もう1つの戦国時代 ~集落から国へ~

弥生時代は、みんなで仲良く稲作~♪ってイメージが強いですが、戦国時代にも劣らない過酷な争いの時代でした。

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環濠(壕)集落の形成

理由やルーツは、諸説あるようですが、利用はどうあれ、弥生時代になると環濠集落が目立ちます。

環濠集落とは、集落の外を濠で囲っている集落を言います。「壕」はただの穴、「濠」は壕に水を入れたものになります。めんどうなのでどちらも環濠集落と表記します。

だから何?と思うでしょう。

集落を囲い、外と内をはっきりさせるという行為は、俗にいえば強い縄張り意識の現れということができます。これは、稲作伝来による土地の確保に起因するものであると私は考えています。

縄張り意識の増大、これは一体何を意味するのか。

それぞれの集落が大きくなりお互いの集落が近接したとき、強い縄張り意識は争いを生みます。争いの原因は、おおむね水利や資源、土地の問題と言ったところでしょう。弥生時代は時代が進むにつれプチ戦国時代の様相を呈してくるのです。

倭国争乱

戦国時代は、群雄割拠の時代から、北条、武田、今川、などの戦国大名の時代へと移り、最終的には、豊臣秀吉や徳川家康による天下統一に向けて時代が大きく動いた時代でした。

弥生時代後期(紀元前100~古墳時代まで)、まさに戦国時代と同じようなことが起きていました。弥生時代の後半は激動の時代と言って良いでしょう。

争いによって、勝者となった集落はさらに巨大化を進めていきます。勝者は稲作に適した土地や人材を確保することができ、さらに大きくなっていきます。

人々の住む場所も変わりました。激動のこの時期になると、高地性集落と言って、高台や山に作られる集落が増えてくるのです。

これはまさに、戦国時代に山城が増えるのと同様の現象と言える。より防御性の高い集落を作るため、高い場所へ集落を作らなければならなかったのです。

ちなみに、弥生時代初期の稲作受容開始から後期の激動の時代までの間に栄えた集落の1つが佐賀県にある吉野ヶ里遺跡です。

昔に佐賀に行ったことがあるのですが、吉野ヶ里遺跡には行けませんでした・・・(汗)。

大陸からの輸入物の掌握

巨大化していく集落は、次第に大陸との結びつきを強めようとしていきます。

集落のリーダーはこんなことを考えるわけです。

「俺に逆らったら大陸からの最新技術あげないよ?祭りの祭器とか生活用具が用意できなるけどいいの?逆らわなほうが身のためだよ?」という感じの考えをもっていたはずです。

当時のお祭りは今でいう政治と同じです。気になる方は意外と知られていない稲作伝来の裏話をご覧ください。

実際に大陸との距離が近い、今でいう福岡・佐賀の北部が大陸との通商を掌握していたとされており、そこにはいくつかの巨大な国とも言えるようなものが存在していました。

一方で、大陸側(当時は主に漢の時代でした。)でも、朝貢国が増えるのは望んでいたところだったのです。利害が一致したわけですね。

朝貢というのは、「定期的に土産を持って、私のところへ来なさい。そして、私と結びつきをもっていることに感謝しろ」というのを要求することでした。

日本は、漢からすれば朝貢国の1つだったのです。

これは、中国の天子思想という考え方に由来します。

「国外の人間はみな天子(皇帝)の徳治が行き渡っておらず、劣っている人間たちだ。だから、天子に近づきになってその徳治を感じなさい。徳治を行き渡らせることは、天子に責務なのです。」

といった感じの思想です。この思想は日本にも長きに渡って大きな影響を与えることになります。

200年頃になると、漢は魏・呉・蜀による三国志の時代に突入します。日本は魏と朝貢関係を結んでおり、その後結びつきを深めていくことになります。

次回は、倭国争乱の状態に終止符を打った卑弥呼の登場です。


次:謎の多い卑弥呼と邪馬台国
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