蘇我蝦夷・蘇我入鹿をわかりやすく紹介!【舒明天皇と皇極天皇】

今回は、乙巳の変というクーデターで殺害されてしまったあの有名な蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子について紹介しようと思います。

蘇我蝦夷・蘇我入鹿の活躍時期は、日本初の女帝で有名な推古天皇亡き後の時代です。推古天皇の時代は、推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子という有能な人物たちが共同で政治を行なっていた時代でした。推古天皇の特筆すべき点は、権力者である蘇我馬子と天皇との間に表立った対立がなかったことです。推古天皇は、蘇我馬子の強大な権力を時には抑制し、時には利用しながら巧みに政治を行いました。詳しくは以下の記事をどうぞ。

今回は、日本で初めて女帝として即位した推古(すいこ)天皇について紹介しようと思います。推古天皇は、絶世の美女としても有名です...

ところが622年に聖徳太子が、627年には蘇我馬子、そして628年には推古天皇が次々と亡くなっていきます。こうして、時代は新しい局面を迎えます。

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蘇我蝦夷と舒明天皇の時代

推古天皇は、次期天皇について何も遺言を残すことなく亡くなっていきました。なので次期天皇を早急に決める必要があります。朝廷内では次期天皇をどうするのかについて議論が行われました。

当時の天皇候補は2人。山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)田村皇子です。山背大兄皇子はあの有名な聖徳太子の息子です。上の系図を見てもわかるように血筋的には蘇我氏の血を持つ山背大兄皇子の方が優位でしたが、なぜか田村皇子が天皇として選ばれます。629年、田村皇子は舒明天皇として即位しました。当時、朝廷内で最大の権力を有していたのは蘇我馬子の後を継いだ蘇我蝦夷です。舒明天皇即位の背景にも蘇我蝦夷のなんらかの意向があったはずです。

政治の実権を握る蘇我蝦夷

舒明天皇は、前代の推古天皇のように蘇我氏の強大なパワーを巧みに操るような政治バランスは持ち合わせていませんでした。舒明天皇の治世は12年間ありましたが、政治の実権はほとんど蘇我蝦夷が握っているような状況でした。

ただし、政治の実権を握ったと言っても、蘇我蝦夷はド派手な行為はあまり好みませんでした。蘇我蝦夷はどちらかと言えば慎重なタイプの人間だったようです。そのため、舒明天皇と蘇我蝦夷との間で深刻な対立や事件が起こることもなく、表面上はその治世は比較的平穏でした。

舒明天皇の下、蘇我蝦夷は着実に自らの基盤を盤石なものにしていきます。蘇我蝦夷の豪華絢爛な邸宅は、「まるで皇居のようだ・・・」とまで言われるほどでした。そして、富と権力を掌握しつつあった蘇我蝦夷に逆らえるものはもはや存在しませんでした。

舒明天皇の胸の内は?

さて、そんな状況で天皇即位していた舒明天皇の心境はどんなだったのでしょうか?

実は舒明天皇がどんな政治を行なっていたのかはよくわかっていないようです。蘇我蝦夷の傀儡だったという説や、必死に蘇我蝦夷の権力を抑制しようと頑張っていたなんていう話もあります。

いずれにしても、蘇我蝦夷やその息子の蘇我入鹿のことを良く思ってはいなかったことは確実でした。

蘇我蝦夷とは正反対!天真爛漫な蘇我入鹿

641年、舒明天皇が亡くなり、舒明天皇の妃だった宝皇女が皇極天皇として即位します。推古天皇に続く女帝の登場です。もちろん、皇極天皇即位の裏には蘇我蝦夷の存在があります。

蘇我蝦夷が本命としていた天皇候補は古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)という人物でした。その繋ぎ役として即位したのが皇極(こうぎょく)天皇です。推古天皇の即位と背景はほぼ同じです。

なぜ古人大兄皇子を直接即位させず、繋ぎ役として皇極天皇を即位させたのでしょう。当時、聖徳太子の息子だった山背大兄皇子の人気が絶大であり、権力を思いのままに操る蘇我蝦夷に反感を持つ人々の強力な求心力になっていました。蘇我蝦夷は、古人大兄皇子を即位させることで山背大兄皇子の勢力をむやみに刺激し、情勢が不安定になるのを避けた・・・と考えられています。やはり、蘇我蝦夷は何事にも慎重な男だったのです。

蘇我入鹿の登場

642年、皇極天皇が即位します。そしてその翌年の643年、蘇我蝦夷はその息子の蘇我入鹿に後を引き継ぎます。乙巳の変で首を切られる以下のシーンで有名な蘇我入鹿の登場です。

蘇我入鹿は、父の蘇我蝦夷とは全く正反対の性格の持ち主でした。蘇我入鹿は権力欲が強く、慎重さに欠け、何事も勇み足気味実行してしまう性格でした。

皇極天皇の権力はもはや骨抜きにされており、蘇我蝦夷・入鹿の傀儡に成り下がってしまいます。643年、まるで天皇をも超越するかのような蘇我蝦夷・入鹿の絶大な権力を象徴する出来事が起こります。

朝廷を無視する蘇我蝦夷・入鹿

643年、蘇我入鹿は大臣の役職に就きます。本来、要職の任命は朝廷で行われ、天皇が氏族の代表者に対して行われるものですが、蘇我入鹿の大臣就任は事情が全く違います。

蘇我入鹿の大臣就任式は豪華絢爛な蘇我蝦夷邸で行われ、任命は天皇ではなく蘇我蝦夷の独断で行われました。この時期になると、もはや蘇我蝦夷・入鹿は朝廷にすら赴かなくなり、自らの手足となる部下を使って蘇我蝦夷邸の中で政治を行うようになっていました。

この朝廷を軽視した蘇我蝦夷・入鹿親子の専横的な振る舞いは、「まるで蘇我蝦夷邸が朝廷で、蘇我蝦夷が天皇のようだ」とまで言われるほどでした。

山背大兄皇子殺害事件

このような蘇我蝦夷・入鹿親子の独裁政治に多くの人々が不満を持つようになりました。(これが645年の乙巳の変の遠因となります。)

こうして人々は、推古天皇の頃のような天皇による政治を望むようになります。そんな中、蘇我蝦夷・入鹿対抗勢力として頭角を現してきたのが山背大兄皇子でした。

山背大兄皇子は、聖徳太子の息子であり人望もあり、そして血筋的にも天皇になる資格を持っており、蘇我蝦夷・入鹿にとって大きなライバルとして立ちはだかったのです。そもそも皇極天皇の即位も、本来なら古人大兄皇子を即位させたかった蘇我蝦夷が山背大兄皇子の勢力を考慮した結果の即位でした。当初から山背大兄皇子の存在は、蘇我蝦夷・入鹿にとっては邪魔な存在だったのです。

643年、蘇我入鹿はそんな山背大兄皇子をなんの理由もなく突如として殺害してしまいます。これは、まさに暴挙でした。父の蘇我蝦夷に「お前はなんてことをしたのだ。命が危うくなるぞ」と諭されたほどです。蘇我入鹿には父のような慎重さが欠けていたのです。蘇我入鹿としては、自らの権勢を活かし今のうちにライバルを滅ぼそうと思ったようですが、残念ながら愚行という他はありません。

蘇我入鹿による山背大兄皇子殺害事件は、蘇我蝦夷・入鹿の心象を決定的に悪くします。こうして世間には「蘇我氏は排除すべき!」という機運が醸成されていきます。

そしてこのような情勢の中、蘇我氏排斥を実行すべく立ち上がったのが乙巳の変の実行者で有名な中臣鎌足なのです。

【次回】

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