女帝推古天皇はどんな人?その政治は?わかりやすく紹介!【聖徳太子と蘇我馬子】

今回は、日本で初めて女帝として即位した推古(すいこ)天皇について紹介しようと思います。推古天皇は、絶世の美女としても有名です(上図参照。私はノーコメントです)。

推古天皇はなぜ日本初の女帝となったか

さて、まずは推古天皇が即位するまでの経緯を説明しましょう。日本初の女帝というだけあって、推古天皇即位の背景には複雑なものがありました。

崇峻天皇暗殺後の次期天皇候補

推古天皇が即位した経過の発端は、崇峻天皇暗殺事件です。事件については、以下の記事を参考にどうぞ。

丁未の乱で勝利した蘇我馬子は、擁立していた泊瀬部皇子を天皇即位させます。587年8月、崇峻天皇が即位します。丁未の乱については、以下...

この事件により崇峻天皇が亡くなったことで、急遽、朝廷は次期天皇を選定する必要に迫られることになります。

候補者は押坂彦人大兄皇子・竹田皇子・厩戸皇子

当時の天皇候補者は3名いました。押坂彦人大兄皇子・竹田皇子・厩戸皇子の3人です。このうち、押坂彦人大兄皇子が年齢的に最有力候補でしたが、既に亡くなっていたか何らかの事情で候補者から外されていました。押坂彦人大兄皇子は蘇我氏との血縁関係がないために候補から外されたとも言われています。(上の系図を見てみてください。)

反蘇我馬子勢力の存在

当時、朝廷内には権力を思いのままに掌握する蘇我馬子をよく思わない人々も多くいました。推古天皇即位は592年12月に即位しましたが、物部氏が丁未の乱によって滅んでからまだ5年しか経過していません。反蘇我馬子勢力は健在だったのです。

蘇我稲目と物部尾輿の間で起こった仏教や政治をめぐる対立は、次世代に引き継がれ、次はそれぞれの息子だった蘇我馬子と物部守屋が対立するこ...

そのため、蘇我馬子が露骨に親蘇我氏派だった竹田皇子や厩戸皇子を即位させるには、丁未の乱のような内乱のリスクを考える必要がありました。そして、丁未の乱の主人公の1人であった蘇我馬子は、再び世が乱れることを嫌います。

こう考えると、天皇にすべき人物は1人もいなくなってしまいます。それに竹田皇子も厩戸皇子もまだ若すぎました。そこで白羽の矢が立ったのが推古天皇でした。

蘇我馬子と親密だった推古天皇

推古天皇は、蘇我馬子とは姪と叔父の関係にあります。この2人の関係は非常に良好でした。推古天皇が美人だったことから、プライベートでも一線を超えていたのでは?なんて話もあったりなかったり。実際に、丁未の乱の際に推古天皇は蘇我馬子と下で活躍しています。

推古天皇は、人物的にも聡明な人物であり「女性だから政治ができない!」なんて言われるような雰囲気でもありませんでした。さらに推古天皇は、候補者の1人であった竹田皇子の母でもあります。

蘇我馬子との関係・優れた人物像・竹田皇子の母という血筋、この3点が推古天皇が日本初の女帝に選ばれた理由になります。そして、推古天皇は朝廷の情勢が落ち着き、竹田皇子が成長するまでの繋ぎ役という役割を担っています。

このように、微妙な政治情勢や血筋なども包含する多様な問題を一挙に解決できる人物として偶然に選び出されたのが推古天皇だったのです。推古天皇にとって一番重要な役割は、竹田皇子即位の繋ぎ役という点です。(実は厩戸皇子の繋ぎ役説もあります・・・)

しかし、繋ぎ役とはいえ、その政治は非常に素晴らしい政治でした。

推古天皇はどんな政治をしたのか

推古天皇は即位直後から1つの問題に直面します。それは竹田皇子が若くして亡くなってしまったことです。実は竹田皇子がいつ亡くなったか具体的な時期はわかっていませんが、推古天皇即位前後(592年前後)と言われています。

こうして、593年に厩戸皇子が皇太子になります。厩戸皇子は、聖徳太子の正式名です。ちょっとくどいかもしれませんが、この記事では厩戸皇子(聖徳太子)という表記で統一したいと思います。

厩戸皇子(聖徳太子)を摂政(せっしょう)に!

推古天皇は、皇太子になった厩戸皇子(聖徳太子)を摂政としました。摂政とは、簡単に言えば天皇の補佐役です。女帝や幼少天皇が即位した場合に登場する役職です。

推古天皇は聡明な人物だったので、摂政とは言っても将来天皇になる若き厩戸皇子(聖徳太子)に経験を積ませるような感じだったのだと私は考えています。同じ摂政でも平安時代に藤原氏が摂政として政治を牛耳ったのとは事情が全く違いますので、注意が必要です。この時の摂政は、本当の本当にあくまで天皇の補佐役だったのです。

蘇我馬子と推古天皇の駆け引き

推古天皇が聡明だったと言われる所以は、権力を欲しいままにする蘇我馬子との政治的調整を完璧なまでに成功させたことにあります。

これは地味ながらとても重要な問題で、崇峻天皇なんかは蘇我馬子との関係がうまく築けず、殺されるまでに至っています。推古天皇は蘇我馬子の権力に屈することもなく、だからと言って蘇我馬子を無下にすることもせず、実に巧みな立ち回りで蘇我馬子との協力体制を実現します。

蘇我氏と共同で政治を行った天皇は推古天皇の他に、用明天皇・崇峻天皇・舒明天皇・皇極天皇などがいますが、最も蘇我氏の権力に屈せず中立の立場で政治を行えたのは推古天皇と言えるでしょう。

推古天皇のこの絶妙な政治感覚こそ、推古天皇が聡明である理由の1つになっています。推古天皇は美人だったらしいのでそんな美貌も政治に一役買っているかもしれません。まさに才色兼備という言葉がふさわしいのが推古天皇なのでした。

推古天皇の思惑 ー天皇主権を目指してー

推古天皇は、厩戸皇子(聖徳太子)を摂政に、蘇我馬子を側近とし3人での共同政治を実現します。推古天皇の政治の本質は、「アジアの隋のように天皇主権の国を造り、日本を他国に負けない国にする!」というものです。当時の日本の最優先課題は、朝鮮半島やアジア大陸の国々に負けない国に成長することでした。

推古天皇のこの政治目的を達成するには、実は蘇我馬子が邪魔になります。しかし、蘇我馬子と対立するのも上手くありません。そこで推古天皇は、蘇我馬子との関係を保ったまま巧妙に日本の政治の舵を天皇主権へと傾けようとしました。

こうして行われた政策が有名な17条の憲法の制定冠位十二階制の導入です。この記事では具体的な内容には触れませんが、これらの制度は蘇我馬子を刺激せずに日本の政治を天皇主権へと向かわせるために制定された制度です。

また、推古天皇の時代は約100年ぶりに中国(当時は隋)への遣隋使派遣が再開された時代でもありました。500年代後半アジアでは大国の隋が建国され、日本は目まぐるしく変動する東アジアの国際事情に対応する必要に迫られていたのです。

推古天皇の政治のまとめ

推古天皇は、蘇我馬子と絶妙な政治的調整を行いながら天皇主権を目指す17条憲法の制定や冠位十二階制導入などの政策を次々と実施していきました。そして、これらの政策は蘇我馬子を刺激しないよう考慮されたものでした。

推古天皇の悩み ー後継者問題ー

そんな推古天皇ですが、実は1つ悩みを抱えていました。それは次期天皇に関する皇位継承問題です。

竹田皇子が若くして亡くなり、593年、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子にしましたが、その厩戸皇子(聖徳太子)も622年に亡くなってしまいます。繋ぎ役で即位したはずの推古天皇ですが、本命の人物たちが次々と亡くなり、622年に厩戸皇子(聖徳太子)が亡くなった時点でもはや繋ぎ役ではありませんでした。

こうなると、次期天皇について一から考え直さないといけません。結局、推古天皇は幸か不幸か628年に没するまで在位し、繋ぎ役であるにも関わらず約35年という長期政権を築き上げてしまいました。当時の天皇制は、現代同様終身制なので、繋ぎ役で即位したとはいえ、一度即位してしまえば死ぬまで次の天皇が即位することはなかったのです。

まとめ

結局、628年に亡くなった推古天皇は、次期天皇について遺言などを残すこともなく、皇位継承問題を未解決ままにして亡くなってしまいます。

推古天皇は繋ぎ役として即位しながらも、才色兼備かつ政治感覚にも優れた人物であり、蘇我馬子と対立することなく巧妙に天皇主導の政治の礎を築き上げました。しかし、そんな優秀な推古天皇でも次期天皇の皇位継承問題だけは未解決のままでした。

推古天皇亡き後の朝廷では、もはや強大な蘇我氏をコントロールできる人物は存在せず、天皇即位や政治そのものが蘇我氏の思いのままになってしまいます。こうして推古天皇が亡くなった628年から645年の蘇我氏排斥事件「乙巳の変」まで間、朝廷は蘇我氏によって支配されることになります。

【次回】

以下の記事で冠位十二階制は、「蘇我馬子を牽制しながら天皇主導の国を造り上げるために、十七条の憲法の制定と冠位十二階制の導入が行われた...

【前回】

丁未の乱で勝利した蘇我馬子は、擁立していた泊瀬部皇子を天皇即位させます。587年8月、崇峻天皇が即位します。丁未の乱については、以下...

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