彰子と定子の関係をわかりやすく【一条天皇と藤原道長】

前回の記事

藤原道長の政治の仕組みとは?一上と内覧をわかりやすく【権力を得た理由】
【藤原道長】 藤原道長は、平安時代中期に天皇の外戚という立場を利用し、最高権力者として権勢を振るった人物です。平安時代...

前回の記事では、藤原道長の話をしました。そして、最後に藤原道長が圧倒的な権力を手に入れることができた理由に一家立三皇后(いっかりつさんごう)を成し遂げたことを挙げました。

一家立三后とは

一家立三后とは、藤原道長が生きている間に自分の娘・孫を3人も皇后にしたことを言います。

具体的に言うと、

第66代天皇:一条天皇→道長の娘の藤原彰子(しょうし又はあきこ)
第67代天皇:三条天皇→道長の娘の藤原 妍子(けんし又はきよこ)
第68代天皇:後一条天皇→道長の娘の藤原 威子(いし又はたけこ)

と言った感じです。

ちなみに、

・在位中の天皇の正妻を皇后

・前天皇(上皇)の正妻を皇太后

・前々天皇の正妻を太皇太后(たいこうたいごう)

と言います。

後一条天皇の在位時の状態がどうだったのかと言うと、

藤原彰子は太皇太后
藤原妍子は皇太后
藤原威子は皇后

でした。(まさに状態を一家立三后と言います)

三皇后を全て自分の娘とすることに成功した藤原道長はこの時、隆盛の絶頂期を迎えます。3人連続で娘を皇后とした実績を残したことで、多くいる藤原氏の中でも藤原道長の一族が特に抜きんでた地位に立つことに成功したのです。

後一条天皇在位時に藤原道長が読んだ歌こそが有名な次の歌になります。

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない」という意味)

最後に上の話を図で整理してみたので、参考にしてみてください。

と言うわけで、この3皇后について紹介をしたいのですが、この記事ではまず藤原彰子について紹介したいと思います。

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藤原彰子と藤原定子の微妙な関係

藤原彰子の話をするには、藤原定子の話をしなければなりません。この2人の関係性ですが、2人とも一条天皇の皇后であり、従姉妹の関係があります。(上の図を参考にしてください)

ちなみに、藤原定子が一条天皇の皇后となった経緯については、以下の記事でも詳しく説明していますので、定子のことを知らない方はまず以下の記事をご覧ください!

清少納言の枕草子を読むなら藤原定子のことを絶対に知っておけ!
前回の記事(長徳の変とは?わかりやすく解説【花山法皇乱闘事件。藤原伊周の敗北と藤原道長の登場】)で少しだけ清少納言に触れたの...

彰子と定子の何が微妙な関係なのかと言うと、やはり2人とも同時に一条天皇の皇后となっている点が一番大きいと個人的に思っています。2人とも皇后になりつつも、藤原道長という圧倒的後ろ盾を持つ彰子が栄華を極めて行くことになりますが、藤原道長・一条天皇・藤原彰子の3人みんなそれでハッピーになったかと言われると、実はそうでもないんです。

3者の様々な思惑が錯綜し、複雑な人間関係の中、この時代の朝廷政治が進んで行くことになります。

何を言っているのかわからないかもしれませんが、これから私の知っている範囲ですが説明をしていきます!

なぜ2人同時に皇后になれるのか?

ある程度古代史の話がわかってくると同じ天皇に対して2人同時に皇后が存在するというがいまいち納得できません。皇后とは天皇の嫁たちの中で正式に認められた嫁のことを言います(つまり正妻)。なぜ正妻をはっきり決めておく必要があるかというと、皇位継承を円滑に行うためです。皇太子は、皇后の子である必要がある・・・としておくことで争いごとを減らそうというわけです。そんな皇后が2人存在するというのは、「皇位継承を円滑に行う」という当初の目的に反しており、かなりの違和感を覚えるわけです。

しかし、この時期に関しては、特殊な事情により皇后が2人同時に存在することができました。

原因は藤原定子が皇后となったせい!

原因は990年、藤原定子が一条天皇の皇后となったことでした。(厳密な表現は「皇后」ではなく「中宮」が正しいのですが、その辺の話はこれからしていきます。)

定子の話については以下の記事も参考にどうぞ。

清少納言の枕草子を読むなら藤原定子のことを絶対に知っておけ!
前回の記事(長徳の変とは?わかりやすく解説【花山法皇乱闘事件。藤原伊周の敗北と藤原道長の登場】)で少しだけ清少納言に触れたの...

実はこの時、藤原定子は本来であれば皇后、つまりは天皇の正妻となることはできませんでした。

なぜかというと、皇后の枠がすでに埋まっていたからです。当時の法律では、「三后」(さんこう)とは、三代にわたる皇后を言い、先に説明したように太皇太后・皇太后・皇后を言います。当然、「三后」の枠はそれぞれ1人、計3人しかなれません。

藤原定子が一条天皇の正妻、つまり皇后になろうとした時、偶然にも三后の枠が全て埋まっていました。それでも、当時の権力者、藤原道隆は娘の定子を無理矢理に一条天皇の皇后にしようと考えます。

藤原道隆が考えた方法は、とても屁理屈な方法で、当時皇后は「中宮」とも呼ばれていました。皇后=中宮というわけです。道隆はこれを「皇后と中宮はそれぞれ別物として考えようぜ!そしたら皇后は埋まってるけど、中宮の枠は開くでしょ?」と考えたわけです。・・・と言った感じでなんとも強引な方法で定子を一条天皇の正妻としたのです。

当時の皇后は、前々代の円融天皇の正妻でした。なので藤原定子は「皇后」にはなれませんでしたが、「中宮」として一条天皇の正妻となることに成功しました。

しかし、999年、中宮となった定子は同じ方法によって藤原道長の娘である彰子に正妻の地位を実質的に奪われることになります。

藤原彰子、中宮になる 〜二后並立〜

995年、長徳の変という事件によって藤原定子の後ろ盾だった藤原伊周(これちか)という人物が凋落してしまいます。

伊周の話は以下の記事を参考にどうぞ!

長徳の変とは?わかりやすく解説【花山法皇乱闘事件。藤原伊周の敗北と藤原道長の登場】
今回は、長徳の変という事件について説明します。この事件の意義は、長徳の変によって藤原道長のライバルだった藤原伊周が没落したこ...

藤原伊周の没落によって台頭したのがあの有名な藤原道長です。藤原道長は、その権力を磐石なものとするため、天皇と血縁関係を結ぼうと考えます。しかし、一条天皇には藤原定子という正妻が既にいました。

「どうすれば彰子を一条天皇の正妻にできるのか?」考えた藤原道長は、藤原道隆が定子に使った手法をそのまま応用することにしました。

つまり、中宮だった藤原定子を「皇后」にし、空いた中宮の枠に娘の藤原彰子を当てようと考えたのです。これだけ聞くと、定子の時と同じに思うかもしれませんが、定子が中宮になった時と彰子が中宮になった時とでは決定的に違う点があります。

同じ天皇に正妻が2人!?

決定的に違う点は、今回は皇后も中宮も一条天皇の正妻であるという点です。定子の時は、皇后は円融天皇の妃で中宮は一条天皇の妃であり、一天皇一正妻でした。しかし、今回は、1人の天皇に対して2人の正妻が存在するという異例の状態となります。

それでも道長は半ば強引に彰子を一条天皇の中宮とすることに成功しました。こうして一条天皇は定子と彰子の2人の正妻を持つことになりました。(この一条天皇の状態を一帝二后と言ったりもします。)

もちろん、同じ正妻でも後ろ盾を失った定子にはもはや力はありません。999年以後、藤原道長を後ろ盾とした彰子の存在が大きな影響力を持つようになりました。定子について言えば、自らが強引に中宮となったのとまさに同じ方法で力を失ったという点はなんとも皮肉な話です。

子どもをめぐる定子と彰子の複雑な想い

定子と彰子の話はこれだけではありません。もう1つ、この2人は複雑な事情を抱えることになります。

それは、子どもの問題です。彰子が999年に中宮になってから1008年までの9年間、実は彰子には子どもができませんでした。藤原道長は、将来的に彰子の男子を天皇とすることで自らの立場をより一層強いものにしようと考えていましたが、事は簡単には進みませんでした。

そこで消去法的に将来の天皇候補とされたのが、定子の第1皇子である敦康(あつやす)親王でした。

定子の子の世話をする彰子

定子は1001年に若くして亡くなってしまったため、その後、敦康親王の面倒はもう一人の正妻である彰子がすることになりました。

定子の彰子、親の立場的には対立する関係にありましたが、彰子は敦康親王のことをとても好いていたという記録が残っています。敦康親王は優秀な一条天皇の子だけあって、才気の溢れるとても人柄の良い人物だったようです。一条天皇も敦康親王のことをとても気に入っていました。しかし、時の権力者、藤原道長だけは彰子の子でない敦康親王が天皇となることに真っ向から反対の立場をとります。

定子と彰子は、なんとなくライバルみたいな印象を受けますが、実際はもっと複雑な関係だったのでは?と個人的に思っています。残っている記録では、定子はとても出来た人ですし、もし彰子が定子のことを嫌っているなら、嫌っている子のことを好きになれるでしょうか?私は、この話を知って、2人の関係性について一辺倒にライバルだ!とは思えなくなりました。

無念の一条天皇と彰子

しかし1008年、彰子に一条天皇の第2皇子、敦成(あつなり)親王を出産したことで自体は急変します。

当然、藤原道長は敦成親王を将来の天皇にしたいと考えます。一方の一条天皇は、愛していた定子の子、敦康親王を天皇にしたいと考えました。そして、中宮である彰子も一条天皇の気持ちを汲み、敦康親王を天皇として推したと言われています。自らの子も持つ彰子の心境は複雑だったはずですが、結果的に夫の一条天皇の気持ちを優先した形になります。定子と彰子と一条天皇この3人、みんな素晴らしい人すぎて書いていて感動すら覚えます。

以下の記事を読むとわかりますが、一条天皇の定子に対する深い愛情を読み取ることができます。以下は、勝手な妄想ですが、愛する定子の残した子を天皇にしたい一条天皇と、藤原道長の娘でありながら、一条天皇を愛し、自らの立場に反し手間で愛する人の意向を受け入れた彰子。そして、それに反対する藤原道長・・・と言った構図が頭の中に思い浮かびます。

清少納言の枕草子を読むなら藤原定子のことを絶対に知っておけ!
前回の記事(長徳の変とは?わかりやすく解説【花山法皇乱闘事件。藤原伊周の敗北と藤原道長の登場】)で少しだけ清少納言に触れたの...

・・・ですが、結局、権力者の藤原道長の意向に逆らう事は出来ませんでした。1011年、一条天皇が崩御すると、三条天皇が即位、そして皇太子として敦成親王が選ばれることになりました。敦成親王は後に後一条天皇として即位することになります。

参考までに系図を図を再掲します。

まとめ

歴史と言えば、やっぱり戦いや政変などの話が有名で面白いので、今回話したような細かい話というのはイマイチ人気がないように思います。正直、今回の話も超マニアックな部類に入ることでしょう。

私も「つまらないなぁ・・・」「書くの嫌だなぁ・・・」なんて思っていた一人ですが、こうやって記事を書いてみると、全然そんな事はありませんでした。この時代の歴史は、貴族の日記や本が多く残されているため、人々の細かい様子まで知ることができます。そのおかげで、人間味溢れるリアルな話を現代の我々でも知ることができるのですが、その内容はまさにノンフィクション小説を読んでいると錯覚を覚えるほどに面白いものです。

この記事を最後まで読んだくださった方は、おそらく、ある程度この時代のことを知っている方で、「つまらない!」なんて思っている方は少ないかもしれませんが、もしそう思っている方がいらっしゃるなら、ぜひ「私はノンフィクション小説を読んでいるんだ!」と思ってこの辺りの話を勉強されてみるととても面白かもしれません。

最後に。正直、この記事の内容はわかりやすく整理仕切れていないと感じています。理由は、私自身の知識不足です。言葉のニュアンスや文章構成など、わかりにくい点があるかと思いますが、何卒ご了承ください。(もう少しこの辺の話に詳しくなったら記事をリメイクするかもしれません・・・)

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コメント

  1. ふう より:

    いつも面白く読んでいます。
    ひとつよくわからないところがありましたので教えていただけるとうれしいです。
    定子が一条天皇の正室となり、円融天皇の正室と同時期に皇后となったとあるのですが、当時の天皇は円融天皇一条天皇どちらだったのですか?
    円融天皇から一条天皇に代替わりしていたならば詮子はすでに皇后でないと思ったのですが…
    すでにどこか説明されていたならすみません(>_<;)

    • mogutaro より:

      このサイトをご覧いただき、ありがとうございます。
      ご質問の件ですが、記事内では説明しておりませんでした(汗
      当時の天皇は一条天皇です。そして皇后の詮子は、前々代の円融天皇の妃でした。
      本来、皇后は天皇の妃という意味合いで使われることが多いのですが、
      当時は、皇太后、太皇太后がまだ生きており、皇太后の枠が既に埋まっていたため、詮子は皇太后になることができず、
      ずっと皇后のままだったのです。