三条天皇の悲しき生涯を知ろう!【眼病と藤原道長との対立】

前回の記事では、三条天皇と藤原道長との対立の様子を紹介しました。この記事ではそのクライマックス、つまり三条天皇退位までの様子を紹介したいと思います。

↓前回の記事

三条天皇と藤原道長の微妙な関係をわかりやすく解説してみる
1011年、賢帝一条天皇は病に伏し、そのまま崩御します。そして、即位したのが三条天皇でした。 一条天皇の在位期...
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三条天皇の眼病とその治療

前回の記事で三条天皇の眼病について少し触れましたが、三条天皇は眼病を治療するためあらゆる手段を講じました。その様子を知ると、平安時代の人々が病気にどのように向き合っていたのかがわかります。

天狗の仕業・怨霊の仕業

三条天皇は多くの薬を試したらしいですが、どの薬も効き目がなく、眼病は次第に天狗や怨霊の仕業だと考えられるようになります。

平安時代の人々は人智を超えるもの、運命的なものについてすぐに怨霊と結びつける癖がありました。そして、その治療法というのも非科学的なもので、加持祈祷により怨霊を追い払う・・・というものでした。

怨霊については、この以下の記事でも少し触れています。気になる方はどうぞ。

怨霊って一体何なの?平安時代の怨霊事情【菅原道真・平将門・崇徳天皇】
【崇徳天皇が怨霊になったところ。左上ね】 今回は、怨霊についての話です。 怨霊とは、不遇の死を遂げた人物...

藤原道長の執拗な嫌がらせ

前回の記事でも道長の嫌がらせの話をしましたが、この嫌がらせは恒常的に行われ、三条天皇を少しずつですが精神的に追い詰めていくことになります。(まさに陰湿なイジメです)。

そして、道長の嫌がらせは三条天皇の眼病の治療行為にまで及びます。

そうだ!神社に祈願しに行こう

薬も加持祈祷も効果がないことを悟った三条天皇が最後に頼ったのは神様でした。そこで三条天皇は各地の神社へ高官を派遣し、神へ祈願することにしました。三条天皇は諸社への祈願計画を6月に実行することを決めます。

道長の圧力と嫌がらせ

しかし、計画は遅延し、実際に行われたのは9月でした。そして、その遅延理由もなんとも微妙なものでした。

当日になるとなぜか、諸社へ向かう予定だった高官(公卿)たち都合が悪くなってしまいます。

病気になったので行けなくなってしまった・・・

使いの家に死体が見つかって、不吉なので行けません・・・」などなど

「まぁ、たまにはそんなことあるよね!」とも思いますが、そんな出来事がなんと7回も起こります。つまり、諸社祈願計画は7回も頓挫したことになります。しかもこれ、天皇の命令です。こんなことって普通ありえるでしょうか?

ここまで話をすると、なんとなく察した方も多いと思いますが、7回もの延期が行われたのは、明らかに道長が裏から糸を引いていたのが理由でした。道長が三条天皇と仲が悪いのを知っている公卿たちは、「道長の意に反することをし、目をつけられれば、朝廷内での立場を一瞬にして失いかねない・・・」と考え、三条天皇が心から望んでいた諸社祈願をボイコットしたのです。

そんなこんなで、結局、諸社への祈願が実現したのは9月になります。道長の嫌がらせに耐え、ようやく成し遂げた諸社への祈願でしたが、残念ながら祈願で眼病が治るはずもなく、最後の手段も効き目なしと悟った三条天皇は、絶望のどん底に陥ることになります。

その後の三条天皇はどうやらパニック状態だったようで、支離滅裂な言動を行なっていたことがわかっています。

「道長は俺を無理やり譲位させる気だ!絶対許さん!」と言ったかと思えば、なぜか道長に「摂政に準じた政務を行うように!」と指示を出したり、さらには譲位をほのめかす発言をするなど、その狼狽ぶりは相当なものだったようです。

実際に、三条天皇の心の中には「眼病を患った私に天皇たる資格はないのではないか?」という葛藤もあったのでしょう。

内裏の炎上

実は三条天皇の時代、内裏は2度も火災に見舞われることになります。当時は、電気はありませんから、灯といえば全て火です。なので、火災自体は結構頻繁に起きていました。

最初の火災は、1014年。この年は三条天皇が眼病を患った年でもあります。

問題は2回目の火災で、1015年に発生しました。1015年9月、1回目の火災で焼けた内裏の再建がやっとのことで終わったのですが、そのたった2ヶ月後の1015年11月、せっかく再建した内裏は再び火災で焼失することになります。

三条天皇、心が折れる

再建後わずか2ヶ月で再び内裏が炎上したことで、遂に三条天皇の心は折れます。当時の時代は、「天災の発生は天皇の徳が足りないからだ!」という考え方がありました。多くの人が「ついに天も三条天皇を見放したのだ」と考えていたことでしょう

ここに至って、藤原道長は遂に公然と三条天皇に譲位を迫るようになります。三条天皇のメンタルがへし折れた絶好のタイミングでの仕掛けでした。

こうして、三条天皇は遂に譲位することを決心します・・・。

三条天皇の最後の抵抗 ー敦明親王ー

1016年正月、三条天皇は譲位します。そして道長が長年望んでいた皇太子、敦成親王が後一条天皇として即位しました。

そして、後一条天皇が即位すると同時に、次期天皇、つまり皇太子を決める必要がありました。皇太子として選ばれたのは、三条天皇の第1皇子である敦明(あつあきら)親王という人物でした。

藤原道長の策略

敦明親王は、藤原娍子の子で藤原道長との血縁関係はなく、道長の立場にしてみれば絶対に天皇にはしたくない人物でした。(敦明親王が即位すると長年かけて築き上げてきた外戚の立場を失ってしまう!)

三条天皇の2人の妃、娍子と姸子については以下の記事を参考に。

三条天皇と藤原道長の微妙な関係をわかりやすく解説してみる
1011年、賢帝一条天皇は病に伏し、そのまま崩御します。そして、即位したのが三条天皇でした。 一条天皇の在位期...

しかし、三条天皇は自らの譲位との交換条件として、敦明親王の立太子を強く望んでいました。道長としても嫌いな三条天皇ですが、これを無下にすることもできず、この要求を飲むことにしました。

・・・が、三条天皇に執拗に嫌がらせをし、精神的に追い詰めていった道長がこんなにあっさりと敦明親王の立太子を認めるはずがありません。

三条天皇の死と敦明親王の皇太子辞退

三条天皇は、1016年に譲位しましたが、その翌年1017年に亡くなります。自らの望み通り、敦明親王を皇太子にすることができた三条天皇は、最後の最後に報われた気分で崩御されたことでしょう。

しかし、三条天皇という後ろ盾を失った敦明親王の状況は惨めなものでした。道長は得意の精神攻撃により、敦明親王の心を折り、皇太子を辞退させます。

正直、こうなることは少し考えればわかるはずで、三条天皇の考えが浅はかだったと言うしかないと思います。例えば、一条天皇は敦康親王を天皇にしたいと考えていましたが、後ろ盾のない敦康親王を立太子すれば、いずれ敦康親王自身を苦しめることになりかねないと考え、敦成親王を天皇とすることに決めています。

悲劇の天皇、三条天皇

三条天皇の治世は4年、その生涯は「悲劇の天皇」と呼ぶにふさわしいものでした。

・藤原道長との対立。道長の執拗な嫌がらせ

・眼病の発症

・2度の内裏炎上

三条天皇はこれらの難題に直面し、自分の望むことはほとんどできませんでした。そもそも道長と対立は、「道長に邪魔されず、自ら政治を行いたい」という三条天皇の強い意思表明でもありました。三条天皇自身は、天皇としての自覚を持ち、ちゃんとした政治を行いたいと考えていたのではないかと思います。

しかし、そんな理想も虚しく、「天皇親政」「敦明親王立太子」という願いはどちらも叶うことはありませんでした。唯一、三条天皇にとって救いだったのは、敦明親王が皇太子を辞退したことを知る前に崩御できたことでしょう。

次回は、後一条天皇の治世について紹介しようと思います。後一条天皇の時代は、藤原道長が有名な「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という一句を詠んだ時代であり、道長の絶頂期に当たる時代です。(言い方を変えれば、この時代がピークであり、それ以降、貴族の立場は少しずつ衰退していきます。)

余談 ーゆとりすぎる貴族たち

長い間、道長の話をしてきましたが、そろそろクライマックスが近づいてきました。道長の話をすると、必然的に天皇を中心とした権力争いの様子を描かざるを得ないわけですが、その様子はお世辞にも「立派に国を統治している」とは言い難いです。要は、朝廷の高官たちはひたすらライバルを蹴落とし天皇にお近づきになる・・・ということを繰り返しているだけであり、「日本のために頑張ろう!」と思っていたかは甚だ疑問です。

そして、朝廷内の人間関係をひたすら追うような歴史の解説は、何も知らない方にとってはとても退屈なものに映るかもしれません・・・(汗

貴族たちが権力争いに明け暮れてしまったのは、日本の地勢上周りに目立った外敵も存在せず、平和だったが故に起きた弊害とも言えるかもしれません。まさに平和ボケ状態です!

・・・と、貴族批判をしてみたわけですが、これは後世に生きる我々だからこそ言える意見であって、当時の貴族たちにとってはそれが当たり前で、みんな必死に自分の立場・家を守ろうとしていたはずで、一辺倒に「貴族がだめ!」とは思いません。そして、貴族が何も仕事をせず、遊んでばかりいた・・・とも思いません。

しかし、平安貴族たちの有職故実に則った儀式中心の実利主義ではない政治のあり方には、たとえ平和な日本であっても限界があります。そして、限界点に達した時、新しい新興勢力に飲み込まれることは当たり前のことであり、その後に起こる院政や武士の台頭というのは当時の政治のあり方を踏まえれば必然的な出来事だったんじゃないか?・・・ということを感じざるを得ません。

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