誰でもわかるぞ!摂関政治とは【摂政の登場!清和天皇と応天門の変】2/4

seiwa

【清和天皇】

前回(誰でもわかるぞ!摂関政治とは【藤原道長だけじゃない摂関政治の真実】)は、幼少天皇の清和天皇が生まれるまでのお話でした。

清和天皇の時代、遂に皇族以外の摂政が生まれます。

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摂政とは?

摂政(せっしょう)とは、天皇が女性であったり幼かったりする場合に、天皇に代わって政治を執り行う役職を言います。

実は、摂政自体は平安時代より昔にあって、飛鳥時代に聖徳太子が推古天皇の摂政になったことがあります。

平安時代の摂政が画期的なのは、皇族以外の者(藤原氏)が摂政となることです。これにより、天皇家の血を引いていない者が日本という国の政治を自由自在にできるようになったというのが凄いところ。

一方、皇族以外の摂政の誕生は、天皇家の危機という側面があります。だって、天皇に実質的権限がなくなってしまうのですから。

しかし、これだけの強大な権力を持ちながら、藤原氏の中には自ら天皇に代わって日本国の君主に君臨しようとする者が一切登場しませんでした。これは、とても凄いことです。そして、外国の人々の多くが理解できない部分かもしれません。

天武天皇により、天皇は日本の最高神、天照大神の子孫とされました。八百万の神々を深く信仰心する日本人には、「天照大神の子孫のみが日本国の統治者たる資格を有する」という信仰があったのです。

だから、いくら偉くなっても自ら天皇になろうという人物は日本史上ほとんどいません。

と、少し話が逸れました。

意味深な藤原良房の太政大臣(だいじょうだいじん)就任

文徳天皇は、亡くなる前、「これまでお世話になった感謝の気持ちを込めて、藤原良房に太政大臣の官職を与えよう」と考え、良房を太政大臣としました。

太政大臣とは

当時の日本の官僚制度では、左大臣という役職が一番権限の強い役職でした。(次が右大臣)

太政大臣は、官僚制度上、左大臣よりもさらに偉い役職・・・ですが、名誉職の意味合いが強く実質的な権限がほとんどありません!

このことから、文徳天皇は、決して感謝の気持ちで太政大臣の官職を与えたのではなく、良房から実質的権限を奪うために太政大臣の官職を与えたのでは?という説もあるようです。

感謝の気持ちなら「左大臣」という強い権限を持つ官職もあるわけですから。

文徳天皇がどんな意図で太政大臣の官職を与えたのか、今となっては誰もわかりませんが、少なくとも藤原良房は、太政大臣として幼い清和天皇の代わりに政務を行っていました。

「摂政」という役職は、あったか定かではありませんが、太政大臣として摂政と同じ仕事をしていたことになります。

良房が、摂政たる所以がわかる当時の一大事件があります。それが応天門(おうてんもん)の変です。

独り立ちできない清和天皇 -応天門の変-

時代は866年。清和天皇は成人(元服)して、藤原良房にも頼らず、自ら政務を総括する立場になっていました。

しかし、清和天皇は、困難な局面に立ったとき、自分でどんな対応をすれば良いか決断することができませんでした。(子どもの頃から、良房の言うことばっか聞いてきたからか?)

そんな清和天皇の能力のなさが露呈してしまったのが応天門の変という事件でした。清和天皇は、この事件への対応を放棄し、すべてを良房に委ねてしまいます。

このとき、清和天皇が良房に対して発した発言が、「天下の政を摂行せよ」というものであり、この政(まつりごと)を摂行する役職こそが摂政というわけです。

この発言こそが、日本初の皇族以外の摂政が良房と言われる理由になっています。

応天門の変はどんな事件だったの?

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【応天門が燃えている様子】

応天門の変は、何者かが天皇が住む大内裏(だいだいり)という場所の近くにある応天門に火を付けた事件です。

実はこの事件、伴大納言絵詞(とものだいなごんえことば)という絵巻として記録が残っています。

この絵巻、結構面白いんです!

次回は、絵巻の絵もたくさん交えながら応天門の変とはどんな事件か?を見ていきます。

次:応天門の変の絵巻が意外と面白いww【伴大納言絵詞。誰でもわかる摂関政治】3/4

前:誰でもわかるぞ!摂関政治とは【藤原道長だけじゃない摂関政治の真実】1/4

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