信西ってどんな人?平清盛との関係は?わかりやすく紹介【保元の乱と平治の乱】

今回は、保元の乱・平治の乱で活躍した人物の1人である信西(しんぜい)という人物について紹介してみたいと思います。

信西は当時、藤原頼長と並ぶの秀才と言われ、非常に知略に長けた人物でした。

【藤原頼長】 今回は、1156年に起きた有名な保元の乱の際に対立していた藤原頼長と藤原忠通について紹介します。メインは色々と(男色で)...

信西は、保元の乱・平治の乱の2つの乱を知る上で欠かすことのできない存在です。いわば保元・平治の乱のキーパーソンとも言えます。私のできる範囲で、そんな信西について紹介してみようと思います!

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出世の見込みのない信西

信西という名は出家後の名で、信西の本名は藤原通憲(みちのり)と言います。(一時期的に、高階氏の養子になっていた時代もあるので高階通憲と呼ばれることもあります。)

この時代になると、一言に藤原氏と言っても、様々な藤原家が存在し、摂関家で身分の高い藤原氏もいれば、そんなに地位が高くない藤原家も存在しました。(これは世代を積むにつれて、藤原氏の血を引く者が多くなったからです。)

信西は、どちらかというと「身分はそんなに高くない方の藤原氏」でした。当時は、家柄が重んぜられる時代でしたので信西に出世の見込みはなく、普通なら信西が後世に残るほど有名になることはありませんでした。しかも、信西が7歳の時に父が亡くなり後ろ盾を失います。

父を失った信西は、高階(たかしな)氏の養子になります。高階氏は比較的裕福だったようで、高階氏の下で信西は勉学に励むようになりました。

院近臣となる信西

成人した信西は鳥羽上皇の院近臣として活躍するようになります。家柄や身分が重んじられた時代、院近臣に関しては上皇が気に入った者であれば身分とは無関係に重用されることもしばしばでした。若く聡明だけど身分の低い信西にとっては、格好の活躍の場だったのだろうと思います。

しかし、院近臣に抜擢されただけでは「朝廷の官位」という点では出世の望みはありません。だからと言って信西が何もしていなかったわけでもなく、信西は院近臣時代、藤原朝子(ともこ)という人物と結婚します。1127年、信西が二十歳ぐらいの時でした。信西が意図してかはわかりませんが、この結婚は、後の信西の運命を決定的に変えた超重要な婚姻でした。

 失意の信西、出家する

院近臣として長年鳥羽上皇に仕えてきた信西ですが、なかなか高い官位になることができません。もちろん頭脳明晰で優秀な信西ですからそれなりの出世はできましたが、大納言や大臣級の役職となるとやはり身分の壁が立ちはだかります。

出世の夢を諦めた信西は、1144年、失意の中出家します。信西はその心の内を、同じ鳥羽上皇に仕え信西と並ぶ博識と謳われていた藤原頼長へ吐露しています。

これに失望した通憲は、無力感から出家を考えるようになった。通憲の遁世の噂を耳にした藤原頼長は通憲に「その才を以って顕官に居らず、すでに以って遁世せんとす。才、世に余り、世、之を尊ばず。これ、天の我国を亡すなり」と書状を送った(『台記』康治2年8月5日(1143年9月15日)条)。数日後、通憲と頼長は対面して世の不条理を嘆き、通憲は「臣、運の拙きを以って一職を帯せず、すでに以って遁世せんとす。人、定めておもへらく、才の高きを以って、天、之を亡す。いよいよ学を廃す。願わくば殿下、廃することなかれ」と告げ、頼長は「ただ敢えて命を忘れず」と涙を流した(『台記』康治2年8月11日(1143年9月21日)条)。

(出典:wikipedia「信西」)

信西と藤原頼長は保元の乱では敵対しますが、本来、この2人は同じ秀才同士、国を良くしたい!と志す同志でした。

信西の出家の意味

信西は出家後も出家後も鳥羽上皇に仕え、政治の世界からは離れませんでした。

これは推測ですが、信西の出家はあくまで「朝廷の官位は諦める」という決意を固める意味で出家したのであり、政治に対する信念は捨てていませんでした。そしてこれは、裏を返せば「朝廷官位は諦めるけど、別ルートで政治権力を掌握してやるぞ!」という信西の強い意思表明ではないのだろうか・・・と思います。

現に信西は、その後官位や身分が低いままであるにも関わらず、その頭脳明晰さを見出され、鳥羽上皇から深い信任を得てゆきます。

そんな信西ですが、大きな大きな転機が訪れます。それは後白河天皇の即位です。

信西の躍進、後白河天皇の即位

1155年、後白河天皇が即位すると信西の立場は大きく変わります。信西の妻の藤原朝子が後白河天皇の乳母であり、その立場上、信西も後白河天皇政権下で強い影響力を持つようになったのです。

ここでは詳しい話は省略しますが、後白河天皇の即位にはいろんな勢力の思惑があり、その背景はとても複雑ですが、信西も自らの権力を高めるため後白河天皇即位に暗躍していたと考えられています。

後白河天皇即位当時、信西は既に40代後半の年齢になっていましたが、ようやく自らの政治手腕を振るう機会を手に入れたのです。後白河天皇即位の翌年(1156年)、鳥羽上皇が亡くなった後に起こる保元の乱で信西は、その才知を世に知らしめることになります。

保元の乱の詳しい話は以下の記事を参考にどうぞ(この記事では省略します。)

今回は、人間関係が複雑でよくわからないことで有名な保元(ほうげん)の乱について紹介したいと思います。この記事だけでは...

信西の政治

信西は、昔のような天皇親政の政治を志していました。

信西は、保元の乱により後白河天皇の立場を脅かす可能性を秘めた崇徳上皇を排除し、それと同時に摂関家の氏長者だった藤原頼長・忠実をも排除することに成功します。

こうして政敵の消えた朝廷において、信西は後白河天皇の側近として政治手腕を振るうようになります。後白河天皇は今様という歌遊びに耽っており、政治のほとんどを信西に任せっきりだったのです。

院政と信西

1158年に後白河天皇は譲位し、院政を開始します。もちろん政治の実権を裏から握っていたのは信西でした。信西は様々な政治改革を積極的に行い、昔のような天皇親政の政治を取り戻そうと努めます。ここでいう天皇親政とは、「天皇が自ら政治を行う」という意味よりも「天皇を権力者として信西が側近として権力を振るう」という摂関政治的な意味で用いています。

当時天皇だった二条天皇の側近には信西の息子たちが送られ、信西は後白河上皇に近侍し、二条天皇を後見する立場から善政を実現しようと志していました。ところが、信西の政治改革や朝廷内での信西の振る舞いに不満を持つ者が次第に増えてゆきます。「今まで既得権益で甘い蜜を吸えていたのに信西が色々変えたせいでそれができなくなったぞ!」とか「なぜ信西は身分も低いのにあんなに偉そうにしてるんだ?」とか。

当時は、官位を得るにも土地の争いに関してもほとんど全てについて信西の了承を得る必要があり、信西は摂関家にも劣らぬ莫大な権力を手に入れるまでになっていたのです。

こうした信西の独裁政権に対する不満は、保元の乱に続く大きな内乱へと発展してゆきます。いわゆる平治の乱の勃発です。

平治の乱

保元の乱から3年後の1159年、権力を独占する信西に不満を持つ人々が反旗を翻します。反信西派の人々が突如として信西を襲撃し、信西を自害に追い込みます。こうして信西は無念の死を遂げます。(平治の乱の詳しい経過は別の記事にまとめる予定です。)

信西は公正明大な政治を目指し、これまで違法に利益を享受していた人々は信西の政治により痛手を被りました。また、自らのライバルになりうる摂関家を信西は完膚なきまでに叩き潰してしまいました。こうした急進的な政策を行う一方、信西の政治は民衆からとても評判が良かったそうです。信西の首が平安京で晒し者にされた時、多くの人が悲しんだ・・・なんて言われています。

まとめ

信西の人生は実に多くの出来事があり、正直この記事だけで全ては整理しきれていない感じがします・・・(汗。

信西の人生は、「下克上」の一言に尽きるように私は思います。身分が低く、一度は官位を諦め出家までした信西ですが、後白河天皇との関係やその秀才ぶりにより平治の乱で命を狙われるほどの権力を手にするにまで至りました。このような大躍進は身分や家柄を重んじる朝廷では一般的にはあり得ません。

また、信西のような人物が躍進した背景には、絶対的権力者が不在であり、天皇・上皇・摂関家・武士などの様々な勢力が離合集散する混沌とした政治にもありました。秩序なき朝廷は、実力さえあれば権力を得られる・・・というまさに戦国時代の「下克上」のような様相を呈していたのです。そんな激動の時代を象徴する存在こそが信西なのだと私は考えています。

藤原頼長と信西

実はこの時代、信西と同じく政治を大刷新しようと志した人物がもう1人いました。藤原頼長です。信西と藤原頼長は、具体的な友好関係は不明ですが、同じ秀才として政治の刷新を志していた同志でした。

ところが、藤原頼長の政治改革は苛烈を極めました。これに多くの人が不満を抱き、天皇にまで嫌われる始末でした。そして、最後は保元の乱で信西らにより命を落とします。そして、保元の乱の勝者となった信西も藤原頼長のように政治改革を目指しますが、結局、藤原頼長と同じ運命を辿り不満分子によって自害に追い込まれます。

平安時代末期、藤原頼長・信西と政治の刷新を目指す2人の秀才はいずれも志し半ばで倒れますが、この2人の志が実現することはありませんでした。その後の日本は平氏が朝廷を支配するようになり、さらに源頼朝による鎌倉幕府の創設により世は武士の世へと移り変わってゆきます。貴族から武士へ、そんな時代の移ろいの予兆を感じさせるのがこの2人の秀才たち生涯ではないか・・・と感じざるを得ません。

この時代、どうしても平清盛とか源義朝とか武士の活躍ばかりが目立ちますが、信西や藤原頼長など武士とは別の立場から政治を志した貴族たちのことを頭の片隅にでも入れておくと、当時の歴史をより知ることができるかもしれません。

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