荘園公領制・寄進地系荘園を簡単にわかりやすく解説【平安時代の複雑な土地の仕組】

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今回は、平安時代の「荘園公領制」「寄進地系荘園」という土地制度について紹介します。

正直、土地制度の話はつまらないし難しいし多くの人が敬遠しがちな内容です。

しかし、平安時代末期の院政〜源平合戦という武士が活躍する平安時代屈指の熱い時代の話を楽しむには、どうしても当時の土地制度の話を知っておく必要があります。古代・中世の日本は土地制度=税制度であり、土地制度のあり方は国の根幹に関わる非常に重要なものでした。

と言うわけで本題に入ります。

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荘園公領制とは?

平安時代になると与えられた貧困により農地を捨てて逃げ出す浮浪人が増え、飛鳥時代末期〜奈良時代にかけて築かれた公地公民制度が少しずつ崩壊していきます。なぜ崩壊したかというと、戸籍がメチャクチャになって人々の状況が把握ができなくなったからです。

重税に苦しむ人々が与えられた農地から逃げ出すと、その土地は荒廃します。こうして多くの口分田が荒廃していきます。さらに、人々が逃げ出すと人を管理する戸籍制度も崩壊し、朝廷は人々にスムーズに土地を与えることができなくなります。

ちなみに、「人々が天皇から与えられた土地」のことを口分田(くぶんでん)。「天皇が人々に土地を与えること」を班田(はんでん)と言い、班田収授法は口分田を班田する法律のことを言います。

班田の停滞や口分田の荒廃は朝廷の税収減を意味します。平安時代になると朝廷はこのような税収問題に否が応でも向き合わなければならなくなりました。では、朝廷がどのような対応したか、簡単に見てみましょう!

班田制の限界

口分田が荒廃し朝廷の土地管理が行き渡らなくなると、その土地を勝手に私有化する者も現れます。既に広大な荘園を持つ裕福層は、さらに富を得るために積極的に土地を求めていたのです。本来口分田だった土地が勝手に私有化されてしまうと、次第に班田を行うことが困難になっていきました。

原因はこれだけではありません。戸籍の偽装、有力者による恣意的な土地操作(貧しい土地を貧民に押し付け、自らは豊かな土地を得る)などが横行し、土地管理の煩雑さも相まって、班田は物理的に不可能になりつつありました。

桓武天皇時代(700年頃)には6年に一度行う決まりだった班田は12年に一回に頻度が減り、902年に行われたのを最後に遂に班田自体が行われなくなります。

税制の変化 〜人から土地へ〜

班田収授法は当時の日本の税制の根幹をなすものであり、これが崩壊するとなれば、必然的に税制そのものの在り方を見直さなければいけません。

それまでの日本の税制は「人を戸籍で管理し、土地を与え、人に税を賦課する」という原則がありました。戸籍が崩壊し、人の掌握が困難となった朝廷はこの税制の原則を根本から見直す必要に迫られました。

そこで考え出されたのが「土地ごとに税を賦課し、その土地を持っている人物から税を徴収すれば良い。」というもの。この考え方なら人がどこにいるか管理する必要はありません。現にその土地を保有している人物から税を毟り取れば良いのですから。

しかし、これには問題もありました。墾田永年私財法が施行されて以降、土地を保有する者は富や権力を持つ者が多くなってしまったんです。金持ちから税金を徴収するのは一筋縄ではいかず、これはこれで非常にハードルが高いものでした。

古今東西、税金を積極的に支払いたいと願う者などいません。墾田永年私財法によって金持ちになった人たちは脱税に全力を注いでおり、税を徴収するのも簡単ではありません。

そこで、朝廷は脱税を防ぐため、地方官僚のトップである国司に「好き勝手やっていいから、とにかく税金を搾り取れ!」と大きな権限や裁量を与えて税徴収の任務に当たらせました。こうして強大な権力を持つようになった国司のことを受領と呼びます。詳しくは以下の記事をどうぞ

公領(国衙領)の成立

脱税対策の一方で、「荒廃した口分田をどのように有効活用すべきか?」という点も大きな問題となっていました。

この点は特に800年代の頃に議論が進んだようで、様々な試みが行われました。が、最終的には「誰も有効活用してくれないなら、公務員任せにするわ」と先ほども紹介した地方官僚のトップである国司がその土地を保有し管理することになりました。これが公領(こうりょう)又は国衙領(こくがりょう)と呼ばれる土地です。

こうして班田が行われなくなると、日本各地の土地は大きく2つに分かれるようになりました。

  • 1 富裕層が保有する広大な私有地。これを荘園って言います。
  • 2 国司が保有する公領(または国衙領)

そして、班田制が崩壊した後の荘園と公領ばかりになった日本の土地制度のことを「荘園公領せい」と呼びます。成立時期は曖昧で、900年以降少しずつ日本の土地は荘園公領制へと向かい始め1000年代後半になると本格的な荘園公領制が成立し始めます。

さらに、荘園公領制が広がると荘園にも様々な変化が見られるようになります。それがここからのお話。

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寄進地系荘園とは?

班田制の崩壊や荘園公領制の成立の根本的なところには、今も昔も変わらない人々の強い脱税意識があります。戸籍の崩壊、田畑の荒廃、国司に抵抗する荘園、国司の権限強化、当時の土地制度の変革のほぼ全ての根底に脱税問題があるのです。

そして、墾田永年私財法が開始されて以降、増える一方だった荘園の在り方にも変化が生じます。

荘園保有者の脱税対策

班田制が崩壊後、権限が強化された国司は国内の国衙領と荘園から税の取り立てを行います。国司には朝廷からある一定の納税ノルマが与えられており、そのノルマ達成に必要な税額に自らの私腹を肥やすための税額を上乗せして人々に対して徴税事務を行いました。

権限が強化された国司は、次第に自らの私腹を肥やすことだけを考えるようになり、国司が荘園に求める納税額は、基本的に高額になっていきました。

荘園を保有する人々はそんな理不尽な重税に反感を抱き、国司に抵抗するようになります。抵抗の方法は、主に2つありました。武力による徹底抗戦か、朝廷に強い影響力を持つ有力者に保護してもらうかの2つです。

特に後者の方が当時の社会問題となっていきます。

有力貴族への土地の寄進(きしん)

人々は重い税を逃れるため、朝廷にコネのある有力貴族達に土地を譲るようになったのです。これを寄進(きしん)と言います。なぜ大事な土地を渡してしまうのかというと、有力貴族の領地になってしまえば国司が簡単に手出しすることができなくなるからです。

国司という役職は、大きな富を築くことができる非常に人気のある役職ですが、その任命は朝廷の貴族達の判断により行われます。このような仕組み上、国司は朝廷で強い影響力を持つ有力貴族達に逆らうことはできませんでした。人々はこの国司の弱みにつけこんで、有力貴族達に土地を寄進することにしたのです。

寄進と言っても基本的には有力貴族の名義貸しです。書面上は有力貴族のものとなりますが、実態としての土地の保有・管理状況に変化はありません。その代わりに寄進をした荘園保有者は、有力貴族達に名義貸し料を納めなければなりませんが、国司からの重税に比べれば名義貸し料の方がよほどマシだったのです。

寄進は荘園保有者と有力貴族の両者にメリットのあるwin-winの行為であり、各地で相次いで寄進が行われるようになります。

そして、寄進によって形成された有力貴族らの広大な荘園のことを寄進地系荘園と呼びます。寄進地系荘園は、荘園公領制と同時期に形成され、900年代以後少しずつ増えてゆき、1000年代後半になると大きな寄進地系荘園が次々と形成されるようになります。

藤原氏の栄華と税収問題

寄進地系荘園によって一気に栄えたのが、朝廷内のボスだった藤原氏です。寄進地系荘園は、何もしなくても自動的に名義貸し料が入ってくるので貴族達にとって、とても魅力的な荘園でした。

藤原道長を筆頭に平安時代大いに栄えた藤原氏ですが、その基盤となったのがこの寄進地系荘園でした。

一方、藤原氏などの有力者に荘園を寄進し税を免れる者が増えてくると、貴族たちが喜ぶ一方で、朝廷の税収が減りはじめ、財政難が深刻な問題となりました。900年以降になると、朝廷は「勝手に寄進せず、キチンと税金納めような!」という趣旨の荘園整理令という命令を発することになります。

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まとめ

難しくてつまらない話かもしれません。しかし、難しい話を全部取っ払うと、要するに、「脱税を企む人々と脱税を防ぎたい朝廷のイタチごっこ」です。

飛鳥時代末期に完成した公地公民制は、唐を参考に朝廷の強い意向により築き上げられた制度でしたが、荘園公領制の成立には朝廷の意思は一切ありません。脱税対策のイタチごっこにより行き当たりばったりで形成されたのが、荘園公領制や寄進地系荘園だったのです。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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コメント

  1. 源義家ファン より:

    いつも拝見させて貰ってます
    わかりやすいので頑張ってください