平重衡の南都焼き討ちを簡単にわかりやすく紹介!

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今回は、源平合戦に起こった戦いの一つである南都焼き討ちについて紹介しようと思います。

 

南都焼き討ちは、平家に歯向かう奈良の寺院勢力(主に東大寺・興福寺)と平家軍による戦であり、戦火が拡大し興福寺・東大寺の建築物や仏像を焼きつくしてしまった事件です。

 

日本の文化財保護という観点から見れば、これほど愚かな戦いはありません。南都焼討の張本人だった平家は、後世の人々から多くの避難を受け続けることになります。

 

実際に東大寺に行ってみるとわかりますが、実は東大寺には鎌倉時代以前の建築物はほとんどありません。戦火から免れたのは外れにある建築物だけ。主要な建築物は全て南都焼き討ちで焼失してしまいました。

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南都焼き討ちの背景

平清盛は神や仏を掲げて強訴してくる寺院勢力を恐れていました。鹿ケ谷の陰謀事件の経過からもそのことがわかります。

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平清盛は、興福寺などの大寺院が強訴によって政治に深く介入してくるのを嫌い、1180年に周囲の反対を押し切り、福原京への遷都を強行します。(遷都の理由は、寺院勢力のせいだけではないと思いますが)

 

ところが、1180年10月の富士川の戦いでの敗北により状況は大きく一変します。平維盛の惨めな敗走を知った多くの者は、この機会を逃さんとばかりに次々と平家に対して謀反を起こすようになったのです。関東を中心に起こった平家に対する反乱は、近江や美濃など平安京に近い場所へと拡大してゆきました。これに危機感を感じた平清盛は、福原京変を断念し平安京へと戻ってきます。結局、福原京遷都は、平安京やその周辺に住む人々に強い不満を与え反乱拡大を助長しただけでした。

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特に1180年11月に起こった近江で起こった反乱は、平家に所領などを圧迫されていた園城寺や興福寺も便乗して参加しており、これらの大寺院は平家にとって無視できない存在になります。以仁王が挙兵した当時、園城寺や興福寺が以仁王に協力的だったことからもわかるように平家と園城寺・興福寺との関係は元から微妙なものであり、この近江反乱によって両者の関係は完全に決裂することになります。

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そして1180年12月、平家軍が反発を強める興福寺に対して鎮圧軍を派遣して起こったのが南都焼き討ち事件というわけです。

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南都焼き討ちの経過

12月25日、平家は平重衡(たいらのしげひら。清盛の息子!)を総大将として興福寺に兵を送ります。

 

戦局は平重衡の優勢。戦火を広げて行く平重衡ですが、その戦火が興福寺や東大寺にも拡大し、奈良の大仏や多くの寺院が焼失してしまいました。

 

この平重衡による戦火は、多くの貴重な文化財を焼いた悪名高き戦火となり、後世、多くの批判を浴びることになります。

寺院焼失は意図的か?

ところで、そもそも平重衡は寺院に火を放つつもりはあったのでしょうか?

 

一般的には平重衡に放火の意図はなく、風の影響などで戦火が平重衡の想定以上に広がってしまって大寺院が焼失した・・・と言われています。

 

当時の人々(特に貴族などの高い身分の人)は、仏教をガチで信仰していました。

 

東大寺は、奈良時代に聖武天皇が建立した皇族ゆかりの大寺院。そして興福寺は、藤原氏の氏寺。東大寺や興福寺を燃やしてしまえば、ガチで仏教を信仰する皇族や藤原氏などが一挙にして平家の敵になる可能性を秘めています。富士川の戦いの敗北やそれに続く反乱により苦境に立たされている中、自らの首をさらに締め付けるようなことを平清盛が指示するとは思えません。平清盛の意図はあくまで大寺院の軍事力を排除することにあったと私は考えます。

そして、後述しますが平重衡自身もその人柄や最後の死に様を知ってしまうと意図的に寺院を燃やしたとはどうしても考えられません。

 

今となっては真相はわかりませんが、いずれにせよ東大寺や興福寺が焼け落ちてしまったのは事実。そして、この事件は平家にとって暗い暗い影を落とすことになります。

高倉天皇と平清盛の死

上述のとおり、平重衡の南都焼討は、世間からとてつもない非難を受けることになります。平家のトップだった平清盛には仏敵という汚名を着せられました。

 

南都焼き討ちから少し経った1181年1月、病に倒れた高倉天皇が亡くなります。さらに、その1ヶ月後の2月には平清盛までもが亡くなります。

 

「これは仏の罰に違いない!」と朝廷内では多くの人々が慌てふためき、人々は恐怖に包まれます。

 

仏罰が本当にあったかはわかりませんが南都焼討の後、高倉上皇と平清盛の死により平家の力は大きく衰え、さらには平家一門は多くの人を敵に回すことになってしまいました。

 

状況的に寺院の僧兵をなんとかしなければならない状況にあったとはいえ、平家にとって南都への派兵は完全なる悪手となってしまったのです。

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南都焼き討ちと平重衡の生涯

さて、大寺院を焼き尽くしてしまった平重衡。この人物のその後の生涯について少し紹介しましょう。平重衡の生涯を知ると、平重衡が決して好んで寺を燃やしたわけではないことがわかるはずです。以下、「平家物語」という物語の内容に基づいて平重衡について紹介してみます。

 

平重衡は、源義経の逆落としで有名な一ノ谷の戦いで敗北。源氏に捕らえられ、一時京都で監禁されますが、その後源頼朝のいる鎌倉へと送られてゆきます。源頼朝にとって、平重衡は絶好の人質要因だったのだろうと思います。鎌倉に送られた平重衡は、しばらくの間、鎌倉で丁重に扱われたようで平穏な日々を過ごします。

仏教に深く帰依する平重衡

平重衡は関東送りにされる直前、平重衡の監視人に次のようなお願いをします。

 

平重衡「お願いします。関東に行く前に一度で良いので法然様と会ってお話しする時間をください。マジでお願いします・・・。

 

法然(ほうねん)は、浄土宗という宗派の開祖。監視人は「法然ならば、会っても良いだろう」とこれを許可。法然を前にした平重衡は泣きながらに自らの心境を語り、法然からありがたい言葉をいただきます。

 

法然と語り合い、心の迷いを払拭した平重衡は鎌倉へと向かいました。

興福寺・東大寺の復讐

1185年、壇ノ浦の戦いにより平家は滅亡。この戦いの後、興福寺や東大寺などの南都の僧たちは南都焼き討ちの罰として平重衡を処刑するため、平重衡の引き渡しを源頼朝に強く要求します。

 

源頼朝はこれを承諾し、平重衡を鎌倉から奈良へと連行。平重衡はイケメンで優しいし、社交性もあって歌も上手い。平重衡は人質でありながらも鎌倉では多くの人に好かれていたようで、処刑されるために奈良に向かわなければならない平重衡のことを鎌倉の人々は大いに悲しんだ・・・と言われています。

 

奈良に連行された平重衡は斬首。平重衡は「死ぬのなら阿弥陀如来の像の前で死にたい」と望み、処刑の際は阿弥陀如来の像の前で殺されたと言います。

 

「平家物語」の内容の全てが事実ではないとは思いますが、平重衡の信仰心はおおむね事実なんじゃないかと考えます。平重衡が南都を焼き払ってしまったのは、やはり想定外の出来事だったのだと思いたいです。

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南都焼き討ちと東大寺復興

興福寺や東大寺の焼失は、人々にとってカルチャーショックすぎる大事件でした。これは、平家がこの事件によって一瞬で孤立してしまったことからもわかります。

 

特に東大寺の大仏は当時としては桁外れに大きい仏像(今でもかな?)。日本における仏教のシンボルのような存在になっていました。ということで、南都焼き討ちの後すぐに東大寺復興の運動が始まります。

 

いずれ別の記事でちゃんと紹介したいと考えていますが、重源(ちょうげん)という偉大な僧によって東大寺はみるみるうちに復興。1185年には大仏が復活します。1181年〜1185年は、源平合戦の真っ最中の混沌とした時代。さらには途中に大飢饉に見舞われるなど、東大寺の復興は決して簡単なことではありませんでしたが、重源の並外れた才がそれを可能にしました。

 

そして、南都焼き討ち後の東大寺復興により建てられた建築物で現代にまで現存しているのが有名な東大寺南大門です。さらに、東大寺南大門の両脇に控えている金剛力士像は、誰もが一度は聞いたことのある運慶(うんけい)・快慶(かいけい)という超一流仏師により造られました。

 

 

南都焼き討ちによって多くの貴重な文化財が失われた一方、その復興によって重源による独特の建築技法を残した東大寺南大門や運慶・快慶による仏像など新たな芸術・文化が後世にまで残ったわけで、もしかすると一辺倒に南都焼き討ちを避難することはできないのかもしれません。

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南都焼き討ちまとめ

南都焼討によって周囲を一気に敵に回し、高倉上皇・平清盛を失った平家は苦境に立たされることになります。この翌年の1182年、源氏との戦況は膠着状態を維持できたものの、平安京内では大飢饉が発生。多くの者が餓死し、平安京内の治安は悪化。混沌とした状況が続きます。

 

そして1183年、以仁王の令旨によって立ち上がった源義仲が遂に平安京入りを果たし、これに対抗できない平家一門は、追い出されるように平安京を離れ西へと逃げ出します。いわゆる都落ちというやつです。高倉上皇・平清盛の死、南都焼討によって平家から離れる貴族たち、そして1182年に見舞われた大飢饉で平家の勢力はボロボロになってしまったのです。

 

結果的に南都焼き討ちによって平家の勢力は大きく衰退することになります。もしかすると当時の人々が本気で信じ、恐怖した仏罰というものは案外本当に実在したのかもしれません。

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