仁和寺の歴史と見所を簡単にわかりやすく【宇多天皇の想い】その1

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京都の仁和寺と言えば、なんと言っても有名なのは桜です(紅葉もかな?)。桜が咲く時期になると観光客でごった返します。

でも、せっかく仁和寺に行くなら桜だけじゃなく、ちゃんとお寺のことを知ってから観光したくありませんか?

というわけで、今回は仁和寺の歴史と見所についてわかりやすく紹介します。

仁和寺の歴史の始まり

仁和寺が建てられたのは仁和4年(888年)。平安時代です。

創立者は、宇多(うだ)天皇という天皇。宇多天皇の前代の天皇である光孝天皇が886年に寺を建てようとしましたが、その翌年887年に光孝天皇は崩御(ほうぎょ。亡くなること)してしまいました。宇多天皇がその光孝天皇の遺志を受け継いで建立したお寺が仁和寺です。

仁和寺を建てた宇多天皇の時代が、どんな時代だったのか簡単に見てみましょう。

阿衡の紛議(阿衡事件) -弱体化する天皇-

宇多天皇の時代に起きた有名な事件に阿衡の紛議(阿衡事件)というのがあるので、簡単に説明します。

※詳しくは、わかりやすく解説!阿衡の紛議とは?菅原道真と宇多天皇という記事で解説しているので、詳しく知りたい方はそちらをご覧ください。

阿衡の紛議とは、ものすごくざっくりと言うと、藤原基経(藤原道長のご先祖様になります)という強大な権力を持つ男が自分の就きたい役職に就けなかったので、仕事をボイコットして天皇を困らせて無理やり自分の望む役職に就かせた事件です。

事件自体は地味ですが、藤原氏の強大な力に天皇でも簡単に逆らえなくなってしまった象徴的な事件として日本史の教科書に載っています。

天皇の無力さを痛感する宇多天皇

宇多天皇は、阿衡の紛議を通じて自らの無力さを痛感します。

こんなイメージです(以下、勝手な妄想です。)

宇多天皇「一昔前、聖武天皇や桓武天皇の頃は、天皇主導の下、政治を行えていた。でも今は違う。藤原氏が強くなりすぎたせいで、天皇であっても藤原氏の意見がなければ自由な政治は行えない・・・。」

宇多天皇「このままだとヤバい。何がヤバいって天皇が藤原氏の操り人形になってしまう。一体天皇とは、なんなのだろうか・・・」

阿衡の紛議は888年に起きた事件であり、仁和寺の建立と同じ年になります。

宇多天皇はちょうど自らの無力さを痛感していた頃に、仁和寺の建設を始めたことになります。心中複雑な想いだったことでしょう。

宇多天皇の藤原氏対策 -菅原道真の登用-

宇多天皇は、藤原氏がこれ以上強くなるのを防ぐため、藤原一族以外の人物を側近として登用することにしました。それが学問の神様で有名な菅原道真(すがわらのみちざね)です。

※菅原道真の話は詳しくは、

菅原道真はなぜ左遷され祟りを起こしたか?超丁寧に解説する。1/3

遣唐使廃止の理由とは?【菅原道真のすべてを解説!】2/3

菅原道真の左遷と学問の神様になった理由【昌泰の変】3/3

という記事で紹介しています。気になる方は見てみてくださいね。

この菅原道真の登用に危機感を覚えたのが藤原時平(ふじわらのときひら)という人物。

こうして、朝廷内では菅原道真VS藤原時平というライバル関係が生まれました。藤原氏の力は強大だったものの、菅原道真は宇多天皇のサポートもあり、朝廷でも非常に強い力を持つことができました。

宇多天皇は、譲位(じょうい。天皇を辞めて、次の者に譲ること)した後も菅原道真をサポートし続けていました。しかし、宇多上皇(じょうこう。天皇が譲位すると上皇と呼ばれる。)は次第に仏教にハマってしまい、政治をしなくなります。

菅原道真は突如として梯子を外されることになりました。

宇多上皇「出家するわ。菅原道真は1人で頑張れ」

仏教にハマっていった宇多上皇は899年、遂に出家します。宇多上皇が自ら建てた仁和寺を住処とするようになりました。

こうして政治にもあまり口出しをしなくなりました。

後ろ盾を失い左遷させられた菅原道真「・・・(茫然自失)」

宇多上皇が仏教にハマって出家し、仁和寺に住むようになり一番困ったのは菅原道真。菅原道真は、宇多上皇の後ろ盾があってこそ力を振るえていたのに、その宇多上皇が政治の世界からいなくなってしまったわけです。

このチャンスを藤原時平は見逃しません。

力を失った菅原道真は、901年、言いがかりをつけられ京都を追い出され大宰府へ左遷させられてしまいます。この事件を昌泰の変と言ったりします。

菅原道真の左遷は、藤原時平による策略であり、菅原道真の左遷により再び朝廷では藤原氏が強い影響力を持つことになります。

藤原氏一強時代へ

結果的に宇多上皇は藤原氏の力を抑えることに失敗します。この後、藤原氏はさらに朝廷内で力を持つようになり、藤原氏の全盛期である藤原道長の時代へとつながっていきます。

仁和寺を建立した宇多天皇は、力を増す藤原氏の力に苦しみ、抵抗し続けましたが、結果的にそれは失敗。仏教を深く信仰し、晩年は仁和寺で過ごしました。

仁和寺は皇族と深い歴史のあるお寺

出家した宇多上皇は、今でいう仁和寺の住職になりました。皇族の人が住職を務める場合は住職ではなく門跡(もんせき)という言葉が使われます。

つまり宇多上皇は門跡となったわけですが、その後も仁和寺にはずっと皇族の人たちが門跡となり続けることになりました。

皇族の人が門跡(住職)である寺院は門跡寺院と呼ばれ、特に鎌倉時代には格式の高い寺院と見なされていました。

格式の高さは、現在の仁和寺まで受け継がれています。宮廷様式の建築物や華やかな桜や紅葉、その敷地の広さや庭園の美しさは初代門跡の宇多上皇を始め多くの皇族たちが住むにふさわしい優雅さを物語っています。

仁和寺の優雅さ

以上のように、仁和寺は宇多天皇を初代として多くの皇族が暮らす場所となっていました。さらに、仁和寺は門跡寺院の中でも特に格式の高いお寺であったため、他のお寺とはちょっと違った優雅な雰囲気が漂っています。

有名な仁和寺の桜も、門跡寺院として格式の高い寺院であった名残と言えるでしょう。

まとめ

今回は、仁和寺の歴史。特に創立者の宇多天皇の話を中心に仁和寺の紹介をしました。

見所について説明しきれなかったので次は、仁和寺の見所について紹介する予定です。(現在作成中・・・)

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