聖徳太子は何をした?フルボッコの遣隋使【わかりやすい聖徳太子物語第2話】

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聖徳太子と言えば、法隆寺。というわけで、写真を昔に撮った法隆寺にしてみました。今回の記事にはあまりでてきません。はい。

いつか、奈良の東大寺・法隆寺・興福寺あたりの記事を書きたいなぁと思っています。

さて、本題へ。

第1話のおさらい

(1)ドロドロとした皇位継承者問題。蘇我馬子の目論見通り

(2)推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の3人協力体制の時代へ

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日本最古の寺院!飛鳥寺の建立

稲目・馬子親子の悲願。遂に実現

実は、広隆寺の弥勒菩薩がミステリアスすぎる!【京都最古の仏像】という記事の中で京都最古の寺「広隆寺」の紹介をしていますが、今回出てくるのは日本最古

飛鳥寺は、596年に蘇我馬子によって建立されました。推古天皇即位が593年なので、即位してすぐになります。

蘇我氏にとって、仏教振興は苦難の道のりでしたが、自分と親しい推古天皇の即位によってようやく本格的な寺院を建立することができたのです。完成した飛鳥寺を見て馬子の目には涙が込み上げてきたに違いありません。

蘇我氏の仏教振興の歩みは、

苦難の道のり!蘇我氏の壮大な仏教秘話

仏教をめぐる日本最古の戦い!蘇我氏と物部氏

の記事を参考にご覧ください。蘇我一族から見れば、不運と弾圧に苦しみながらやっと勝ち取った信仰の自由だったのです

私個人的には、馬子は崇峻天皇の件(聖徳太子物語第1話参考)では非難されてやむを得ないと考えますが、仏教振興に対する熱い情熱については、評価されてしかるべきだと思います。

稲目・馬子親子の努力により実った仏教振興が、聖徳太子を媒介として現代に至るまで受け継がれているのです。

古墳から寺へ ~古墳時代の終焉~

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上図は、飛鳥寺の再現図です。wikipediaで作成者自身がパブリックドメインとして載せてくださっていました。こんなわかりやすい再現図を使えることに感謝しなければなりませんね。

この真ん中にある五重塔。仏教において、塔とは仏舎利(お釈迦さま遺骨、遺灰のこと)を安置し、お釈迦さまを崇拝するためその上に築き上げるものでした。

しかし、日本では少し事情が異なります。塔は、古墳の代わりとして使われたのです。古墳は集団のリーダーを中心とした祖霊崇拝の象徴でした。日本では、仏舎利の代わりに亡くなった一族のトップ人物等を塔の下に安置しました。外国の文化と自国の文化をうまい具合に融合させてしまったのです。

同じようなことは、中国の天子思想が日本に導入されたときもありました。なぜ日本に仏教が伝来したのか!?その秘話に迫るの後半部分で説明している部分です。

こうして、仏教の普及に伴って古墳は役目を終えていくのです。忘れてはならないのは、古墳はなくなったとしても祖霊崇拝という日本人特有の強い信仰は強く残っているという点です。

この頃から、日本人は外国の文化を自国に溶け込ませるのが非常に巧みだったのです。異文化との融合は、日本人が持つ独特の国民性だと私は考えています。

フルボッコの遣隋使と聖徳太子

聖徳太子の仏教の師匠、恵慈との出会い

600年。推古天皇は遣隋使の派遣を決定します。これは雄略天皇の頃以来で約130年ぶりの派遣となります。(雄略天皇の時代については、日本人のほとんどが知らない古墳時代の偉人。雄略天皇を参考にどうぞ)

500年代後半、大陸では隋という国が建国され、朝鮮3国(百済・新羅・高句麗)が隋へ冊封を受けていました。

しかし、隋と高句麗は仲が悪く一触即発状態。そこで、高句麗は日本へ活路を見出すことにします。高句麗は日本へ僧をたくさん派遣しました。雄略天皇の頃は敵だった高句麗は、今回は味方となりました。

「仏教という文化を渡すから、高句麗のことを助けて!」というわけです。仏教振興に励んでいる日本にとっても悪い話ではありませんでした。高句麗の上手い外交術です。

そんな中、高句麗から恵慈(えじ)という人物がやってきました。この恵慈がやがて聖徳太子の仏教の師匠となっていきます。

ところで、なぜ遣隋使を派遣したのでしょう?

遣隋使の目的とは?

雄略天皇の頃までは、冊封を受けて中国(当時は主に宋の時代だった)から官爵を授かり、中国の権威を利用して国内統治を進める意図がありました。しかし、良い官爵を貰えないため、雄略天皇の頃、中国との冊封体制を放棄してしまいます。

今回の遣隋使は、雄略天皇の頃とは違い、日本が天子思想に基づく帝国であることを遣隋使を通じて隋にアピールするのが狙いでした。

「成長した日本の姿を見せてやるぞ!おらぁ!」ってわけです。

おそらく、隋と対立し、日本に接近した高句麗の差し金があったのでしょう。特に聖徳太子の師匠である恵慈の影響が大きかったものと思います。高句麗としては、「俺のバックにはこんな強そうな日本という国があるんだぞ!こらぁ!」と隋に思わせることができれば大成功。

恵慈は僧であると同時に高句麗の外交官だったのです。

第1回遣隋使派遣、隋にフルボッコにされる

遣隋使は、日本のすごさをアピールするため隋の皇帝に向かって次のようなことを言いました。

「倭王は天を兄、日を弟として、日が昇る前(夜)は兄が政務を行い、日が昇ると弟が代わりに政務を行っています。」

これを聞いた皇帝は、あきれ果てました。「何言ってんだこいつ?馬鹿なの?」
日本としては、日と天が治めている国が日本なんだぞ!すごいだろ!と言いたかったのですが、目論見はおおはずれ。

遣隋使たちは隋に馬鹿にされ、政治の在り方について諭されてしまうほどひどい有り様だったようです。

失敗から得たもの。冠位十二階と十七条の憲法の制定へ

フルボッコにされた遣隋使たち。しかし、得るものもあったのです。それは、

日本はこのままでは駄目だ!

隋の皇帝のように天皇を中心に国を統治しなければならない!

そのためには、しっかりとした規律を作り、統治をスムーズに行えるようにする必要があるんだ!!

と自覚できたこと。国際社会において、見下されるということは、侵略される可能性があるということです。このような発想は当たり前だったとも考えることができるかもしれません。

当時の日本は、蘇我氏を筆頭に、地方豪族の力が強く残っていて、みんなやりたい放題やっていた時代でした。そのため、聖徳太子物語第1話で紹介した崇峻天皇の悲劇が起こってしまったのです。

聖徳太子のいるこの時代から、本格的な天皇制度の模索が始まります。

その手始めとして、第1回遣唐使のショックを受けた推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子が協力し冠位十二階と十七条の憲法という新たな仕組みを作っていくのです。

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