくなった際に参考にしてください】

平貞盛の繁栄と終わらぬ紛争

平貞盛は、将門を打ち取った功労者の一人です。その甲斐あって、朝廷内でも一定の地位を得ることができました。貞盛は将門の乱鎮圧後、関東で大きな力を振るうようになります。

一方、関東では平将門の乱が終わった後も、紛争が絶えることがありませんでした。平将門の乱鎮圧後、関東一帯では、平氏一門が大きく幅を利かせることになりますが、平氏同士の争いが絶えませんでした

結局、大規模反乱だった平将門の乱も所詮平氏同士の争いの一部分でしかなく、世代が変わると再び関東の情勢は不穏な空気に包まれます。当時の関東は、朝廷の力が完璧に及んでいない政治的に非常に不安定な地域でした。(朝廷からの命令は軽視されたり、無視されることが多かったようです。)関東地方が平和になるには、強力な統率力と支配力を持った人物が求められていたのです。

抑圧された人々

関東の情勢が不安定な理由は、受領に抑圧されている農民たちにもあります。農民たちは、日頃、重税や受領の横暴に耐えながら生活しています。その受領に対して誰かが反抗し、「もしかしてこの人なら受領を倒せるのでは?」なんてみんなが思ってしまうと、受領に対抗した者の意図に関わらず、農民たちは受領に対して一斉に反旗を翻します。そうすると、最初は受領とのちょっとした対立だったものが、フラストレーションの溜まっている農民たちも次々とのその対立に巻き込まれていき、些細な争いが関東一帯を巻き込んだ大紛争へと発展してくのでした。

平将門の乱も平忠常の乱も、実は最初から大紛争を起こそうと思ったわけではありません。最初は些細な対立だったものが、地域の人々を巻き込むことで大紛争へと発展していきました。

平忠常、安房守(あわのかみ)を焼き殺す

平将門の乱もですが、実は平忠常の乱が起きた最初の原因は、今でもはっきりとわかっていません。

朝廷に届いた平忠常の乱の第一報は「忠常、安房守を討つ」でした。安房守とは、安房国のトップ、つまり受領(国司と言ったりもする)です。1028年6月の出来事です。忠常は武勇に優れ、納税を拒否するなど度々トラブルを起こしていたため、安房守とのなんらかの対立が事の発端になったのだろうと考えられています。

平忠常は、下総権介(しもうさのごんのすけ)

地方の国々役職は、えらい順に守・介・掾なので、忠常は役職的に安房守よりも下になります。

超テキトーですが、一応、地図を作ってみました。平忠常は下総権介ですから、当然、下総から上総を通って安房へ向かい、安房守を討ったのです。となると、2国の間にある上総国も忠常の安房守殺害と無関係ではなかったでしょう。

上総国の制圧

案の定、続いて「忠常が上総国を制圧す」という報告が朝廷へ届きます。

上総の人々はもちろん隣国の安房が忠常の手に落ちたことを知っていました。そんな上総の人々は、上総国の受領の妻子が逃げ出しているのを見て「あれ?今までずっと我慢してたけど、このタイミングで忠常の味方になれば、ムカつく受領を追い出せるんじゃね?」と思います。

こうして、上総国の人々の多くを味方につけた忠常は、あっという間に上総国を制圧してしまいます。忠常の反乱は、受領に不満を持つ多くの人々をも反乱に巻き込んでいき、下総・上総・安房の三国全体に渡る大反乱へと発展していきました。

追討使の派遣

「忠常蜂起す」の報告を受けた朝廷は、すぐに追討使を派遣することを決めました。追討使には平直方中原成通の2名が選ばれました。追討使はよほどのことがないと派遣されないので、朝廷が忠常の蜂起をかなり深刻に受け止めていたことがわかります。100年前の平将門の乱のトラウマがあったのでしょう。

平直方と平忠常

さて、追討使に選ばれた平直方は平忠常の親戚になります(上の系図を確認してみてください!)。

この忠常と直方は家柄的に対立関係にあり、平直方から見れば追討使になったことは、朝廷の後ろ盾を得て忠常を潰せる絶好のチャンスでした。2人の対立関係は、平将門の乱まで話が遡ります。平将門の乱は、将門・良文VS国香・良兼・良正という構図でした。この構図は、世代が変わっても基本的に変わらなかったようです。忠常は良文、直方は国香の血筋であり、対立関係にあったのです。

朝廷の甘すぎる対応

6月の報告を受け、迅速に追討使の派遣を決定した朝廷ですが、実際に追討使が派遣されたのは8月でした。なぜこれほどまでに動きが遅いのでしょうか?

朝廷は、追討使を派遣するための吉日を探しており、どうやら8月5日が吉日だということで8月5日の派遣が決定されました。派遣を決定してから、概ね40日が経過していました。

しかしながら、吉日を選んだからと言って事はうまく運ぶはずもなく、朝廷のこの対応は全くの愚行と言うしかありません。その間も忠常は、関東での影響力を拡大させていきます。

刀伊の入寇の記事でも話しましたが、当時の朝廷は地方政治に対する知識・関心が明らかに欠落しています。朝廷の貴族たちには、どこかで「どうせ地方の反乱だし、俺たちには直接関係ないだろ」的な気持ちがあったのだと思います。

不仲の追討使たち

やっとの事で派遣された追討使ですが、ここでも早速トラブルが起こります。平直方と中原成通は追討方針の考え方が合わず不仲だったのです。

平直方は、ライバルの忠常を公式に潰す事ができるチャンスですから、当然、「中原!早く攻めようぜ!」と思いますが、中原成通の方は母の危篤を理由に「追討使を辞退したいんだが・・・」なんて言っていました。そんな2人ですから、なんとも微妙な追討遠征になってしまったようです。

ちなみに、中原成通はその後、不適格として追討使を解任されています。

解任される平直方

平直方は、忠常追討のため関東へ向かいましたが、朝廷へは一向に戦火の報告が届けることができませんでした。忠常が想像以上に強く、思ったような戦火を上げる事ができなかったからです。

平将門の乱と違い、平忠常の乱は長期化します。乱が起こったのは1028年でしたが、直方が忠常と戦いを開始してから2年が経過しました(1030年になった)。そして「2年が経過しても乱を鎮圧できない直方は解任した方がいいんじゃ・・・」という議論が朝廷で行われました。

結局、中原成通に続いて平直方も乱を早期に収束できなかったため、追討使を解任させられてしまいます。

荒廃する関東地方

平直方は解任されましたが、何もしていなかった訳ではありません。追討使には、兵糧米を現地で徴収する権限が与えられていました。直方は、忠常と正面衝突はしなかったようですが、この兵糧米徴収権限を乱用し、下総・上総・安房の田畑を荒らしまくります。本人がどんな意図持っていたかは不明ですが、結果的に焦土作戦によって忠常をじわじわと追い詰めることには成功していたようです。一方、直方の悪質なやり方に現地の人々が強い反感を持った事も簡単に想像できます。逆に忠常軍の士気を高めてしまったことも否めません。

源頼信の登場 ー源頼朝のご先祖様!ー

さて、平直方が解任されたところで、次に白羽の矢が立ったのが源頼信(よりのぶ)という人物でした。

話が少し変わりますが、藤原純友の乱という事件を覚えているでしょうか?平将門の乱と同時期に、四国・中国地方で起きた反乱です。

詳しくは、以下の記事で解説しています。

前回は、3記事を使って939年に起こった平将門の乱のお話をしました。 平将門が関東地方で新皇(新しい天皇)と名乗り、朝...

新たに追討使に選ばれた源頼信。実は、藤原純友の乱を鎮圧し出世を遂げた源経基の子孫です。そして、源頼信はあの有名な源頼朝のご先祖様にもあたります。源氏と言えば、源頼朝がずば抜けて有名ですが、源頼朝だけが凄いわけでなく、ご先祖たちの活躍があってこその源頼朝だということを忘れてはいけません!

あっけなく降伏する平忠常

1031年、クビになった平直方の代わりに源頼信が追討使として派遣されます。平忠常の乱が始まってから3年が経過していました。

平直方が追討使だった頃は徹底抗戦の構えだった平忠常ですが、源頼信が追討使になった途端突如として降伏してしまいます。一度も源頼信と戦うことすらありませんでした。

上総・下総・安房の三国を焦土と化すほど熾烈な紛争だった平忠常の乱は、こうしてあっけなく終結してしまいました。将門の乱と比べるととても地味〜な終わり方です。

なぜ、突如として忠常の心境が変化してしまったのでしょうか・・・?

源頼信は平忠常の先輩だった説

平忠常は、昔々、源頼信と一緒に仕事をしていた事があったようで、いわゆる先輩・後輩の関係にあったようです。なので、忠常も「朝廷に逆らう気はないけど、長年の宿敵だった平直方はムカつくからボコボコにした。でも、源頼信先輩とは戦いたくない・・・。長期戦で自軍も疲弊してるし、これを機にもう降参しよ・・・」と思ったのでは?なんて言われています。

源頼信は追討使として関東に赴く際、平安京にいた忠常の息子を探し出し、一緒に連れて行ったそうです。これが何を意味するかというと、「乱を起こした反逆人忠常の子とあっては、平安京にいては命が危ない。そこで源頼信が忠常の息子を連れてきてくれる代わりに忠常が降伏する・・・という交換条件を結んだのでは?」ということ。

まぁ、あくまで説なので真実がどうなのかはわかりません。少なくとも、平忠常と源頼信が他人同士でなかったのは間違いないと思います。

結果的に朝廷の人選が見事にハマったとも言えるかもしれません。

忠常の死 ー乱の鎮圧・平定へー

源頼信の前に降伏した忠常は、京へと連行されている途中に病死してしまいます。乱の終わり方も地味なら、忠常の最期もなんとも地味なものでした。

よくわからない平忠常の乱

ここまで記事を読んでいただくと感じている方もいるかもしれませんが、平忠常の乱、結局何をしたかったのかよくわかりません。

平忠常の乱を簡単に整理すると「ムカつく安房と上総の受領をボコってやった。そしたら平安京にまで話が及んでヤバい!と思ったけど、ライバルだった平直方が追討使できたから、勢いでこいつもボコってやった。直方が田畑を荒らして辛くなってきたし、引くに引けないしどうしようとか考えてたら、先輩の源頼信がやってくるみたいだからそのまま降参した」という感じです。

何か明確な信念や目的があって起こった乱ではなさそうです。乱の経過もほとんど平将門の乱と同じです。将門の乱から100年経った後も相変わらず関東地方は混沌としていたのです。

もう1つよくわからないのは、平忠常の乱の歴史的意義です。なぜ、こんなにもよくわからない平忠常の乱は通史的に有名になったのでしょうか。

ちなみに将門の乱には「武士が初めて本格的に朝廷に対抗した画期的な出来事」というちゃんとした歴史的意義があったり、「将門記」という軍記物が作られるほど将門自身とても人気?がありました。

平忠常の乱の歴史的意義とは

こんなことを言ったら、あの世にいる平忠常に怒られるかもしれませんが、平忠常の乱の歴史的意義は、何と言っても源頼信の登場にあります。

長い間の戦乱により疲弊していた関東の人々にとって、強者の平忠常を一瞬で降伏させ、関東に平和をもたらした源頼信はまさに英雄のような存在でした。平忠常の乱平定後、関東では源頼信と主従関係を結ぶ者が増えていきます(源頼信の言うこと聞くけど、その代わり地域でトラブったら助けてねってこと)。

こうして、それまで平氏が牛耳っていた関東一帯に源氏が強い影響力を持つようになりました。結果だけ見れば、平忠常が勝手に暴れて自滅した・・・とも言えるかもしれません。

力をつける源氏

源氏が関東に本格的な勢力を持つことができたのは、平忠常の乱のおかげと言っても過言ではないです。源頼朝は鎌倉に幕府を開くことになりますが、鎌倉幕府が出来上がったのも辿りに辿っていくと、源頼信が関東に強い勢力を持つことができたからです。

逆に、平氏は関東一帯での影響力を失っていきます。(その代わり、平氏は西日本で勢力を振るうようになります。)

前九年の役・後三年の役へ

関東一帯に強い影響力を持つようになった源頼信ですが、忠常の乱では源頼信は大きな戦はしていません。源頼信は関東に平和をもたらした英雄といえど、関東の人々には「源頼信は本当に信用できるのか?」という疑心暗鬼の気持ちも持っていました。

そんな中、忠常の乱から少し経って東北地方の情勢が不安定となり、源氏は関東地方の人々を率いて東北平定のために戦争をすることになります。これを通史では前九年の役・後三年の役と呼ばれ、これらの戦を通じて、関東の人々と源氏は本格的な信頼関係を築き上げ、源氏は関東一帯の支配を盤石とすることに成功するのです。

まとめ

長くなりましたが、平忠常の乱について説明しました。乱の経緯に脈絡がないため、なんとも説明しにくいのが忠常の乱です。もし私が学生だったら、学校で習っても絶対に理解できないと思います・・・(汗。

繰り返しですが、平忠常の乱というのは乱自身よりも源頼朝のご先祖様である源頼信が関東一帯に影響力を持つことができた点の方が歴史的には重要な気がします。

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