なぜ崇峻天皇は暗殺された?わかりやすく解説【蘇我馬子の陰謀】

丁未の乱で勝利した蘇我馬子は、擁立していた泊瀬部皇子を天皇即位させます。587年8月、崇峻天皇が即位します。丁未の乱については、以下の記事をどうぞ。

蘇我稲目と物部尾輿の間で起こった仏教や政治をめぐる対立は、次世代に引き継がれ、次はそれぞれの息子だった蘇我馬子と物部守屋が対立するこ...

ところがこの崇峻天皇、即位5年後の592年に臣下によって暗殺されてしまいます。日本の歴史において臣下によって暗殺された天皇は記録上、崇峻天皇のみです。このような一大事件が起こったのが崇峻天皇の時代でした。

今回は、なぜ崇峻天皇は暗殺されたのか?という話をしてみたいと思います。

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蘇我馬子が支配する崇峻天皇の治世

物部氏が滅びた朝廷においてもはや絶大な影響力を持つ有力豪族は蘇我氏のみ。そんな朝廷の中で、蘇我馬子は絶大なる影響力を誇るようになります。その影響力たるや、もはや天皇が傀儡と思えてしまうほどでした。

崇峻天皇は天皇即位はしたものの、実質的に朝廷を支配していたのは蘇我馬子であり、自由に政治を行えない崇峻天皇は強いフラストレーションを抱いていました。さらに、蘇我馬子の擁立のおかげで天皇即位ができた経過もあるため、蘇我馬子に反抗することすらできずにいたことが崇峻天皇の心を苦しめました。

表面上はどうだったかはわかりませんが、少なくとも心の奥底では崇峻天皇と蘇我馬子の関係は微妙なものになっていきました。

崇峻天皇「ムカつくやつの首を切りてーな!」

592年のある日、崇峻天皇のもとへイノシシを献上する者がありました。すると崇峻天皇はこんな風にぼやきました「あぁ、ムカつくやつの首もこのイノシシの首のようにきってしまいたい!」。

この情報は蘇我馬子も知るところとなります。蘇我馬子は、崇峻天皇のこの発言を自分に対しての発言だと考えました。蘇我馬子も、崇峻天皇が日頃から自分のことを嫌っていることをわかっていたのでしょう。この発言に加え、崇峻天皇が近辺で兵を集めているなどという噂もあり、蘇我馬子は崇峻天皇に対して強い警戒心を抱くようになります。

こうして、両者の緊張感が高まった中で蘇我馬子によって考えられたのが崇峻天皇暗殺計画でした。自らに危険が及ぶ前に、先に崇峻天皇を亡き者にしようと考えたのです。

蘇我馬子の崇峻天皇暗殺計画

蘇我馬子は知略に長けた人物であり、計画は綿密に練られました。まずは偽りの儀式の場を設け、そこに崇峻天皇をおびき寄せます。そこで、蘇我馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)という人物に命じ、崇峻天皇を暗殺することにしたのです。

この計画は成功し、592年11月、崇峻天皇は暗殺されました。

抹殺される東漢直駒

そして同じく592年11月、崇峻天皇を実行した東漢直駒が蘇我馬子の娘と密通していたことを理由に蘇我馬子によって処刑されます。

ですが、おそらくこの処刑は蘇我馬子による口封じであったのだろうと思います。処刑理由や時期を鑑みるに、蘇我馬子の思惑を感じずにはいられません。

理由はどうあれ、結果的に蘇我馬子は崇峻天皇の暗殺とその口封じに成功しました。こうして、日本史における一大事件、崇峻天皇暗殺事件は起こったのでした。

崇峻天皇暗殺事件の謎

しかしこの事件、実は多くの謎が残されています。

その1つが、崇峻天皇暗殺後の朝廷の動きです。

崇峻天皇の殯(もがり)

当時の日本は土葬が一般的で、天皇が崩御すると葬式儀礼の殯(もがり)という行為を行った上で、遺体を埋めるのが通例でした。

ところが、崇峻天皇に限っては殯が行われませんでした。これは、当時の歴代天皇ではありえなかったかなり特異な崇峻天皇の特徴です。殯がないので、崇峻天皇の遺体はすぐに土葬されました。もはや崇峻天皇の扱いは、天皇としての扱いではなくなっています。

殯は朝廷によって行われるものであり、殯をしないということは朝廷としても崇峻天皇は殯をするに値しないと見なしていたということになります。

さらに、崇峻天皇死後の朝廷は、一大事件の後とは思えないほどに冷静を保ったままでした。特に不穏な動きなども見られず、朝廷では淡々と政務が行われていきます。

以上の点から崇峻天皇の暗殺は蘇我馬子独断の行動ではなく、朝廷全体の意思だったのでは?なんていう説もあります。朝廷の崇峻天皇に対する扱いがあまりにも冷たいからです。

一方で、蘇我馬子が朝廷を抑え込むほどの絶大な権力を誇っていた・・・なんて見方もできます。

虐げられる蘇我氏

もう1つの問題は、日本書紀や古事記などの当時の時代について書かれている多くの歴史書が蘇我氏には否定的であるという点です。

日本書紀や古事記は、700年頃に天皇主導で作られた歴史書ですが、天皇に迫る権力を持っていた蘇我氏のことは良くは描かれていません。天皇の立場に立てば、蘇我氏は天皇権力を脅かす危険人物だったからです。

実際に、崇峻天皇暗殺や乙巳の変など蘇我氏というのは、傍若無人に権力を振りかざす暴君というイメージが強いです。

蘇我氏について書かれた歴史書を読むときには、その信ぴょう性について疑ってかかる必要があるのです。そんな事情も、「崇峻天皇の暗殺は本当に蘇我馬子主導で行われたのか?」という疑問が生まれる理由の1つとなっています。

一応、この記事では蘇我馬子のフォローをちょっとだけしておこうと思います。

蘇我馬子と飛鳥寺

物部守屋を倒した後、蘇我馬子は念願の仏教信仰を再開します。このときに建立されたのが現代の奈良県明日香村にある飛鳥寺でした。

実は、蘇我馬子は日本に仏教を普及させた功労者だったのです。当時の仏教信仰といえば聖徳太子の方が有名ですが、仏教の普及において蘇我馬子の影響力は強かったものと思います。父の蘇我稲目の代から複数回行われた排仏運動に屈することなく仏教を信じ続けた点からも蘇我馬子の仏教に対する想いは、決して軽いものではなかったはずです。

というか、この点も蘇我馬子の功績が、日本書紀などの歴史書の中では全て皇族である聖徳太子の功績にすり替えられている可能性も否定できないと思います。

といった感じで、謎が多いのが蘇我馬子による崇峻天皇暗殺事件なのでした。

崇峻天皇暗殺事件のその後

崇峻天皇亡き後、朝廷内では次期天皇をどうすべきか・・・という問題に苦慮することになります。特に蘇我馬子はこの問題に頭を抱えることになります。

複雑な勢力図や人間関係の中で、どのようにして平和裡に蘇我馬子が有利となる天皇即位を実現できるのか・・・。

そんな苦悩の結果、即位したのが日本初の女帝と言われる推古天皇でした。

【次回】

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