聖武天皇ははぜ東大寺の大仏を造った?聖武天皇即位の裏話1/4

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(上図は、聖武天皇)

平城京の遷都をもって、一般的には飛鳥時代から奈良時代へと時代が進むことになります。

奈良時代は、710年から794年の平安京遷都までの80年程度の時代を言います。奈良時代、色々な出来事が起こりますが、やはり主役は聖武天皇です。

そして、聖武天皇と言えば奈良の大仏

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聖武天皇はなぜこのような巨大な大仏を建立したのか、その歩みを見ていくことにします。東大寺に観光に行かれる方には、ぜひご一読してもらえればなぁなんて思っています。

第1回目は、聖武天皇が天皇に即位するまでのお話です。

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すべてが狂った文武天皇の早すぎる逝去

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(出典:wikipedia  「文武天皇」 最終更新日:2015年10月16日 (金) 09:33)
(クリックで拡大表示されます。)

文武天皇は、息子の首皇子(おびとのみこ)を次期天皇にしようと考えていましたが、文武天皇は、首皇子が幼い頃に早くして亡くなってしまいます。

文武天皇の早逝により、再び皇位継承問題が勃発しそうでしたが、あの手この手で文武天皇の母が元明天皇として即位します。707年です。元明天皇の即位は、息子の聖武天皇が成長するまでの間の中継という役割がありました。

その後、月日が経ち、715年、首皇子は15歳になり、天皇に即位しても不思議ではない年齢となっていました。元明天皇は、譲位を決断します。

遂に、聖武天皇の即位!・・・と思いきや、元明天皇が譲位したのは別の人物だったのです。上図の(44)元正天皇です。

首皇子(聖武天皇)から見るとおばにあたりますが、首皇子の母は病弱だったため、実質元正天皇が首皇子の養母でした

なぜいきなり元正天皇が即位したのか?その理由は大きな謎とされています。一方で、聖武天皇には単純に即位できない理由があったとも考えられています。

母に問題あり!?天皇の血を引いていない藤原宮子

聖武天皇の実母は藤原宮子という人物でした。藤原という名前からわかるとおり、皇族の血を引いていません。

現在の皇室典範では、天皇家の血筋は男系(父)の血筋だけを認めることとしていて、天皇の母方の血筋については必ずしも皇族の血筋である必要はありません。

しかし、当時は違います。乙巳の変で蘇我氏が没落した後、女系についても血筋を重要視していました。

そのため、天皇家の血を引かない藤原宮子を母とする首皇子が若くして即位することは、前例のないことであり、天皇の位を狙っているほかの皇子などからの大きな反発が予想されました。

そこで、「問題なく首皇子が即位するには、周囲の人々を納得させるだけの器が首皇子になければならない。そのためには、15歳という年齢は若すぎる・・・。」と元明天皇は考え、首皇子がもうちょっと大人になるまでの中継ぎとして元正天皇を選んだという説があります。

元明天皇は当時55歳ぐらいで、高齢でした。元明天皇自体、首皇子即位までの中継ぎという使命を負っていたのですが、自分が亡くなる前にさらなる中継ぎが必要でした。そのための元正天皇です。

有名なあの藤原氏の祖、藤原不比等の登場!

藤原道長をはじめとして、平安時代に隆盛を極めた藤原氏。その祖となる人物が藤原不比等です。

なぜこんな話をするのかというと、聖武天皇の母である藤原宮子、実は藤原不比等の兄弟なんです

え?何が言いたいかって?つまり、聖武天皇即位の裏には藤原不比等の無言の圧力があったのではないかということ。そして、不比等とそれに反対する勢力との政治闘争が聖武天皇の即位を遅らせたという説です。

しかし、藤原氏の祖と言われるほど、有名な藤原不比等。どのような人物だったのでしょうか

父は乙巳の変で活躍した藤原(中臣)鎌足

驚くなかれ。不比等の父は乙巳の変で活躍した中臣鎌足です。

中臣鎌足について詳しく知りたい方へ

なぜ大化の改新(乙巳の変)は起こったのか。わかりやすく解説するよ~その1
大化の改新(乙巳の変)はなぜ起こったのか。わかりやすく解説するよ~その2

中臣鎌足は、臨終間近、乙巳の変の際に相棒だった天智天皇から、これまでの功績を称え「藤原」姓を賜ります。

実は、「藤原」という姓のどこが功績を称えるのに相応しい姓なのか私にはよくわかりませんが、とにかく、名誉ある姓だったことは間違いないでしょう。

壬申の乱で没落する藤原(中臣)氏

669年、藤原鎌足が逝去します。そして、672年、壬申の乱により天智天皇の子、大友皇子(弘文天皇)は敗北します。

当時、藤原一族は、天智天皇の息子である大友皇子側に味方していました。天智天皇との関係を考えれば、当然です。しかし、大友皇子が壬申の乱に敗北したことにより、大友皇子サイドだった藤原一族は朝廷内から排除されてしまいます

実力でのし上がる不比等

壬申の乱の翌年673年、藤原不比等は、下級官人として、官僚コースを歩み始めます。不比等14歳。

不比等は、優秀な官僚だったらしく、十数年の官僚生活の後、遂に持統天皇からその才能を見出され重用されます

藤原不比等は、やはり超エリート官僚だったらしく、大宝律令の編纂や平城京造営に多大な貢献をすることとなりました。力をつけ、天皇からの信頼も厚かった不比等は、遂に兄弟の藤原宮子を文武天皇の妻とすることに成功したのでした。

聖武天皇即位!

元正天皇が即位してから9年後の724年、元正天皇は待ちに待った首皇子に譲位します。聖武天皇誕生の瞬間です。早逝した文武天皇の願いが、14年ぶりの実現したのです。あの世にいる文武天皇も感無量だったことでしょう!!

というように、聖武天皇即位の裏には、皇位継承問題と藤原宮子問題という大きな壁がたちはだかっていましたが、文武・元明・元正の3天皇の必死の努力により聖武天皇の即位が遂に実現したのです。。

次回は、聖武天皇時代の有名なとある一大事件について話します!

次:聖武天皇はなぜ東大寺の大仏を造ったのか-長屋王の悲劇-2/4
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