平将門の乱をわかりやすく丁寧に説明してみる【新皇になる将門】3/3

masakado

【平将門】

今回は、将門が乱を起こしてから乱が鎮圧されるまでのお話。

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常陸国の争い -有力土地保有者と受領の戦い-

これまでの揉め事を少しおさらい。

935年:平家一門のお家騒動。将門が勝者に。平国香が滅び、将門が力を得る。

936年:平国香の復讐戦。将門VS貞盛・良兼・良正。将門が勝つ。

938年:武蔵国で受領と郡司の争い発生。将門が仲介するも失敗。将門は訴えられることに。

そして939年、次は常陸国(ひたちの国。今でいう茨城らへん。日立市のあたりですね)で次は土地所有者と受領の間で争いが起こります。

関東では常にどこかで争いが発生していて、混沌としていました。

さて、常陸国の土地所有者と受領の争いですが、

土地所有者:藤原玄明(ふじわらのはるあき)

受領:藤原維幾(ふじわらのこれちか)

という感じです。どっちも藤原でわかりにくいですね(汗

維幾「おい玄明。税金払え」玄明「払わねーよ!」

維幾「玄明。おまえ土地たくさん持ってるんだから税金払えよな

玄明「俺は税金納めてるぞ。これ以上納めろとか無茶なこと言うな

維幾「いいから払え

玄明「断る

維幾「潰すよ?^^

玄明「やれるもんならやってみろ

維幾は、玄明を追放するため、朝廷に逮捕状の発布をお願いします。

「玄明は不当に税金を納めない。これは朝廷の意向に反するものであり、逮捕状の発布をお願いしたい。」

とかこんな感じでお願いしたのでしょう。

前回の記事でも説明しましたが、当時の争い事は、「いかに朝廷を味方につけるか」という点がとても重要でした。

朝廷は、玄明の逮捕状を発布。こうして玄明は公権力の敵となります。

玄明は妻子を連れて、常陸国から逃亡、将門の本拠地である下総国(今でいう千葉北部+茨城南部らへん)へ逃げ込みます。

玄明は、関東で強大な力を持つ将門に助けてもらおうと考えたのです。

玄明を助けたい将門

将門には、玄明を助けたい理由がありました。

936年、将門が貞盛たちと争っていたとき、藤原維幾は貞盛側について、将門と敵対していました。

このことから、将門は、藤原維幾に対して強い不信の念を抱いていたのです。

その維幾に追い詰めらている玄明に将門は親近感を覚えたのです。「敵の敵は味方」の理論ですね!

こうして、将門は、玄明と維幾の争いに巻き込まれてゆくのです。

将門、勢い余って常盤国を潰しちゃう

維幾憎しの玄明に、将門も加勢することにしました。さっそく、軍勢を引き連れて維幾のいる常陸国へ向かいます。

常陸国では、維幾の息子と平貞盛が待ち構えています。先ほども説明した通り貞盛は維幾の味方。またまた貞盛は将門と対立することになってしまいました。貞盛と将門は永遠のライバルとも言えるかもしれません

将門は、維幾の息子と平貞盛に次の要求をします。

その1:玄明の常盤国に住むことを認めること。

その2:これ以上、玄明を攻めないこと。

維幾の息子と平貞盛はもちろんこれを拒否。

こうして939年、将門VS維幾の息子・平貞盛の戦いが始まります。

将門、常盤国を支配する。

このときの将門はそうとう怒り心頭だったようで、怒涛の攻めを見せます。

将門は、常盤国の国庁(いまでいう県庁みたいなもの)を支配し、

維幾に土下座をさせ、維幾に次のような感じの謝罪文を書かせました。

私の息子がみだりに兵を動員させ、将門に迷惑をかけてしまいました。私の指導不足です。ごめんなさい

謝罪文を書かせた上で、将門の本拠地である下総国へ連行。

そして常盤国は将門軍に荒らされ、財物は奪われ、家は焼かれ・・・という有様でした。

将門は私人でありながら、一国を滅ぼしたことになります。

動かない朝廷 「どうせまたいつもの揉め事だろ?」

維幾の息子と平貞盛は、このことを朝廷に報告し将門のことを訴えますが、この時点では朝廷は動きません。

関東ではいつも争いが起こっているので、「また個人同士の争いだろ?朝廷が出る幕でもねーよ。勝手にやってろめんどくせー」とでも思っていたのです。

焦る将門「やりすぎちゃった・・・怒られるどうしよ(汗」

朝廷が静観する一方、将門は焦っていました。

将門「やりすぎちゃった・・・。これじゃまた朝廷から逮捕状がでちゃう(汗

興世王「将門さん。ここまで壮大にやらかしちゃったら、もう謝るだけじゃ済まないですよ。だから、この勢いに乗って関東全体を征服して権力を掌握しましょう。そうすれば、朝廷も簡単に攻めれないから、朝廷とうまく交渉できるかもよ?

※興世王は前回の記事で登場した人物。当時は、将門の味方でした。

将門「おっ、それいい考え。俺は、桓武天皇の子孫だ。関東を支配した後は、平安京へ攻め入ってやろう。天皇の血筋と武力を持つ俺なら、その資格があるはずだ!」(この発言は、冗談なのかマジなのか、謎とされています・・・)

こうして、将門はその勢いのまま関東全域を支配してしまいます。

将門を心酔する関東の人々

将門は、関東の人々にとって英雄のような存在になっていました。

将門は、武蔵国・常盤国と2度の争いの中で、意図していたかは別として受領をやっつけています。

税金で民を苦しめる受領を追い払った将門は、関東地方では民を救う英雄とみなされていたのです。

なので、将門の関東地方の支配は強い反発もなく簡単に終わりました。むしろ、みな積極的に将門の味方に付こうとしていました。

朝廷が重い腰を上げる

こうして、将門は、関東の支配者となります。

将門は、権力を掌握したうえで、朝廷と対等に交渉をしたいと考えていました。交渉というのは、要は「関東でいろいろやっちゃったけど、許してね!」ということです。

将門は、関東で「新皇」を名乗りました。新皇とは新しい天皇ということ。つまり、今の天皇は古い天皇と言っていることになります。これは明らかに天皇への謀反と捉えられました。(将門自身には謀反の意図はなかったともいわれています。真相はわかりません・・・)

ここにきて、朝廷はようやく将門の行動を重く受け止め、将門追討令を出すことにしました。

朝廷は、破格の恩賞をチラつかせ、有力武将たちを将門討伐へ向かわせました。940年の話でした。

ここで活躍するのは、平貞盛と藤原秀郷でした。またまた貞盛と将門は対立することになります。そして藤原秀郷は、奥州藤原氏の祖となる人物です。

将門の死と出世する人々

940年2月、将門は春の収穫に備えて、兵をそれぞれ地元に帰国させてしまいます。

そしてこのタイミングを狙っていたかのように貞盛と秀郷は、将門を討伐に向かいます。

大急ぎで手近な軍勢をそろえて対抗しますが、将門軍はあっけなく貞盛・秀郷に負け敗走。

将門は、藤原秀郷の手により打ち取られてしまいます。軍勢が手薄なタイミングをうまく狙った作戦勝ちというところでしょう。また、朝廷の恩賞につられ、将門から離れる人々もいたようでです。将門軍も一枚岩ではなかったということですね。

こうして、新皇を名乗った平将門が朝廷軍と戦ったことを平将門の乱と言います。

平将門の乱が残したもの

出世する貞盛と秀郷

平将門の乱により平貞盛と藤原秀郷は、朝廷内で一定の地位を得ることに成功します。

こうして、力を付けた両者は平貞盛は平清盛、藤原秀郷は奥州藤原氏と、有名な子孫を残していきます。

平将門の乱がなければ、この両者が登場することもなかったということです。

武士の恐ろしさを認める朝廷

将門の乱を通じて、朝廷は武士の恐ろしさを再認識。

武士をないがしろにしては、いつどこで大反乱が起こるかわからない。そんな恐怖心が朝廷内に生まれます。こうして、武士は、朝廷内でも一定の地位を確立できるようになりました。(それでも地位は非常に低いものですが・・・)

一方、それとは逆に、武士をうまく利用すれば、強大な戦力になりうることも朝廷は理解しました。

平将門の乱後、朝廷にとっていかに武士をうまく利用するかは超重要事項となったわけです。源平合戦の際に登場する後白河上皇なんかは、常に武士のことを考えていました。

平将門の神格化

将門は、関東地方の英雄でした。この英雄の壮大な死は後世にも語り継がれ、今では日本3大怨霊の一人となっています。(日本3大怨霊については怨霊って一体何なの?平安時代の怨霊事情【菅原道真・平将門・崇徳天皇】をどうぞ。)

もう一つの大反乱 -藤原純友の乱-

実は平将門の乱と同時期に、四国・中国地方でも大規模な反乱が起きていました。

四国・中国と関東地方で同時に大反乱が起こったことから、朝廷内は恐怖に包まれていたと言われています。

四国・中国地方の乱は藤原純友の乱と言われ、同時期に発生した平将門の乱と合わせて天慶・寿永の乱と言ったりします。

次回は、藤原純友の乱の話をします。

平将門の乱と藤原純友の乱の時代は、武士の黎明期とも言える時代です。マニアックですが結構面白いですよ。

次:超わかりやすい藤原純友の乱【公務員のリストラと海賊たち】1/4

前:平将門の乱をわかりやすく丁寧に説明してみる【受領との争い】2/3

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