中大兄皇子と中臣鎌足は大化の改新で何をした?【天皇制の一大改革】1/2

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さて、前回は乙巳の変について説明をしました。

乙巳の変の後に行われた一連の政治改革のことを大化の改新と言います。

ここで忘れてはならない大事なことは、乙巳の変が蘇我入鹿・蝦夷の没落を目的としたものではなく、新しい日本を作ることを目的としているということです。

新しい日本とはどんな日本か?

それは、超大国の唐に負けないほどの皇帝(日本では天皇)をトップとした国を作ることです。聖徳太子や推古天皇の意思を引き継いだ形となります。

そういうわけで中臣鎌足、中大兄皇子にとっては乙巳の変ではなく、乙巳の変のあとからが本番と言えるでしょう。

今回は、天皇制の変化についてみていきます。

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天皇制度の一大改革!日本史上初めての譲位

難しい皇位継承問題

乙巳の変の後、すぐに決めなければならないのが次期天皇。

しかし、ちょっと待ってください。大化の改新とはなんだったのか。わかりやすく解説するよ~その1【乙巳の変】でも説明したように中臣鎌足は、中大兄皇子を次期天皇とするため味方に引き入れたのでした。

ってことは、もう決まってるじゃん!と思いますが、実際は、軽皇子という人物が孝徳天皇として即位します。

そして、問題がもう1つ。まだ皇極天皇が生きています。譲位(天皇位を譲ること)制度が確立されるまで、一度天皇になったらその人は一生天皇のままでした(終身制)。

終身制だからこそ、皇位継承のような問題が起こると崇峻天皇暗殺(詳しくは、聖徳太子はなぜ有名?わかりやすい聖徳太子物語第1話)のような一大事件が発生してしまうのです。

この2点についてみてみようと思います。

なぜ中大兄皇子は天皇にならなかったのか

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最初に結論を言いますと、わかりません

中大兄皇子が天皇にならなかった理由は、飛鳥時代における大きな謎とされています。

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軽皇子(孝徳天皇)と中大兄皇子とは、上図の関係にあります。中大兄皇子が皇極天皇と舒明天皇の子ですから、中大兄皇子から見て、孝徳天皇はおじにあたります。

謎を解くためにいろいろな説が考えられていますが、次の2説がしっくり来るように思います。

説1:周りの批判を抑えるため

当時、皇極天皇の次期天皇候補として最有力だったのが古人大兄皇子という人物でした(上図参照)。

しかし、古人大兄皇子は、蘇我氏と非常に親しい仲だった人物です。そもそも乙巳の変は、蘇我氏の擁立する古人大兄皇子の即位を防ぐ意味もあったのです。

そして、年齢的に古人大兄皇子の次に有力なのが軽皇子。当時、皇位継承における明確なルールは存在しませんでしたが、基本的には年長者が有力視されることが多かったようです。

その軽皇子を無視して、中大兄皇子が即位したらどうなるでしょう。

中大兄皇子が蘇我入鹿を討ち、さらに天皇候補第一人者の軽皇子をも無視して天皇として即位すれば、周りからの批判は避けられなかったと思います。「皇位に就くために臣下を暗殺し、おじをないがしろにして即位した中大兄皇子」という悪のレッテルが張られてしまう上に、軽皇子との争いに発展してしまう可能性があります。

さらに、争いに発展した場合、軽皇子には悪のレッテルを張られた中大兄皇子を倒すという大義名分ができてしまいます。

要は中大兄皇子が即位するにはかなりの危険が伴ったということです。そこで、中大兄皇子は軽皇子(孝徳天皇)の次の天皇候補者として振舞っていたほうが得策であるという判断をしたというのが1つ目の説。

説2:実は、乙巳の変の裏には軽皇子がいた

単純明快です。そもそも、乙巳の変は軽皇子が、中臣鎌足と中大兄皇子に働きかけて行われたという説です。

これなら、軽皇子が即位するのは当たり前です。そして、軽皇子の立場的にも乙巳の変を起こす理由は十分あります。

と、色々話しましたが、真相は闇の中です。今後の歴史学者や考古学者の方々の研究に期待をするしかありません。

皇極天皇、日本史上初の譲位を実施する

皇極天皇は乙巳の変を受け、中大兄皇子に天皇位を譲位することを決めます。

が、中大兄皇子は皇極からの譲位を断ります。「私より軽皇子(孝徳天皇)が相応しいでしょう」

なぜ、譲位を断ったのか。これは上で説明したように謎に包まれたままです。

そして、皇極天皇は軽皇子に譲位します。日本史上初めての譲位です。

譲位の何がすごいのか

日本は弥生時代の卑弥呼の時代から古墳時代までの長い間、天皇(大王)を決定する際に、必ず群臣たちの擁立が必要でした。

天皇家の人物であろうとも、群臣の賛成がなくては天皇として即位することができなかったのです。これは天皇(大王)の力は、相対的に弱いものであったことに起因します。

そして、飛鳥時代までの間、群臣同士での覇権争いが続けられ、争いの結果、頂点に立ったのが蘇我氏です。蘇我氏が強大な権力を掌握した裏には、多くの群臣の没落がありました。

さらに、645年、乙巳の変により、頂点に君臨した蘇我氏が没落します。これにより、天皇の周りには突出した権力を持った群臣がいなくなり、天皇の権力は相対的にとても強いものとなりました。

天皇の権力が高まっていき、遂に群臣を無視し、自らの意思で次期天皇を指名できるようになったという画期的な出来事が譲位なのです。

譲位ができたというのは、弥生時代からずーっと続いていた、中央集権的な時代の流れが遂に実を結んだ瞬間といえるでしょう。

譲位の制度ができてしまえば、皇位が変わるごとに、皇位継承問題によって国が乱れることを防ぐことができます。飛鳥時代は、皇位継承問題に振り回された時代でした。

こうして、現代にまで続く譲位制度が作られたのです。

次:中大兄皇子と中臣鎌足は大化の改新で何をした?【改新の詔】2/2
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コメント

  1. 通りすがり より:

    日本史の勉強をしていてここにたどり着きました。
    詳しく書かれていて勉強になります。ありがとうございます。

    当ページで気になったので確認させてください。
    「孝謙天皇はおじにあたります」と記載がありますが、孝徳天皇のtypoでしょうか?

    • mogutaro より:

      ブログを読んでいただきありがとうございますm(_ _)m
      コメントを頂けると励みになります。
      おっしゃるとおり「孝謙天皇」ではなく「孝徳天皇」の誤りです。ご指摘ありがとうございます!修正しました。